ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:未来世代の権利 『環境の倫理』②

今回もこの本を紹介します。 

環境の倫理〈上〉

環境の倫理〈上〉

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 晃洋書房
  • 発売日: 1993/04
  • メディア: 単行本
 

 前回は、この本の「動物倫理」の話題について書きました。今回はこの本から、「未来世代への責任」の話題について書きます。

 人類の活動が地球環境を変えてきているという主張は、ほとんど疑う余地がないとされています。いまスペインで、COP25(第25回国連気候変動枠組み条約締約国会議)が開催され、世界の気候変動についての議論がなされているようです。気候変動に対する未来世代の責任を強く説くグレタ・トゥーンベリさんもCOP25に参加しているということで、ニュースになっていますね。グレタさんのことを僕が初めて知ったのは2019年9月23日に国連気候行動サミットで行われた約5分間のスピーチの報道でした。彼女の主張の内容や彼女のとっている行動には、賛同の声と同時に多くの批判(というか中傷)が見られます。「われわれ子ども世代は、あなたたち大人の無責任さに絶望している」という強い主張が、反感を買う主因でしょう。

 批判の多くを見てみると、次のようなものが目につきます。

  • 学校に行け
  • 現実を見ろ
  • 経済活動が大事だということを理解しろ

 ほかにも、彼女のルックスや話し方についてくだらないことが書いてあったり、見るに堪えないものが多いです。彼女の上げた声をつぶせば環境問題が解決するなら大いにつぶせばいいのですが、そうではないというところが問題です。

 人間の活動が環境に悪いことを自覚しながらも配慮しきれていないという一般大衆の呵責が、彼女への反感に転じていると僕はみています。では、なぜ呵責を感じるのかと考えると「環境に配慮しないといけない」という義務感が心のうちにあるからだと思われます。

 

 『環境の倫理』では、未来世代の権利や義務がそもそもあるのかどうか、すなわち呵責を感じる根拠はあるのかどうかを検討しています。

未来世代の権利

 本書では、未来世代の権利を認めるべきだという立場と、認めることはできないという立場を紹介しています。どちらの主張にもそれなりに理があります。

「未来世代の権利を認めない」立場の主張の骨子は次のようなものです。

  • 未来の人々を、個別具体的に特定することはできないので、権利を与えることはできない
  • 未来の人々がどのような権利を求めるのかは、現在の私たちに知ることはできないので、それを与えることはできない

一方、「未来世代の権利を認める」立場は次のような主張をします。

  • 現在でも、個別具体的に特定できない人に対する配慮は必要とされる(たとえば、人が通った時に困るので廊下に物を置かないようしによう、とか)ので、未来世代についても同様に配慮する必要がある
  • 未来の人々の要求は完全にはわからないとはいえ、するべきでないと確実にわかることはある程度ある(たとえば核廃棄物はないほうがいい)
  • 未来の人々はわれわれ現在世代の配慮を必要としているし、われわれは未来世代への配慮の能力を有しているので、そこに義務は存在する

 これらの理論的基礎付けはいくつか紹介されていましたが詳しくは書きません。

 動物の権利の話と同じように「権利を認めない側」の主張はできない理由をむりやり持ってきているような印象がありました。自分にバイアスがある疑いは大いにありますが。とはいえ、よくよく立ち止まって考えると、なんでもかんでも権利を認めると収拾がつかなくなるので、権利を与えることができる範囲をきちんと考えておくことは重要なことです。

 ただやっぱり、自分が未来世代の人間だったとして、過去の人類が地球資源を食いつぶして、クロノトリガーで描かれていた未来のような現実を生きざるを得ない状況になるのはちょっと受け入れがたいです。そのような人が生じるのを避けるよう、今を生きる人が気をつけましょう、という単純な考え方が大きく間違っているとはどうしても思えません。特に、「未来世代への権利は認めることはできない」という考えから「未来世代への配慮は必要ない」という方向に思考が進むのは恐ろしいことです。

じゃあなにをするのがいいのか

 僕のような小市民がエコバッグをもって買い物に行ったり、電気をこまめに消したり、エアコンの設定温度を夏は28℃、冬は18℃に設定するように気をつける程度のことではあまり状況は改善されないと思います(やらないよりはマシですが)。劇的に変えるためにはなにか劇的な運動が必要で、そこでグレタさんのような活動家が露出して啓蒙活動が目立つのは重要なことだ思いました。僕が初めて彼女を目にしたときに、彼女は怒っていました。急に怒ってる人が目の前に現れると、多くの人が不快に感じるのは仕方のないことと思います。でも、まず大きい声を出さないと誰も聞かないというのも事実で、あの怒れる姿のおかげで彼女の5分間のスピーチの要旨は多くの人が知るところとなったはずです。人の意識を変えるにはプロパガンダに頼らざるを得ないと思うのです。

 環境問題に対するプロパガンダで市民の意識が向上すると、環境に配慮した買い控えで経済が冷え込むことだったり、安価だが環境に悪い生産方法を採る企業に批判が向いて製品の価格が上がることなどが予想されます。この結果、たとえば失業率が上がったり人々の暮らし向きが悪くなるでしょう。

 経済発展が重要と考える人は多いです。環境保護の立場に立てば、当然経済発展とは利害が対立するので、批判がたくさん出てくるでしょう。プーチン大統領トランプ大統領が批判的な声を上げているのは象徴的なことだと思います。国の発展具合はGDPで測られるのである種仕方のないことだと思います。とはいえ、国家の運営は資本のためだけにあるわけではない、ということを最近よく考えています。国のトップがいち活動家の発言、とくにその発言者が16歳の少女で無知に違いないという前提で、からかうような発言で批判するのは、端的にかっこよくないと思います。

 「環境の悪化」と「現在世代の暮らし向きの悪化」の二項対立にしてどちらをとるかを考えるのではなく、どうやってバランスをとるかを気にしないといけません。しかし、それは大変骨が折れる作業です。その作業の第一歩は現状を数値で把握することです。なので、グレタは気に入らないとか、彼女は立派だとか言い争うよりも、一人でも多く、少しでも正確な数字にアクセスしやすい環境の整備が重要なのかな、と思っています。

 

 将来自分が子どもをもつかどうかを考えると、本当になにを措いても子どもをもちたい、とはどうしても思えません。その理由は、なにより社会システムを挙げて未来世代にツケを回しているようにしかみえないというのが大きいです。環境問題はもちろんのこと、たとえば年金制度が立ち行かなさそうだとか、雇用環境はどんどん悪化していきそうだとか、自分の足場を整えることにも不安があるのに、生まれてくる子は幸せになれるのかしら、ということを考えてしまいます。いつの時代も社会不安はあったのだから大丈夫、という考え方もできますが、世界的に人口爆発しているといわれる昨今、最適なのはやはり子をもたないことなのでは、という考えにかられます。一方で、子をもって、妻とその子の幸せを念頭に生きていくのは素晴らしいだろうという思いも拭いきれないのです。

 今後自分の意識も日によって、場合によって変わっていきますが、事実を中心に行動決定をしていくことに注意を払っていきたいと思います。