ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:モノそのものの権利 『環境の倫理』③

今回もこの本について書きます。

環境の倫理〈上〉

環境の倫理〈上〉

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 晃洋書房
  • 発売日: 1993/04
  • メディア: 単行本
 

  前々回は動物の権利について、前回は未来世代の権利についての章を読みましたが、今回は「自然物の権利」について書いてある章を読みました。

 最近読んだ雑誌『現代思想』(2019年9月号、2019年11月号)のなかに、「ロボットの権利」にかんする論考が載っていました。完全な無生物に対する権利を考えるなんて奇妙なことだ、と思いましたが、SF作品で描かれる機械の反乱みたいな概念や、AI技術の著しい発展を念頭に読んでみると、そう突飛なことを言っているわけではないという見解に落ち着きました。

 ただロボットの場合、権利を考慮すべき対象として「快苦を感じる機能を備えたロボット」を想定しています。ここでいう快苦はもう少し厳密にいうと、好ましい外部刺激と好ましくない外部刺激を判別することができる能力と理解されており、ロボットが感情を持つ・持たないということは関係ありません。詳しくは、『現代思想 2019年9月号』「ロボットは権利を持ちうるか? そして権利を持たせるべきか?(岡本慎平)」をご参照ください。

 このロボットの件をきっかけに、無生物に権利を与えるというのはどういうことなんだろうという疑問を持っていたのですが、実際のところ具体的なイメージを持てずにおりました。『環境の倫理』は動物倫理のことを学ぶために手に取った本ですが「自然物の権利」という章があったため読んでみました。なんとなくではありますが、自然物の権利をどのように考えるとよいかがつかめた気がします。

 本書は、生物学者W. H. Davisと、本書の編者K. S. Shrader-Frechetteがそれぞれ自然物の権利を認めるべきだと主張している論文を2本収載しています。

価値と費用ー土地の値段

 W. H. Davisは論文のなかで、自然、とくに土地と植物が、地球上で最も価値のあるものだと主張します。土地と植物があるおかげで、太陽エネルギーや無機物質が動物たちに利用可能な形に変換されて、地球上で循環するからです。

 次に引用する部分は、自然物の権利そのものとはあまり関係ないですが、感じるところがあったので書きつけておきます。

 私たちがなぜ、成長は進歩だという考えに誤って導かれたかというと、それは、私たちが費用と価値の違いについて根本的に誤解をしているからである。土地や家について話すとき、私たちはこれらの言葉を、交換可能な同義語として使う。ところがこれらの言葉は、実際には反意語なのだ。(W. H. Davis, p. 155)

私の家の裏の土地は、農業用地として区画されている。農業用に買われた土地は、一エーカーあたり三〇〇ドルで売れる。ところが、宅地用に区画が変更されると、その費用は一エーカーあたり一万五〇〇〇ドルに跳ね上がる。商業用地に変更されたなら、その土地の費用は、もうひと跳ね急騰することだろう。(p.156-157)

  宅地や商業用地は、人が集まることで「交通渋滞、騒音、スモッグ、高い犯罪率、麻薬常用」などを引き起こし、「価値」は低い。それでも価格が高いのは、「費用」がかかるからである、というようなことを言っています。詳しく検討するとちょっとわからないところもあるのですが、言わんとすることはなんとなく伝わります。たしかに、東京の土地は高いですが、だからといって買って住みたいな♪ とは一切思いません。それは僕が、東京の土地に価値を感じていないからでしょう(東京での経済活動で得られる貨幣価値が反映されているのでしょうが、それは本当の価値なのか?というところですね)。

 本来の価値は価格じゃない、ということを強調して、自然環境保護と自然の持つ権利へと話をつなげているのが、Davisの論文でした。理念的な話が中心となっているDavisの論文に対し、実際的な議論は次のK. S. Shrader-Frechetteの論文に詳しく書いてありました。

自然物の権利

 数十年前に、アメリカの野生生物生態学者であるアルド・レオポルドは、「所有物」という言葉が持っている危険な含みを指摘した。彼は、オデュッセウスがトロイの戦いから帰還して、留守中に不埒な振る舞いがあったとみなした十二人の奴隷少女を、どうして縛り首にしたのかを述べている。「この縛り首の処置に、適否の問題はなかった。少女たちは所有物だった。所有物を処分することは、当時も、現代と同じく、便宜の問題であって、正・不正の問題ではなかった」。(K. S. Shrader-Frechette, p.162)

 これは、Shrader-Frechetteの論文の冒頭部分です。現在、土地やその他の自然物は人間の所有物と考えられているが、奴隷少女の例をみて何か思うところはないか?という問題提起を行ったうえで、「環境の倫理を認めるための倫理的、かつ法的な根拠がある」という主張を展開していきます。

論文内ではおおむね次のような内容が検討されています。

  1. 自然物の権利を侵害されたときに訴訟するとして、誰が裁判の主体になるのか
  2. 自然物の権利を承認するとして、それが誰の役に立つのか

 1. に関しては法律的なことだったり制度的なことだったりで、重要ですが煩雑で、退屈な話でした。2. について書かれていたことはかなり心に残ったので、ぜひとも忘れないようにしたいためここに引いておきます。C. D. Stone(南カリフォルニア大学*1の言を引きながら、次のように説明しています。

 ストーンが指摘しているように、そのような要求に答えるもっともよいやり方は、別の問いで応酬することである。「白人が、白人の優先される権利状況を黒人との妥協によって解決するよう要求されるとき、白人は経済的負担について同じ問いを発することはできないのではなかろうか」。あるいは女性の権利が認められるよう要求されるとき、男性は「私にとって、それが何の役に立つのか」と問うことはできないのではないか。このような二つの問いを提起することによって示されているのは、権利の承認に対する道徳的正当化は、すでにそのような権利を享受している人々の利益の観点からはなされる必要はないし、また実際のところ、それは多くの場合なされえないということである。(p.171)

  これを言われたらなにも言えないなぁ、という感覚になりました。このストーンの指摘は動物の権利や、未来世代の権利についても同じようなことを言えるな、とも感じます。まあ、これを言ったところで「黒人や女性に配慮は必要でも、ほかのものに配慮は必要ない」と強く主張されればそれまでですが。このことを念頭においてか、筆者は結論部で「道徳的感受性を広げ、正・不正に関する固定的な考えに陥らないようにしよう」と記しています。

権利を“認める”ということ

 これまで本書の「動物」「未来世代」そして「自然物」の権利にかんする話題を眺めてきました。ひとつ感じたのは「偉そうだな」ということです。

 動物に関しても未来世代に関しても、自然物に関してもそうですが、人間が勝手に作った「権利」という概念を、与えるべきだ、与えるべきでない、と上から目線で議論するような構図になっているのです。奴隷制先住民族、女性などの権利論も同じことで、たまたま数の多い集団が作ったルールをどうやってあてはめましょうか、という議論にしかなっていません。もっというと、今ある人々の権益をいかに分配するかというところで論争になっています。

 ただ、権利を与えるべきだと主張する側は「もともとそこにあったのだから認めるも何もない、とにかく勝手に制限を加えるな」という立場から論じていれば、この「偉そうさ」とは無関係になります。

 少し前、北海道は紋別市アイヌ民族の方が、違法な漁を行ったということで取り調べを受けたという事件がありました。

www.tokyo-np.co.jp

 人間同士のことでも、同じ地平の問題が起きています。アイヌ民族だけではなく、権利が認められた雰囲気になっている女性や同性愛者、トランスジェンダーの方々についても問題は山積みです。おそらく黒人差別もあるところにはまだ全然あるでしょう。付け焼き刃ながら、権利認定について学んでみましたが、権利を認める(この言葉はちょっと使いたくないですが)対象がなんであれ、原則的にはだいたい同じ方法で権利を擁護できるだろう、という感覚を得ることができました。

 とはいえ、ここで自分はどうすればいいのかというところに立ち返ると、また立ち止まらざるを得ません。できることからひとつずつ、というふうに言うのはキレイですが、自分は無力だ、という考えが学べば学ぶほど強まってきます。権利侵害や権利尊重に敏感になって、それにかなうようできる範囲で自分の行動を選択できるよう改善するつもりはありますが、それは罪悪感を減らせるように行動を選択しているにすぎないのではないのか、という気持ちも強く残ります。いろいろなものの権利を侵害する法律を備えた国家の成員として暮らすこと自体が罪だという感覚に苛まれ、制度の変更に精を出すor死みたいな考えも浮かびます。一生悩むしかないのでしょうが、一生悩むしかないですね、と結論付けて終わりにするのも嫌です。解決したい。