ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:動物のことをどう考えたらいいだろうか 『環境の倫理 上』①

今回はこの本を紹介します。

環境の倫理〈上〉

環境の倫理〈上〉

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 晃洋書房
  • 発売日: 1993/04
  • メディア: 単行本
 

 僕がこのブログを書き始めた理由にはいろいろあるんですが、その一つに、次のブログにあこがれたからというのがあります。

davitrice.hatenadiary.jp

 このブログでは、筆者のもつ倫理学の素養を下敷きにしていろいろな身近な問題について意見を展開したり、本を紹介したりしています。考え方に共感したり、反感をもったりしながらこのブログをちょくちょく読むのですが、ブログ筆者はタイトルからもわかるように動物倫理に強い関心のある方です。

 たとえば次の記事なんかは、非常に読み応えがあり、このブログの意図するところの「人々に対する啓蒙」にかなり成功しているように思いますし、とてもありがたいです。一度読んでみると、気づいていなかったこと、いかに自分がものを考えていなかったり無視していたのかがわかります。

動物に関する文化人類学の議論の有害性について - 道徳的動物日記

動物倫理とポストモダン思想 - 道徳的動物日記

『動物と、ポストモダニズムの限界』 by ゲイリー・シュタイナー - 道徳的動物日記

 僕自身、現在休職中で時間があることもあって、最近哲学・倫理学の文献を好みの赴くままに読み漁っているのですが、このブログの影響もありどうしても動物倫理の話に目が行ってしまいます。そして、考えているとほんとうにどうしたらいいかわからなくなります。

 

 今回紹介する本『環境の倫理』には、動物倫理界隈での一里塚ともいってよい、ピーター・シンガーの論文が収載されています。これを読むために本を取り寄せました。本書は全部で12章から構成されていますが、そのうちの1章が動物倫理に割かれています。シンガーの論文と、それに反論するM. A. フォックスの論文がまとめられています。この記事は、自分の問題意識の整理から始めて、本の内容の検討をしていく形で書こうと思います。

 この本はほかにも「未来世代への権利」や「自然物への権利」など今自分の興味があることを扱った章があるので、それらについても別記事を書きたいと思っています。

問題点の整理:自分はどうしたらいいのか

 まず、いま自分はいくらでも肉を食べるし、もっというと夕食に肉類を必ず取り入れるように気をつけてさえいます。それに、(自分の快楽のためだけに!)ハムスターをペットとして飼い、日々過ごしています。

 このことについて、よくある納得の仕方は、「いのちをいただいていることを意識し、感謝しながら食べよう」、「ハムスターは、愛情をもって育ててあげれば幸せだし、その幸せを維持していくことに努めなくては!」という感じでしょうか。でも、よくよくいろいろな事実や思想に触れると、ここをゴールと考えるのはきわめて不誠実だし、なにより頭でモノを考えてないというか、端的にいって馬鹿っぽいのでよくないんじゃないかな、と思うようになりました。

 というのは、冒頭で紹介したブログのなかの言葉がこの欺瞞をがっつりとついていたからです。

菜食主義までいかずとも、「理由もなく動物に苦痛を与えることは非倫理的である」「動物の殺害は不正である」という前提が導き出すことになる様々な具体的な結論の多くに対して、私たちは反感を抱いて否定したいと思うだろう。しかし、倫理学や道徳とは、私たちの感情や気持ち…多くの場合には、利己的なエゴや欲求、あるいは文化的な偏見に影響されているもの…に反することも行うように要求するものなのだ。

動物倫理とポストモダン思想 - 道徳的動物日記

 動物の権利にかんする主張は、どうしてもいま僕らの社会が構築しているシステム―たとえば畜産業や動物実験―と対立してしまいます。一方で、動物の権利にかんする反論の多くは、「自分がしている道徳的に悪いことをどのように正当化するか」という構造に収まってしまうように思えるのです。

 キリスト教は、「原罪」という考え方を受け入れる、多くの信者を擁する巨大な宗教です。そういう人たちが多く存在するなかで、人間が動物をどのように扱うかをみたときに、「道徳的に悪いことをしていることを受け入れて暮らす」という方法をとるのは不可能ではないというのが、いまの自分なりの結論です。こうすることがもたらすメリットはあります。動物に対する考慮・配慮を重ねる動機になるので、現状の動物の取り扱いの改善の圧力になることと、これ以上悪化させないための壁になることです。一方でデメリットは、意見の相違で争いが生じることや、この考え方でひどく気に病んでしまい元気に暮らせなくなってしまうことです。パッと思いつくのは、反出生主義の帰結みたいな、人類は絶滅したほうがよい、という考え方にもつながります。(本当は絶滅したほうがよいのかもしれないですが)

 人間の動物に対する接し方を正当化する主張では、「動物に権利を認められない理由がある。それはこれこれこうです」という論と、「動物の権利擁護の論者のこの部分が誤っている」という論とが組み合わされて展開されます。もちろんそこに根拠や理はあるのですが、「動物の権利を認めない理由を探すこと」がそもそもなんだか僕にとってはうしろめたく感じます。その理由は、シンガーの論文があまりにもよくできているからかもしれませんし、これまでの人生で培った倫理観がそうさせているのかもしれません。このことは、文章の最後(動物の権利問題への反論に思うこと)で再度言及します。

シンガーの主張:種差別という概念

 動物の権利にかんする主張は、ピーター・シンガーの「動物の解放」(1975年)に書かれています。これはもともと、『動物・人間・道徳』という本の書評として発表された文章で、これが『環境の倫理』に収載されています。

 この論文で述べられているなかで最も重要と感じたのは次の部分です。

黒人解放や同性愛者の解放、そのほかさまざまな解放運動のことはよく知られている。女性の解放がなしとげられたとき、解放を目指すわれわれの歩みは終るのだと考えた人もいる。(中略)だが、「差別の最後に残った形態」と言おうとするときには、いつでも慎重でなければならない。われわれが解放運動から何がしかを学んだのなら、厳しく指摘されるまで自分がどんなふうに差別しているかなかなか気づかないものだということが分かっているはずである。(p.187、太字は引用者)

 この見地に立ってみると、動物の権利論への反論は、たとえば黒人差別と似ているところが多分に存在することが浮かび上がってきます。黒人差別がひどかったとき、平気で「やつらは生まれながらに知性が劣っている」とかいった言説を当然のこととして受け入れたうえで、今では考えられないような差別行為が繰り返されていたというのは、よく見たり聞いたりする話です。

 シンガーは、このことについてもう一段掘り下げて語ります。

たしかに、知性や能力における人種的、性的な差異の遺伝的起源を証明しようとする試みはあっても、今のところ決定的な成果は出ていない。だが、人種や性のあいだにこの種の遺伝的差異がないというのはあくまで想定である。(p.189) 

  ここだけ読むと、人種差別を肯定する論理にも見えますがそれは違いますので誤解しないでください。そうではなく、人種差別をしないことの根拠は「遺伝的に違いがない」ということではなく別のところに求めるべきだ、と言いたいのです。同じ人間だから平等に扱うんだ、というのでは、同じじゃない証拠が出てきてしまうと前提が崩れるし、同じだという証明もなされてはいないから、基盤としては危ういよ、ということです(そもそも「ない」ことの証明はムリです)。シンガーはこの準備によって、平等な取り扱いの範囲を「快苦の認識能力の有無」に求めて動物にまで広げて論を展開しています。この能力のある動物には、生きる権利や不当な扱いを受けない権利があると。

 シンガーはこうして、現状のありかたを「種差別(Speciesism)」という概念としてまとめ上げました(この言葉自体は『動物・人間・道徳』のなかでリチャード・ライダーが導入したものだそうですが)。人間のなかで白人、黒人と線を引いてわけるのと同じように、全動物のなかで人間とそれ以外に線を引いてわけているじゃないか、という指摘です*1

 こういった論理的基盤をととのえたあと、論文の中では動物実験の悲惨な現状や工場畜産のひどい有様を紹介しています。とくに工場畜産の様子についてはびっくりします(1975年のことですから、今はいくらか改善されているのかもしれませんが本質的には同じでしょう)。イギリス政府に提出された改善勧告は次のような顛末をたどった、と論文内で紹介されています。

理想論に走りすぎているという理由で、政府が実施を拒否した勧告のなかに以下のものがある。「すべての家畜が、最低限自由に向きをかえることができる空間を与えられるべきである」。(中略)「すべての家畜に乾いた寝わらを敷いた場所を与えるべきである」。(中略)「生後一週間以降のすべての仔牛には、仔牛の嗜好に合った粗飼料がいつでも食べられるようにすべきである」。(中略)「家禽用のケージは、鳥が一度に片方の羽を伸ばすことができる広さにすべきである」。(p.202-203、「」内はすべて傍点による強調があったが省略) 

 さまざまな検討を経て、シンガーは論文の終わりのほうで次のように述べています。

人間以外のものに対する自分の態度が偏見の一形態であり、人種差別や性差別に劣らぬ非難に値する態度であることに、一人一人に気づいてもらおうという挑戦なのである。それは単に態度の変革だけでなく、暮し方の要求をしてくる。なぜなら菜食主義者になる必要があるからだ。(p.206) 

  シンガーは、自分の主張が行動の変更を求めるものである以上、多くの反発があることを予想はしていたでしょうが、この説得的な論文のまえに僕は何の反論もできないな、と感じました。

フォックスの反論:権利を持てる条件

 本のなかには、先のシンガーの論文に対する反論論文も載っています。論文著者のフォックスは次のように述べて、シンガーの主張を退けようとしています。

ある種の認識能力を必然的にともなう自律というものが、道徳的権利を持つための必要条件である(p.218) 

  ここでいう「ある種の認識能力」とは、

批判的に自己を認識する能力、概念を操作する能力、高度に発達した複雑な言語を使用する能力、反省する能力、計画を立てる能力、熟考する能力、 選択する能力、行為に対して責任を負う能力である。(p.217)

さて、以上のような結論はいかにして擁護されるだろうか。(中略)...今述べた自律的存在者だけが道徳の共同体に所属することが可能であり、現に所属しているということ、そして、道徳的共同体とはある種の社会集団であり、権利や義務などの概念はその中で(そして、その中でのみ)意味を持ち適用されうるものだということである。(p.218

 これは、「人間のような能力を備えた生物以外に権利なんて与えるべきじゃないよ」とめんどくさく言っているだけにすぎないと思いました。そもそも、「自律的存在者だけが道徳の共同体に所属することが可能であり、」の部分なんかは人種差別とどこが違うのかまったくわかりませんでした。「権利や義務」の適用範囲を明確にすることで、動物を締め出すのは、「黒人は劣った存在である」と定義して白人のコミュニティから疎外したり奴隷にしたりということと何が違うのでしょうか。

 ほかにも次の部分にはひっかかりを覚えます。

それでは、種差別は反道徳的なのだろうか。唯一の賢明な答えは「証明されていない」ということであるように思われる。(p.228-229)

 フォックスは、論文の最後のほうにこう書いています。ここまで、「動物に権利を認めることはできない」と主張してきて、最終的に「そもそもそれって問題なのかどうかわからなくないですか?」と言っています。種差別は反道徳的かどうかわからないし、別に現状変更は証明されてからでいいんじゃないの?という態度だと受け取れてしまいます。とはいえ、フォックスは、だからこそ妥協点を探るようにしませんか?と主張しています。

動物が多いに苦しんでいると想像するだけで不愉快になる人なら、誰でも大急ぎで冷凍庫から肉を放り出し、薬箱の中を空っぽにしたり、あるいは、道具箱から化粧品を捨て去ったりして、昔の悔悛者の真似をして手近にある毛衣(ただし化繊の)を着て懺悔しなければならない、ということではないと思われる。そうではなくて、適切な食事や世界の食糧危機、さらに平均的生活費を考慮した場合、どれだけの肉の量なら消費することが許されるのか、また、どんな種類の薬品や化粧品が不可欠であるのかを関係者一人一人がよく考え、工場畜産を廃止し、動物を用いた実験や製品検査に対して厳しい規制を制定するよう議会に働きかけるべきだということなのである。(p.229)

 この着地点は僕の考えと一致しています。フォックス自身、動物に不必要に苦しみを与えることは避けるべきである、と明言しているということもあり、動物が置かれている良くない環境は変えていくべきだ、と考えているようです。

完璧主義と利益の追求が引き起こしている問題なんじゃないか?

 この2本の論文の比べて読んでみて、完璧主義・利益の追求の2点が問題をややこしくしているのではないかと思いました。

完璧主義の問題

 ここでいう完璧主義とは、「動物に権利を認める」、「認めない」とどちらかの立場に立ったら、それには必ず従って、立場に反しない行動に努めなければならないというような考え方のことと想定しています。

 動物の権利問題は学術的議論なので、「曖昧でいいよね」なんて立場は認められにくいでしょうが、動物の権利の問題は、現実的に考えると権利を認める立場に完全に立つなんてことはほとんどの人には不可能です。たとえば畜産業を全部打ち捨ててしまったら、そのぶんの雇用や経済、食文化などが失われてしまい、それをまるっと解決できる方法は存在しないからです。実験動物も、実験をしないことで現れる諸問題は大きいでしょう。それになにより、おいしい肉が大好きだしペットを飼いたいと考える人も後を絶たないでしょう。

 なので、フォックスが提案している通り、よい妥協点を探れるような努力は必要だと思います。ただ、その努力を生産的なものにするためには、シンガーの言うような動物の権利への意識を持っていないといけないんじゃないかと感じます。動物の権利を考えたら菜食主義だ!とか、動物の権利は認められないから現状を受け入れてOKだ!とかいった両極端の完璧主義は使い物にならないように思います。

利益の追求の問題

 ただ、フォックスの提案のなかにある「妥協点」の設定はかなり難しいでしょう。「必要なだけ」、「不可欠かどうか」といったところは誰がそれを判断するかで全く結論が変わってきます。特に、資本主義で出来上がっている多くの国は利潤が最大化することが至上命題なので、「必要な量」は青天井になるんじゃないでしょうか。一方で、ヴィーガンに判断を任せれば、「必要なものも不可欠なものもない」となってしまいこれもまた極端です。

 野生動物は、ほかの動物を殺して食べたりしますが、おなかいっぱいになればそれでおしまいで、保存するためにいっぱいとっておこうという行動をとることはなさそうです。人間は保存の能力を身につけてしまっているので、肉を得れば得るほど蓄積することができ、そういう意味でも「必要な量」は無尽蔵になってしまいます。「いつか必要になるかもしれないから」と考えることだって可能です。

 この、十分な量の議論は慎重に、かつ真剣に深めていかないといけないことだと思うのですが、自分の中ではどうすればいいか、いまのところはわかりません。これは肉食とか薬品だけでなく、貯金とかに関しても、結局いっぱい持ってれば持ってるだけいいのはわかるんだけど、実際どれだけあれば十分なのか決めにくいという問題とも通じているように思います。

動物の権利問題への反論に思うこと

 ここまで動物の権利とその反論を検討してきて、やはり思ったのは、「動物の権利への反論は、自分の道徳的な呵責を打ち消したいということに端を発していそうだ」ということです。フォックスのように真っ向から反論する立場のほかに、ポストモダン思想の動物の取り扱いが、このブログ記事で紹介されています。この「ポストモダン」の考え方の無責任さが、それを大きく実感させ、ださいなぁ、と思わされてしまうのです。

davitrice.hatenadiary.jp

  ポストモダンというか、デリダなのですが。このブログ筆者のように、僕もデリダを読んでないのでアンフェアな立場です。でもこの間デリダの考えを下敷きにした発表を聞いたときに感じましたが、僕はデリダの思想をざっくりと「2つの対立する命題がありますが、それはそれとして考え続けることが大事ですよね」というようなものだと把握しました*2。どこをどう読んでも、「じゃあこうしよう」がないんです。むずかしい問いについて自分も意識的にそういう結論の仕方をすることがあるため、耳が痛い話ではあるのですが、この態度は改めていかないといけないと思っています。

 じゃあ結局自分はどういう立場をとろうとしているかというと、「道徳的に悪いことをしていることを受け入れて暮らす」というなんとも玉虫色の立場ですが、そのある種ストレスのある状況に置かれることで見えてくるアイディアもあるのではないか、と淡い期待をもちながら、さしあたりの人生を続けていこうと思っています。

 

以上です。

*1:先日の『異議あり!生命・環境倫理学』の書評記事のなかで、種差別の概念は結局人間中心主義に陥っているという指摘があることを紹介しました。「快苦の認識能力」をもつ・もたないという恣意的な基準で分類してしまっているからです。今回シンガーの主張を読んでみて、確かにそれはそうだがだったらなんなんだ?という気持ちになりました。黒人解放やその他のこれから起こるであろう解放運動も線引きを見直していくなかで改善されていくだろうことを考えると、それを指摘して立ち止まり、方策を示さないのは無責任にさえ感じます

*2:これは乱暴な書き方なので怒られるかもしれません。