ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:『江戸の読書会』

この本を読みました。

 

 

こんど新しく仲間を集めて読書会をすることになり、その課題本となったので読みました。忘れるといけないので、記録を残します。

 

江戸時代の学校や塾で、学問(中国の思想書を読むこと)が行われていたとき、「会読」という形式の学び方がポピュラーだったという事実があります。この事実を出発点に、会読とは実際どのようなことをしていたのか、どうしてポピュラーだったのか、どのくらいポピュラーだったのか、この学び方の社会的意味や影響はどんなものだったのか、といったことを検討する本です。

好きか嫌いかでいうと学問の話が好きな僕にとっては、本の中に描かれている江戸時代の会読の様子には胸を熱くさせられました。一冊の本を肴に、ああでもないこうでもないと言い合うのは楽しいものです。

 

現代の日本では、高学歴が将来の地位や収入と直接結びつくという観念が強いのですが、江戸時代はそうではなかったそうです。それならば、なんで学問をやるのか、というのはわからなくなってきます。著者は次のように書いています。

経済的利益や社会的権勢を得られないにもかかわらず、儒学に励む人々が江戸時代に現れたのはなぜかという問題は、一層不可解な謎として浮かんでくるだろう。実は、この問題は江戸思想史の大問題である。(p28)

中国や朝鮮には科挙という国家公務員を選抜する試験があり、勉励刻苦することが、身を立てるための一つの方法としてひろく認識されていました。だから、中国や朝鮮の若者はいつの時代も、こぞって勉学に励み、競争してきました。

ところが江戸時代の日本には士農工商とはっきりした身分制度があり、どんなに学問を頑張ったからと言って、えらくなれるわけではありませんでした。それなのに、武士だけでなく町人、百姓にいたるまでひろく学ばれました。それはなんでだったか、というのがこの本が解こうとする謎の一つです。

一方で、江戸の学問環境には、会読という学びの方法がよくみられる、という点も、本書が解こうとする謎の一つです。本のタイトルにもなっている、いわゆる読書会が、公式な教育カリキュラムのなかに組み込まれているが、これはいったいどういうもので、どういう経緯で発展したのか。そしてその実態や、意味するところとは? こういうところを、史料にもとづいて分析しています。

 

会読は、現代の読書会とは違う

まずひとつ抱いた感想は、本書で取り上げられている「会読」は現代で行われているいわゆる「読書会」の多くとは大きく違うなぁ、ということです。そういう意味でこの本は、江戸時代のエリートたちの教育環境を解き明かしたものと言えます。

現代の教育と違いは、一つに課題本が古典(中国語)や外国語の本になっていることです。現代で「読書会」と銘打って行われているのは、僕の少ない経験や見聞のかぎりでは、最近の日本語で書かれた本を使うのが多いと思います。そして選ばれる本も、たぶん小説が多いんじゃないだろうか。

そしてもう一つ、参加者の属性も、現代は年齢性別問わず、趣味のつながりで集まって行うことが多いだろうけれども、江戸時代は藩校や私塾で集った学生たちが、先生の監督下で行います。したがって、本の中でやっていることは、どちらかというと大学の研究室やゼミで行われる輪読会とかが近いと思います。

本の中で、熊本の藩校(武士階級が通う学校)であるところの時習館のカリキュラムが紹介されています。時習館は1755年設立で、江戸時代が1603年にはじまり1867年におわりましたので、江戸時代中頃のようすということになります。

時習館では、中国語の文献(孝経・四書・五経唐詩・文選)の素読の段階と、会読の段階がありました。素読段階は入学年齢の10歳から15,6歳くらいまで行い、そこから素読と会読の併用を18,19歳まで行って、そこからさらに上の学年?にはいり、優秀な者が選抜されて四書・六経のなかから専門を決めてさらに深く学び、さらに優秀な者は藩の外へ遊学に行く……というようなシステムだったようです。中高大一貫校みたいですね。

10歳から15歳までの5年間、素読のみを行い、それから会読をする、という流れからは、誰もが気軽にできるようなことじゃなかった、ということがわかります。素読では、意味を考えずにひたすらに本を音読して暗唱できるくらいまでになることを目指すそうです。その訓練を乗り越えてやっと、会読として内容についてみんなで討論するということからは、ますます大学のゼミの感じがするなと思いました。

 

江戸時代の書物の価値が不明

江戸時代は、出版物をとりまく経済が現代と大きく違うはずです。そうすると、学生にとって「本を手に入れる」ということの意味も違ってくると思います。本の中では、「会読が流行ったのは、本の理解度次第で身分に関係なく対等に戦えるからだ」ということが何度も言及されますが、本が高くて手が出ない層がいたらかわいそうだなと思って読んでいました。

同じ平凡社から、今田洋三『江戸の本屋さん』、鈴木敏幸『江戸の読書熱』という本が出ており、この疑問はこれらを読めば解決しそうだなと思って買ってあるのですが、まだ読めていません。

 

最後に

この本では、著者は読書会の目的や動機についてふれ、そこに著者の思いを記したりしています。たとえば以下。

会読前の日は、前日から夜が明けるのを待ちかね、「児女子の祭見にゆくの心地」がした。こんな楽しい読書会をもてたならば、どんなに幸せだろう。(p.129)

 

これは、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』を仲間たちと共訳していたときの記録に、著者が言及しているところです(杉田玄白の訳業を、会読とみなすというのも斬新な感じがしますが、実態はたしかに会読ですよね)。著者は、なぜ会読が流行ったか、の問いに、「身分が関係なくなる」というところを強くあげてはいますが、「会読が単純に楽しかったからだろう」ということも何度か書いています。やっぱり、一冊の本を肴に仲間たちであれやこれや論評しあうという会が好きな著者なんだろうと思います。

 

 全体的には、実例の提示が多くて飽きる人は飽きると思うのですが、楽しそうに会に参加している人たちの様子が好きな人なら読んで楽しいと思います。

 

おわりです。

読書記録:予言を感じました『正しく考えるために』

この本を読みました。

bookclub.kodansha.co.jp

 

1972年の本です。論理をきちんと運用するにはどうするか、というのを簡単にまとめてある本です。そんな本はほかにもいっぱいあるのですが、1972年に書かれたこの本のなかに「情報時代」という名前の節があって、そこで言われていることがおもしろいので記録しておきたいと思います。(日本のインターネット導入は1984年だそうです)

導入の、『「考える」ことと「知る」こと』という章で、次のように書いてあります。

〔テレビやラジオを通じてただしくすばやく情報が伝えられることで〕われわれが多くのことを「知って」いるならば、一見すると、現代われわれは最もよく「考える」こともできるように思われるかもしれません。しかし「知る」ことと「考える」こととは決して同じではありません。もとより多くの正しい知識を持つということは正しく考え、正しい判断を下すために有利なことであることはいうまでもありません。誤った知識を基礎にして打ちたてられた判断は当然誤っているからです。しかし多くの知識を持っていたからといって、そこからただちに、正しく考えることができるようになるということは導かれてきません。むしろわれわれは多くのことを知ることができるということによって、かえって考えることを忘れてしまうという危険もあるといわねばなりません。なぜなら、われわれは知ることがあまりに多いため、知ろうとする努力に追いまくられて、深く考えないという習慣に陥ってしまう恐れもあるからです。(p.17-18)

しかし情報時代でもっと危険なのは、他人の「考えた」ことが情報としてあまりにも多く伝えられるということであるかもしれません。われわれは他人の考えたことを「知って」しまいます。そうなると、われわれは他人の意見を「知る」ことによって、みずから「考えた」ような気になってしまうのではないでしょうか。まして多くの人の同じような意見が数多く伝えられると、われわれは実際には何もみずから考えていないのに、その意見を自分の考えた意見のように思いこんでしまうのではないでしょうか。(p.21)

 

なんかの本に書いてあった、どこそこで誰かがこう言っていた、ということを手前勝手に組み合わせてしゃべりまくる人というのはどこにでもたくさんいます。上に書いてあるような人やことはインターネットにはありふれており、今さら改めて言うほどのことでもないです。でも、この本が1972年に書かれたというのを思うと、正しく考えた結果としてこの文章が書かれているんだなぁと思えて、説得力を持って読み切ることができました。

内容は、推論のやり方を説明した5章以降より、3章(判断をする前に:情報や知識を受け取るときの注意点について述べた章)と4章(何について判断するか:どういうレイヤーでものを見るのかを説明した章)をよむのがおもしろかったです。僕が生きていくうえで知りたいのは、真剣に頭を使って考える対象はどれかを決める方法で、その判断の助けになる内容だと思ったからです。

 

終わりです。

読書記録:エコーチェンバーの実態『ソーシャルメディア・プリズム』

この本を読みました。

 

この本では実験から、なんとなく真実と思われていることとは反対の結果を提示します。この本で一番重要なのはこれです。

「エコーチェンバーに捕らわれた人は、そのエコーチェンバーのなかで偏った意見を過激にしていくからよくない」は正しくない。

これが示されることで、たとえば「ツイッターフェイスブック、グーグルのアルゴリズムが、偏りを強化するからよくない」とか言えなくなるし、「陰謀論の拡散は現代の脅威だ」とかも、それは的を外しています、で片付いてしまいます。

扱っている内容に深みや広がりがある本というよりは、この一ネタをコンパクトに提示する内容の本です。多くの人がなんとなく信じちゃってることと反対のことを主張するので、いろいろ盛りだくさんにするよりはこんなふうに一ネタに絞ってあるのはいい提示の仕方だと思います。本も、実験方法や原注を除けば大体150ページくらいなのですぐ読めます。

本の最後のほうでは、政治について議論する場としてのオンラインプラットフォームの存在はやはり無視できないので、これこれこういうふうにしてみればいいんじゃないでしょうか、という提言をしています。

 

本のタイトルになっている「ソーシャルメディア・プリズム」というのは、ソーシャルメディアがエコーチェンバーじゃなかったら、じゃあなんなのさ、というのを説明するために、著者が導入した概念です。曰く「(ソーシャルメディアは)社会環境を曲げたり屈折させたりするプリズムであり、自己や対他人の感覚をゆがめている(p.57-58)」。ソーシャルメディアにある情報は、そのアカウントの持ち主のことを映し出す鏡、と思われがちだがそうではなく、そのアカウント主のある部分を増幅させ、またある部分を減弱させ、またある部分は屈折させて映し出すものだ、というたとえです。

この本の内容をかいつまむと、ソーシャルメディアが市民同士の分断を煽るしくみについて、実証的な実験を行ってみました、という感じです。調査対象のソーシャルメディアツイッターです。実験の内容は、SNSでの投稿だけに注目するのではなく、一人一人に入念なアンケート調査と面接調査(インデプスインタビュー)を行い、それとSNSアカウントを紐づけて、振る舞いを観察し傾向を見いだそうとしています。この実験デザインで大切なのは、「人はSNS上のみに生きるにあらず」ということで、SNS上でのふるまいはあくまでその人の一面にすぎず、調査対象者の人となりもきちんと考えあわせましょう、ということです。アメリカの本なので、「民主党派」「共和党派」の2軸で被験者をわけて、いろいろ実験しています。

読んでいて、自分の実感を裏付けるようなことが、実験結果に基づいて言われていました。「なんとなくそうね」とか「なんとなく違うよね」と思っていたことが、いい感じに個人的なエピソードを交えたアメリカの本によくある上手な書きぶりで伝えられるし、ページも少ないので楽しいまんま読み終えられました。備忘のために、以下にメモを残します。

問題意識として重要そうなこと

・「人はSNS上のみに生きるにあらず」

SNSに人がハマるのは、「さまざまなバージョンの自己を呈示しては、他人がどう思うかをうかがい、それに応じてアイデンティティーを手直しするという行動を手助けしてくれるからである」(p.11-12)

実験などから言っていること
  • 「エコーチェンバーに捕らわれた人は、そのエコーチェンバーのなかで偏った意見を過激にしていくからよくない」は正しくない(2,3章)。→エコーチェンバーから出したところで、もともと持っていた意見を強めるだけ
  • ネットの過激投稿者の主目的は「自分の側の人からステータスを得ること」と「他人を怒らせること」のほかに「カオスへの欲求――システム全体が機能しなくなるところを見たいという願望」もある(p.64-65)。
  • オンラインでの政治的主張では、民主党共和党どちらの極の過激派も、国民全体から見れば少数であり、黙っている穏健派が圧倒的多数を占める(p.90)。
  • ツイッターフェイスブック、グーグルのアルゴリズムが、偏りを強化するからよくない」を支持する証拠は驚くほど少ない(p.102)。
  • フェイクニュースやターゲティング広告が、投票行動や消費行動に影響を及ぼしている証拠はほとんどない(p.105)。
  • 「対立党派の人の心に最も響くツイートをしていたのは、自分の側を頻繁に批判していたオピニオンリーダーだったのだ(p.123)」→人に話を聞いてもらうには、まず自分の至らない点について言及するのが大切ということ
提言

本の最後にはこんな提言が。「政治の議論の場はますます縮小していて、オンラインでの議論の場をなくすという事は現実的ではない。匿名の議論ツールみたいなものをつくってはどうか」。細かいところは割愛していますが、簡単に思いつくような批判や反論には本の中に答えがあると思います。

あと、この本の中で一番重要なアドバイスは次の部分だと思いました。

読者のなかには、ソーシャルメディアで対立党派の人と日常的にやり合っている非常に熱心な支持者の方もおられよう。不安定な今の時代において、そうした熱意は不平等や偽善に光を当てたり、アンフェアな政策に対して行動を起こすよう他人を動機づけたりと、非常に肯定的な進展につながりうる。だが、吟味を受けない党派心は破壊的でもある。闘いに加わる前に、自分の動機は実のところ何なのかを自問しよう。喜んでその身を捧げたいと思える問題だからなのか? あるいは、政敵を見事やり込めて得られる社会的ステータスが欲しいだけなのか? ソーシャルメディアでのステータスが欲しいだけなら、ひと呼吸おいて、自分 のメッセージに「いいね」する人やメッセージをリツイートする人について調べてみよう。どのような人か? あなたが評価する意見の持ち主か、それともステータスを求めてフォロワーをもう少し増やそうとしているだけの過激主義者か? もうひとつ、自分の行動が相手方の人に及ぼす影響を考えよう。自分に関心を寄せるフォロワーをもう何人か増やすことに、相手方の人を動転させる価値はあるか? 自分は本気で相手方を抑えこみにかかっているのか、それとも自分の行動は自党派に対するステレオタイプをいっそう強めるだけか? また、ソーシャルメディアで自分の側の誰かに説教を垂れるくらいなら、そのエネルギーを相手方の誰かを説得する試みに注ぐというてもあるのでは?(p.117-118)

大切なのは「自分の動機は実のところ何なのかを自問しよう」のところ。変なことをする人の多くは、自分が何をしたいのかわかっていないだけの可能性が高いので、そこをはっきりさせましょうね、ということです。「問題が明晰になれば、その9割は解決する」とは僕の座右の銘ですが、それがまさにここに書いてあります。別にソーシャルメディアに限ったことではないですが。

 

まとめてみると結構退屈に見えるのですが、実際読むと、面接調査をいろいろやっているだけあって、被験者の具体的行動の記述がおもしろいですよ。

読書記録:人生の目標『DIE WITH ZERO――人生が豊かになりすぎる究極のルール』

 この本を読みました。

  死ぬときに資産を残しても仕方がないよ、というコンセプトに基づいて書かれた本。

要約すると……お金を貯めることを無条件に美徳としている人が多いが、お金と引き換えに得られるものの便益を軽視していてもったいない。お金の価値は若いほど高く、死ぬときにいくらあってもしょうがないし、死ぬときにお金が残るということはそれを稼ぐ分だけタダ働きしたということだ。子どもにお金を残せると考えるかもしれないがそうだとしても子どもが若いうちに渡した方がその子にとっていい。頑張って資産がゼロになるように調整して死にましょう......というような内容。

 以前読んだ『〈効果的な利他主義〉宣言!』の考え方と通じていました。あちらは慈善活動の便益を最大にすることが目的だったけど、こちらは人生の便益を最大にすることが目的。この本の、もし慈善活動に精を出したいなら...という段落では、『〈効果的な利他主義〉宣言!』とか前回の記事と同じようなことを言っていました。

 

 やっぱり自己啓発本はやる気が出るなぁという感想だったんですけども、やっぱり活躍するのは、投資とか経済分野に明るい人間なのだなぁ...という感想を抱きました。単純にそういう仕事を持っている人は収入が多いというだけでなく、何かの目的に金融の考え方を応用するのが、やっぱり効率的なようです。
 『〈効果的な利他主義〉宣言!』では、投資の仕事をしている人が慈善活動をしたいなぁと思ったとき、慈善団体がどういう活動をしてるのかがわからないことが問題だと考えて、慈善団体を評価できるWebサイトをつくった、というエピソードが紹介されていました。この本『DIE WITH ZERO』を書いたのも、投資を主な仕事にして成功した人です。
 でもそんなことは当然で、お金があればできることが多いから、お金を集める方法を知っているほうが強いに決まっているんですよね。で、お金が余るほどあれば、そのお金の効率の良い使い方を考えるようになりやすいし。自分はお金が余るほどないのでそんなに真剣に考えることはなかったですが、お金の使い方は割合の問題でもあるので、平民でも応用できることがミソですね。ちゃんと自分にとって役に立つ情報になっている。
 『〈効果的な利他主義〉宣言!』と『DIE WITH ZERO』は方法論がかなり似通っているんですが、どちらにも共通する大切なことは「目標を定めること」「測りにくいこともちゃんと測ろうと努力すること」です。成功のためにはこれだけでよさそうです。しかしどちらもよく考えるとそう簡単なことではありません。

 ところで、僕の人生の目標は「物知りおじさんになること」なのですが、その目標を達成するためにはいろいろなことを知る必要があります。いろいろな知識を得るには本で、本といえば出版社だろ、と思って出版社に就職しました。毎日かなりの文字を読むことになるし、新しい本を作るにはいろいろ調べることがあるので物知りおじさんに近づきやすい環境です。正直言って、今思えば出版社に入らなくても自分で勝手に勉強すればいいんですが、ある程度環境に強制されたかったのと、あとやっぱ、編集者って肩書きは物知りっぽいので満足しています(最悪)。とはいえ、現在勤めている会社は自分の興味ベースで仕事させてもらえて良い感じですが、別にすべての出版社がそうなわけでなかったです。これは就職先を適当に選んだツケですが、自分の場合は一回失敗しないと学べないので仕方なかったです。あと、今の会社は新卒では入れてくれなかったので、結果オーライです。
 自分のことを考えると、あとは「なにをどれくらい知るか」を決めておけば人生の目標は確定しますが、自分はここまででいいと決めるのはもうその時点で物知りおじさんではないので(物知りおじさんはその定義の中に、新しい知識を摂取し続けることが含まれていなければならない)、決まりません。「どのくらい知ったら物知りおじさんLvいくつ」とかは決めておいてもいいかもしれない。

 

おわりです。

読書記録:極度の貧困を解決するために今すぐ寄付〈しなければならない〉理由 『あなたが救える命』『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』

  これらの本を読みました。

あなたが救える命: 世界の貧困を終わらせるために今すぐできること

あなたが救える命: 世界の貧困を終わらせるために今すぐできること

 

 

 前回の記事で、『〈効果的な利他主義〉宣言!』という本について書きました。

nattogohan-suki.hatenablog.com


 この効果的な利他主義について、もうすこし深めたいなと思い、上記2冊を読みました。『〈効果的な利他主義〉宣言!』より前に出た2冊であり、2冊ともピーター・シンガーという哲学者が書いたものです。シンガーの主張は基本的に読者(というか人間一般)に対し、行動を変容させることを強く要求するもので、何を言っても根強い反発がどこかからやってくるようです。
 今回読んだ2冊では、極度の貧困を解決するために「なぜ」「どれくらい」「どのように」寄付すべきかを説明することを目的としています。そのなかでシンガーが要求することは以下のとおりです。

...これ以上寄付をすれば、自分が寄付することで防ぎうる悪い事柄とほぼ同じくらい重要な何かが犠牲になってしまうところまで、寄付しなければならない(『あなたが救える命』p.187) 

 とはいえシンガーは、こんな高い水準の要求は受け入れてもらえないということをわかったうえで、以下のような基準を提案します。

...九五パーセントのアメリカ人にとっては、最大でも所得の五パーセントを寄付すれば満たされるという穏当な基準を提示する。(『あなたが救える命』p. ix) 

  収入の五パーセントでさえ100万円稼いでいたら5万円、500万円だったら25万円ですから、寄付の経験がなければかなりのハードルになると思います。でも、本書で提示されている事実や倫理的な論証をきちんと理解することができるなら、シンガーによる高い水準の要求もそうおかしなことではないと感じると思います。
 しかし、僕自身が収入の大半を寄付に回せるかと言うとそれは無理ですし、シンガーや本のなかに出てくる実践者たちも、全員が全員収入の大半を寄付できなくても無理からぬことと考えています。本のなかではかなり厳しいことを述べているシンガーですが、まえがき部分で以下のように述べています。

…本書の究極的な目的は、極度の貧困を減らすことであり、読者に罪悪感を抱かせることではない。(『あなたが救える命』p. x)

 今回2冊読んでみて大切だと思ったのは、「なぜ私たちは寄付を〈しなければならない〉のか」(「することが望ましい」ではなく「しなければならない」です)という説明と、「この主張への反論の反論」、そして「効果的な寄付の評価基準をつくる意義」の三つです。備忘のメモとしてまとめます。
 以降この記事では、「寄付する」とだけ書きますが、「極度の貧困を解決するために効果的に寄付する」ことを意味しています。

1. なぜ私たちは寄付を〈しなければならない〉のか

 シンガーは、次のようなたとえ話をします。

 仕事に行く途中、あなたは小さな池の側を通り過ぎる。その池は膝下くらいの深さしかなく、暑い日にはときどき子どもが遊んでいる。しかし今日は気温が低く、まだ朝も早いため、あなたは子どもが一人で池の中でばしゃばしゃしているのを見て驚く。近づいてみると、その子はとても幼く、ほんのよちよち歩きで、腕をばたばたさせており、まっすぐ立つことも、池から出ることもできないでいるのだとわかった。その子の両親やベビーシッターがいないかと見回すが、あたりには誰もいない。その子どもは数秒間しか水から顔を出すことができない。あなたが池の中に入ってその子を救い出さなければ、溺れて死んでしまいそうである。池に入ることは簡単で危険ではないが、数日前に買ったばかりの新しい靴が台無しになり、スーツは濡れて泥だらけになるだろう。また、その子を救い出して保護者に預け、服を着替え終わった頃には仕事に遅刻してしまうだろう。あなたはどうすべきだろうか。(『あなたが救える命』p.3-4)

 これには多くの人が「助けるべきだ」と言うでしょうが、もしそう思うあなたは「私たちは寄付を〈しなければならない〉」ということを認めています。ここでの「私たち」は、「この本を読めるような立場にある者たち」、すなわち先進国に住む人たちです。
 現在地球にいる人々の間では貧富の差が拡大しすぎていて、命にかかわるレベルの貧困にあえいでいる人が多くいます。2015年の段階で、世界銀行は貧困ラインを「生活に使えるお金は1日当たり1.90ドル」と定め、これを下回る収入しか得られない人を極度の貧困と位置付けています。2015年の段階でそのような立場の人は7億人強いるとのことです*1。この1.90ドルというのは、「アメリカで暮らす場合」の1.90ドルです。物価が安い地域に1.90ドルを持っていくのではないのです。これを年収に換算すると約7万円です。こんな額では衣服はもちろん、住むところや食べるものが満足に手に入りませんし、医療も受けられませんから当然命にかかわります。だから、圧倒的に自由に使えるお金が多い我々先進国の住人は、多少生活が不便になる犠牲を払うことはいとわずに寄付をするべきなのです。
 と、こんな風に言われても、はいそうですね、で寄付をするような人はほとんどいないと思います。そうであれば、おそらくこのブログで紹介するような2冊は存在しなかったでしょう。この2冊の本では、私たちが負う寄付する義務、反論者がいかに誤っているか、寄付先の選択がいかに大切か、が述べられます。寄付なら何でもいいわけでなく、寄付するのであれば「極度の貧困に起因する害にあえぐ人々を救う目的」をメインにしなくてはならないことを強調します(効果的な利他主義)。

2.「寄付をしなければならない」への反論に対する反論

 続いては、「寄付の義務」について寄せられた反論に対するシンガーの反論で、僕が大切だと思ったものを紹介します。

資本主義ではお金は元手である。それを寄付に使うと将来の成長が損なわれてしまう。(『あなたが救える命』 p.47)

 シンガーはクロード・ローゼンバーグという人の主張をひいて、以下のように述べています。

...彼の議論によると、今寄付する方が、お金を投資に回した後で寄付するよりも値打ちがある。というのは、社会問題が長い間放っておかれると、それだけ状況が悪化するからである。言い換えると、資本は投資によって増大するが、社会問題を解決するためのコストも〔時間が経てば〕増大する傾向にあるのだ。しかも、ローゼンバーグによると、社会問題を解決するためのコストが増大する割合は、投資から得られる収益の割合に比べて「指数関数的に大きい」のである。(『あなたが救える命』p.49)

 ここには定量的な裏付けがないようですが、直感的には納得できます。「ウォーレン・バフェットのような投資の才能があれば、お金を取っておいて後で寄付すればいいが、そうでないのならもっと早くに寄付したほうがよいかもしれない」とのことです。

私たち人間の本性は、利他行動をとるようにできていない

 「私たち人間は利他行動をとるようにできていない」は、手を変え品を変えて主張されます(『あなたが救える命』第4章に詳しい)。たとえば...

  • よく知らない遠くの国の人を助けようという気持ちが湧いてこない(遠くの人より近くの人を優先する個体はまわりとうまくやっていきやすいので進化的に生き残ってきた)
  • ほかの人が寄付をしていないのに自分だけ寄付をするのは納得がいかない(公平さへの意識が高い個体が多い方が集団として生き残りやすいため、進化的に生き残ってきた)
  • 貧しい人への援助が「焼け石に水」に感じる(心理学的に、「あなたの寄付で〇〇人中1500人が助かります」と言って寄付を募る場合、〇〇人の部分が大きくなると寄付額が減るという実験結果がある)
  • 他の寄付すべき誰かがやるだろうから、自分はやらなくてもいい(傍観者効果

 どれも、「人間にはこういう性質がある」(だから寄付しなくてもいいでしょ?)という内容ですが、シンガーは以下のように述べます。

 ...しかし、たとえ進化の過程で人類が身につけたいくつかの直観や行動の仕方が私たちの生存や生殖のために今日でも役に立っているとしても、ダーウィン自身が気付いていたように、そうした直観や行動の仕方が正しいことにはならない。進化の方向は道徳とは無関係である。(『あなたが救える命』p.48。太字は引用者)

  「そういう性質があること」は「そうすべきである」ことにはなりません。「池におぼれる子ども」のたとえ話で、子どもを迷わず助けるべきだ、と答えるのなら実際に寄付をしようと考えた際にどんな考えが浮かぼうと、寄付をすべきなのです。これは、なにを考えるにもとても大切なことだと、僕自身思っています。
 また、特に公平感(ほかの人が寄付をしていないのに自分だけ寄付をするのは納得がいかない)に関して多く紙幅が割かれています。たとえば、先進国の人全員が3万円寄付すれば貧困がなくなるとして、ある人が3万円寄付して「自分の責任範囲はここまで。あとはよろしく」として終わってしまうのはぞっとする行為である、とシンガーは言います。
 このことはまた「溺れた子供」のたとえ話で説明されます。10人の溺れている子どもがいるところに10人の大人が居合わせたとします。大人のうち5人が救助せずにその場を立ち去ってしまったのに、残る5人の大人が1人ずつしか助けないでもOKとなるはずがない、というわけです。シンガーは以下のように述べます。

...私たちは成長すると、ときには不公平を受け入れなければならないことを学ぶ。私たちはそうすることを好きになる必要はないし、自分の負担を果たさない人にはもちろん怒りをぶつけてよい。とはいえ、ほとんどの場合、行為しないことによる犠牲が相当大きい場合には、私たちはやるべきことをやるのである。自分の公平な負担以上のことをするのを原則的に断る人は、公平さをフェティシズム〔盲目的な崇拝〕の対象にしているのだ。それはまるで、嘘をつけば無実の人が殺されることを防げるような場合においてさえ、嘘をつくことに対して絶対反対の立場を貫くようなものだ。公平さと嘘をつくことのいずれの場合でも、原則を維持することがほぼすべての状況で重要である。だが、原則を維持することが端的に間違っている場合もあるのだ。(『あなたが救える命』p. 195)

 つまり、大切なのは「貧困問題は緊急的な対応を要する事態だ」ということです。寄付をしましょう、人助けをしましょう、とお願いされる場合、事と次第によっては今すぐやる必要のないことも多いです。貧困問題は池で今目の前で溺れている人とは別物だ、と反論できると思う人もいるかもしれませんが、貧困が原因で亡くなる人は、現状年間何百万人もいます。これを365で割れば1日当たり何万人死んでいる、さらに24時間、60分、60秒と割っていけば、1秒あたりの死亡数がわかります。こんな計算には本質的な意味がないかもしれませんが、貧困問題は急を要しているということは十分わかると思います。

私の国はすでに十分な支援を行っている

 この反論は端的に誤っていて、さらに国が貧困国に支援を行なおうとするとき、明らかに自国の産業が恩恵を受けるように計らっており、効果的ではないと書かれています。たとえば、貧困国の農作物の収量が増えるような支援ではなく、自国の生産した農作物を贈るような支援になっている、というようなことが書かれています(『あなたが救える命』p.139-141, 143-147あたりに詳しい)。貧困国で生産された作物を増やして流通させれば安く多く食糧が供給できるのに、富裕国で生産された作物を使うと同じ金額で手に入る食糧の量は少なくなってしまう、のようなことが起こります。
 貧困ラインにいる7億人を救うにはまだ足りないのです。

3. 効果的な利他主義を行うための基準作り

 最後に、寄付をするにしても、本当に寄付される人のためになるように寄付しなくてはなりません。シンガーが主張するのは、なんでもいいからやみくもに財産をなげうて、ということではありません。寄付をしてみようかな、と思った人は、寄付の仕方について真剣に考えるべきです(このことは『〈効果的な利他主義〉宣言!』に詳しい)。
 もちろん、誰もが納得する基準をつくることは本当に難しいし、できるかどうかもわかりません。しかしながら、基準は重要であり、努力が大切だということをシンガーは次のように述べています。

 ...単一の評価基準を築くために努力し続けるべきだという点で、トビーは正しいことを言っています。たとえ近い将来、または中期的にそこに到達しないことがわかっていても、努力し続けるべきなのです。そのような評価基準がなければ、限りあるリソースを医療分野に配分しなければならない政府やWHOのような国際機関は、一番声の大きな人やすご腕のロビイストに押し切られてしまいがちなのです。(『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』p.169)

  効果をきちんと定量できるようにすることはとても大切です。効果的な利他主義を行うにあたっては、「ランダム化比較試験」というのが大切になります。これは、新薬の効果を測定するときにやるように、患者Aには新薬を、患者Bにはニセの薬を投与して効果を比較するというような試験です。あるプロジェクトの効果をこの試験で確かめておけば、地域Aで成功したプロジェクトは地域Bでも成功するとある程度の確度を持って言えるようになります。でも、費用の問題や、倫理的な批判(地域Bを実験台にしてしまうなんてひどい)などいろいろな問題で十分になされているわけではないようです。
 そもそも、慈善事業において効果測定という考え方はかつてほとんどなく、ここ10年くらいの「ムーブメント」だそうです。本のなかで紹介されていたなかで多いのは、金融分野で働いている人が寄付をしようとしたときに、金融投資と同じ考え方を適用しようとしたら、公開されている情報があまりにも少なかったから、比較できるようにしようと思った、というものです。慈善事業に従事するような人のなかには、投資の考え方にアレルギーを持つ人も多そうで、実際多くの障壁があったようですが、いまは「ギブウェル」という素敵なサイトができているようです。

おわりに

 ほかにも、寄付行動をとるうえで大切なことはたくさん書かれています。触れませんでしたが、『あなたが救える命』のなかには「自分の子どもと貧困国の子どものどちらが大切か」という議論や、「貧困が解消されて人口がどんどん増えたら、全員が食糧不足になる、なんてことはないよ」というような議論があり、大変示唆に富むものでした。
 シンガーは収入の5%という基準を提示しており、本当はもっと多く寄付してほしいと考えてはいるものの、個々人の経済状況に応じて出来る範囲でやってください、とも書いています。多くの人が少しでも有効なお金の使い方をすることで、緊急を要する状態にいる人が少しでも助かる平和な世の中になってほしいと、心から思います。

備忘メモ

 記事で触れなかった印象的な部分を抜き書き。

↓極度の貧困の問題点について

...極度の貧困は、単に物質的ニーズが満たされないというだけではない。それはしばしば、無力感という尊厳が傷つけられた状態を伴っている。民主国家であり、政治が比較的うまくいっている国々においてさえ、世界銀行の調査の回答者は、抗議できずに辱めに耐えなければならなかったさまざまな状況について語っている。誰かに自分のわずかな財産を奪われ、それを警察に届け出ても相手にしてもらえないこともある。また法は強姦や性的嫌がらせから守ってくれないこともある。子どもに必要なものを与えられないため、常に恥と失敗の感覚に苛まれる。貧困の罠にはまり、苦労続きの人生からいつか逃れることができるという希望を失ってしまう。しかも最終的にその苦労から得られるのは、ただ生きのびたということだけなのである。(『あなたが救える命』p.7)

↓偽善について

エスは私たちが貧しい者に寄付をする際、ラッパを吹き鳴らしてはいけないと言った。「それは偽善者が人から褒められようと会堂や街角ですることである」。...(中略)...しかし、こうしたことは本当に問題なのだろうか? お金が「純粋な」動機から寄付されることよりも、お金が有用な目的に使われることの方が大事なことではないだろうか。それに、寄付をするときにラッパを鳴らすことで他の人たちも寄付する気になるのであれば、なおよいことであろう。

 ↓人が寄付する動機について

 社会学者のロバート・ウスナウが明らかにしたところによれば、利他的な行為をする人々でさえ、自分の行為に関して自己利益に基づく説明を――しかもしばしばかなり説得力のない説明を――する傾向にあった。そうした人たちは、自分が社会的意義のある活動のためにボランティアをしたのは、「手持ち無沙汰だったから」とか「家を出るよい口実になったから」などと言うのだ。つまり、彼らは「他人を助けたかった」とは言いたがらないのだ。(『あなたが救える命』p.100)

 ↓マルサス人口論』は人が増えるのは指数、食料が増えるのは一次関数なので、食料が足りなくなると言った。しかし現状、穀物は畜産の飼料として、人間が必要なカロリーの大体6倍くらい余計に生産されている、ということを踏まえて。

 ...現在の状況とマルサスが予見した状況の違いは、こうである。すなわち、彼は人口の増大が大規模な飢饉を引き起こすことを予測したが、これまでのところ唯一の迫り来る「危険」と言えば、皆が菜食主義者にならねばならないということだけである。私たちが動物に与える穀物や大豆は、万一それが必要とされる場合には、飢餓を避けるのに役立つ緩衝材になる。実際のところ私たちは地球上のすべての人が食べていくのに十分なだけの食糧を生産している。二〇五〇年までにさらに増えると予想される三〇億人を合わせても、まだ十分なだけ生産しているのだ。(『あなたが救える命』p.162)

 ↓トマス・アクィナスについて

トマス・アクィナスは、「誰かの持ち物を黙って使ったとしても、極度に助けが必要だった場合には、窃盗とは言えません。なぜなら、自分の命を救うために奪ったものは、その人の持ち物になるからです」とまで言っています。(『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』p.41)

 ↓人類滅亡を防ぐ(降ってくる巨大天体を核爆弾で破壊する)のに一〇〇兆ドルかかるとして、お金をかけるべきかどうかについて。

...アメリカの環境保護庁や運輸省といった政府機関は、一人の死を防ぐための妥当なコストを決めるため、一人の命の推定価値を計算しています。現在の推定価値は六〇〇万ドルから九一〇万ドルとされています。仮に今世紀の中ごろ、二〇五〇年に衝突が起きたとして、その頃には世界人口が一〇〇億人に達すると予想されるので、一〇〇兆ドルから逆算される一人の命はわずか一万ドルになります。 (『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』p. 210)

 

おわりです。

*1:

www.worldbank.org

『あなたが救える命』が書かれたのは2009年で、本のなかでは極度の貧困の人数は14億人と書かれていました。『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』は2015年に出た本で、2014年のデータでは10億人を超える人が貧困ラインにいると書かれています。短期間で大きく減っている!

読書記録:根拠に基づいて決める『〈効果的な利他主義〉宣言! 慈善活動への科学的アプローチ』

 この本を読みました。

  この本は以下のブログ記事で紹介されており、実際に見ておきたいと思ったので読みました。

読書メモ:『<効果的な利他主義>宣言!:慈善活動への科学的アプローチ』 - 道徳的動物日記

道徳の問題は科学的に、定量的に考えなければいけない理由 - 道徳的動物日記

 

 生きているとさまざまな問題が発生します。たとえば僕が、起こっていることについて悩んで友人に相談したりすると、原則論に終始したり「世界は悪で、かなしいよね」みたいな結論で会話が終わることが多いです(特に男友達)。原理原則だったり世界は悪でかなしいことなんかとっくの昔からずっとわかっているし、時には原点に立ち返ることで役に立つことがあるだろうけれども、多くの場合今ここで問題に直面している自分にとっては、言ってみればどうでもいいことです。
 でも、なぜ原則論が役に立たないのかというと、物事の多くは程度の問題だからです。何をどの程度ゆずり、何をどの程度確保したいのかが人それぞれ違うことで問題が生じていて、それを貫く原則を主張したところで、当事者同士が納得することはありません。なんとか相手に対話のテーブルについてもらって、互いの利害の塩梅を一致させなくてはなりません。アドバイスが欲しいのは、利害の塩梅をどうすればいいのかという点についてです。
 『〈効果的な利他主義〉宣言!』では、その「程度の問題」をちゃんと定量化して比較衡量の上で行動の方針を決めましょう、と主張しています。俎上に上がっている中心的な話題は「世界の貧困をどう解決するか」ということです。「世界の貧困なんてどうでもいいよ」という人にとってはまったく読む気にならないとは思いますが、ただ単に考える例として慈善活動が挙がっているだけで、できる限り人を困らせてやりたいと考えている人も応用可能な考え方です。
 効果的な利他主義(effective Altruism)の基本的な主張を理解することができ、さらに個人的には大変素晴らしい考え方だと思ったので、備忘のために記事にします。

効果的な利他主義の概要

 本書の主題である「効果的な利他主義」は、次のことを最重要視します。

...効果的な利他主義で肝要なのは、「どうすれば最大限の影響を及ぼせるか?」と問い、客観的な証拠と入念な推論を頼りに、その答えを導き出そうとすることだ。 ...(中略)...何が世界にとって最善なのかを素直で中立的な視点から突き詰め、それがどういう行動であろうと最善の行動だけを取ると誓うのが「効果的な利他主義」なのだ。(p.13)

  単に、やればOKというわけではなく、やるからには最善を尽くそうということです。

 では、具体的にどのように考えて「最善の方法」を導き出せばよいのでしょうか。それは以下の五つの疑問に沿って考えていくことで、最善の方法にある程度近づくことができます。

①何人がどれくらいの利益を得るか?
②これはあなたにできるもっとも効果的な活動か?
③この分野は見過ごされているか?
④この行動をとらなければどうなるか?
⑤成功の確率は? 成功した場合の見返りは?

(p.15) 

  本書は、第Ⅰ部でこれらの疑問がなぜ重要かを確認し、第Ⅱ部でこれらの考え方を現実の問題に応用していくという構成になっています。なにか仕事をする人はある程度こういう考え方に基づいて仕事をしていると思いますが、それを人助けにも応用しようという話です。
 こう書くと、なんだそんなことか、と思ってしまいますが、なかなかそう単純にはいかないのです。私たちが直感的に選び取る意思決定は、多くの場合最善の方法ではないということが多くの例とともに本書内に示されています。

...多くの人々は、慈善活動にデータや合理性を取り入れれば美徳が損なわれると思い込んでいるので、人助けについてできるかぎりの知恵を働かそうとは考えない。(p.11) 

...たとえば、おじががんで亡くなれば、あなたは自然とがん研究への募金活動をしようと思うだろう。誰かの死をきっかけに世界をよりよくしようと思うのは、まちがいなく立派な行為だ。しかし、特定の病気だけに肩入れするのは気まぐれではないだろうか? もしおじが別の病気で死んでいたとしても、悲劇的であることには変わりはなかったはずだ。近しい人を失ったときに私たちが気にするのは、死ぬ前の苦しみであって、死因そのものではない。(p.43) 

 慈善活動という点でいえば、ほとんどの人は直感に従い、昔から続いている問題よりも新しい出来事に反応してしまう。自然災害への反応はそのもっとも際立った事例のひとつだ。...(中略)...私たちは病気、貧困、迫害のような日常的な緊急事態に慣れきっているので、常に緊急事態が起きていることを忘れてしまう。自然災害は劇的で新しい出来事なので、私たちの心をよりおおきく揺さぶる。その結果、私たちはそれをほかより重大で注目すべき災害だと誤解してしまうのだ。(p.62-63) 

 フェアトレード商品の需要は急増している。...(中略)...しかし、フェアトレード商品の購入を検討する際には、通常のコーヒーよりもフェアトレード・コーヒーに何ドルか余分に支払うことが、実際のところどれだけ貧困国の人々のプラスになるかを考える必要がある。「ほとんどプラスにならない」というのがさまざまな証拠から導き出される答えだ。(p.139) 

  センセーショナルな記述だし、多くの人の直感にも反するし、実際にがん研究への献金フェアトレード商品を購入している人にとっては「それはムダだ」と切り捨てられているようにも感じるので、反感をもつ人は多いかもしれません。実際、「その活動は効果がないばかりか、有害ですらある」という指摘も多いので、そんなふうに言われると「なにが効果的な利他主義だよ、ケッ」と思ってしまう人もいるでしょう。
 しかしながら向いている方向は「善を成そうよ」ということで一致しているはずですし、効果的な利他主義の基本的な主張は「やるからには最善の方法をとろうよ」ということです。最善の方法をとるには、現状を正確に把握することが大切です。知らないことはそう悪ではなくて、知らないのを認識しながらちゃんと知ろうとしないのが悪なのです。

 そして、今回読んでしっかり心にとどめておきたいと思ったのは以下の記述です。

...できるかぎりのよいことをするとはどういうことなのか? それは新しい証拠を突き付けられたときに信念を変える覚悟を持つということだ。たまたまあなたがいちばん心を動かされた活動ではなく、もっとも影響が大きいという証拠がある活動を支援しなければならない。この「中立性」を貫く態度こそが、効果的な利他主義をこれほど強力なものにしている。(p.213) 

  この本には、著者が効果的な利他主義の理念のもとでいろいろな調査を行って得たデータと、それに基づいてどのように判断すべきかということが具体例豊富に書かれています。仮に書いてあるデータや判断が間違っていても、効果的な利他主義が間違っているのではなくて、調査の方法や推論が間違っているだけなのです。だから、寄せられた批判は虚心坦懐に精査し、間違いのないものであれば取り入れていくのが、効果的な利他主義者なのです。
 この、批判者の指摘を吸収しみずからの糧にできる仕組みは、主義としてかなり強いです。効果的な利他主義は「世界をよりよくする」というグランドデザインを達成するための方法論です。方法論の部分は単に「より多くの事実を集めてそれをもとに判断する」ということです。だから、効果的な利他主義が気に入らなくてを打ち倒したいと思ったら「世界をよりよくすることは悪い」とか「世界をよりよくするとはどういうことなのか」という方向から攻めなくてはならなくなりますが、勝ち目は薄いでしょう。

もう少し理論的なこと

 効果的な利他主義を理解するのに重要な考え方はそう多くありません。数学の「期待値」と経済学の「収穫逓減の法則」です。(基本的な科学の考え方は要るか)

期待値

 効果的な利他主義ではざっくり言うと、ある行動がもたらす「よさ」を数値で表して、数値が大きくなるような行動をとるのが基本です。本書で最初に紹介される慈善活動の方法は「できるかぎりたくさん稼いで、できるかぎり効果的なお金の使い方をする団体に寄付する」ということです。ですが一方で、政治家という仕事は、職を得ることはきわめて難しいものの、ひとたび職を得れば個人では到底動かせないような金額の使い道を決定することに関与できます。本のなかでは、政治家になることは、どれだけのお金を寄付することに値するかを試算するのに期待値を利用しています。
 試算が適切かどうかはわかりませんが、イギリスのオックスフォード大学で哲学・政治学・経済学を学んで卒業し、イギリス議会に入ることを目指した場合、議員になれる確率は1/30。議員になった場合に影響を及ぼせる金額は年間800万ポンド(≒11億円)となるそうです。だから、政治家を目指す学生は112/30=3600万円の寄付と同程度の影響になる*1。任期5年で毎年3600万円を動かせて、さらに収入は6.5万ポンド≒910万円くらいでその一部を寄付できるというのは、なかなか他の仕事ではできないことだから「政治家になる価値はある」という判断ができるというわけです。

収穫逓減の法則

 これは、100万円持っている人と1万円持っている人それぞれに1万円をあげたら後者の方が喜びが大きいという話です。これは本書で勧められる「できるかぎりたくさん稼いで、できるかぎり効果的なお金の使い方をする団体に寄付する」の、「できるかぎり効果的なお金の使い方」を評価するのに大切な考え方です。お金が足りているところに寄付することと、お金が足りていないところに寄付することでは価値が違うからです。
 現在地球上の先進国と貧困国の格差はきわめて大きいものになっています。これはいいことではありませんが、そのおかげで効果的な利他主義に基づく行動が、効果的になっています。

 あなたが年間5万2000ドル以上を稼いでいるなら、世界的に見ると上位1パーセントに属する。アメリカの平均年収2万8000ドルを稼いでいるなら、上位5パーセントだ。アメリカの貧困ラインである年収1万1000ドルを下回っているとしても、世界の85パーセントの人々よりは裕福だ。私たちはまわりの人々と比べて判断することに慣れきっているので、富裕国の人間が世界的に見てどれだけ裕福かを忘れてしまうのだ。(p.19)

...あなたがアメリカの平均年収2万8000ドルの昇給を得たときの便益は、貧しいインドの農家が220ドルの追加収入を得たときの便益と等しいことになる。(p.24)

  これらの考え方を先の「五つの疑問」に答える際に利用して考えると、「最善の方法」に近い慈善活動ができるというわけです。このほかにもQALY、WALYなどといった指標をつかったりして、あの手この手でなるべく定量的に活動の効果を把握しようとしています。

効果的な利他主義への批判

 効果的な利他主義への批判は結構あるようですが、それについて本書のなかで言及されています。

...効果的な利他主義には賛否両論がある。たとえば、一部のレビュアーは寄付の個人的な側面を重視し、たとえ全体的な影響は最大でなくても、自分が情熱を持てる活動分野や、自分の暮らす国や地域の人々にとってメリットのある活動分野に寄付をするべきだと主張している。また、効果的な利他主義は貧困の根本原因(教育の不足、政府の腐敗、圧政、戦争など)ではなく貧困の症状(健康障害など)に着目しすぎているという批判もある。彼らは貧困の根本原因に対処するには制度的な変革が必要だと主張している。
 効果的な利他主義コミュニティの人々は、本書が刊行されるずっと前からそのような議論と向きあい、多くの時間と労力をかけてこうした意見について検討を重ねてきた。...(中略)...アメリカ国内の人々の生活に及ぼせる影響は世界の最貧困層の人々の生活に及ぼせる影響と比べれば微々たるものだという結論にたどり着いた。
 貧困の根本原因に目を向けるべきだという意見に関しては、貧困の根本原因などわからない、というのが私の答えだ。20世紀、韓国や台湾などの国々は貧困から抜け出したが、エチオピアケニアなどの国々は抜け出せなかった。その理由はほとんど解明されていない。(p.211-212) 

  このことは、以下のブログ記事を読むともっとわかりやすいかもしれません。

davitrice.hatenadiary.jp

 

 主な批判への返答は、著者の説明で十分納得いくものだと思います。が、前者の批判(最大の影響が及ぼせなくても、好きな分野に寄付すればいいじゃないかというもの)の気持ちはまぁわからないでもないです。それまで自分がやっていたり、やろうと思っていたことがあまり意味ないと言われると、「そんなことはない」と言いたくなるのはよくあることです。あとは、個々の活動の個性を無視して数値化していくのが冷徹にみえるというのもまぁそうかもしれない。
 でもそうとはいえ、3万円寄付するとして、2.7万円は好きなところに寄付してのこり3千円は効果的な利他主義の考え方で選んだ対象に寄付するとかでも、0円よりは十分効果的だしわざわざ主義にケチつける必要ないんじゃないの?と思います。効果的な利他主義の考えから行くと残り2.7万円もちゃんとしたところに寄付するのがいいので、上の行動は批判の対象になるのかもしれないですが、わざわざ批判しにいく効果的な利他主義者がいたらそれは効果的な利他主義者ではない気がします。効果的な利他主義者であれば、そうして批判して寄付額が減る場合と批判せずに3千円が寄付される場合とを比較して判断するだろうからです(比較の結果批判したほうが便益が大きいという結論が出れば批判するでしょうが)。
 以前読んだ『現実的な左翼に進化する』でも思ったのですが、シンガーや本書の著者マッカスキルのような人は、かなり有益な考え方をしています。机上の空論や絵に描いた餅について話すとき、人は何かと気持ちよくなってしまうものですが、やはり現状の変更はダイナミックには起こらず、すこしずつすこしずつ徐々に変わっていくものです。ルールの変更はその最たるもので、ダイナミックな変更ができるのならもう最初の日本国憲法のはいまや似ても似つかぬ姿になっているでしょう。だから、いま自分にできることは何か、そして一番効果のあることは何なのかということを常に意識して実際の行動をとるのが大切だ、という、いわば当たり前のことを改めて認識させてくれる本でした。

備忘のメモ

 最後に印象的だった部分をいくつか抜き書き。

...たとえば、目覚まし時計の発明前、人々が仕事に遅刻しないよう、朝に眠っている人々の家の窓を叩いて回る「ノッカー・アッパー」と呼ばれる職業があった。(p.174)

 

「寄付するために稼ぐ」という選択肢を検討する際のもうひとつの重要なポイントは、あなたほど利他的でない人々に囲まれて仕事することで、あなたの価値観がいつの間にか消滅してしまう危険性だ。...(中略)

 これは重要な問題であり、もしあるキャリアがあなたの利他的なモチベーションを破壊すると思うなら、そのキャリアを追求するべきではない。しかし、この点はさほど大きな問題にならないことが多い。その理由はいくつかある。...(後略)(p.176)

↑続くのは、「仕事を変えればいい」「利他主義コミュニティに参加する」「モチベーションを維持している人はたくさんいる」という理由。自分にとってはあまり説得的ではなく、今後十分注意して解決策を見つけておかねばならないと思った。

 

...私のある友人は、数学界のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞は、その受賞者についてふたつの物事を証明していると冗談を言った。ひとつはその人物がきわめて重要な物事を成し遂げる能力を持っていること、そしてもうひとつは実質的には何も成し遂げなかったことだ。あなたが一流の研究者で、学界内での地位をある程度犠牲にする覚悟があるなら、応用研究の分野へと移ることで世の中に巨大な影響を及ぼせるかもしれない。(p.183) 

 ↑現状で測れる便益をもとに考えるのが「効果的な利他主義」である以上、基礎科学の価値が低く見積もられるのは仕方がないが、やはり残念な気持ちに。

 

...ボランティアをする人はその分野で専門的な訓練を受けていないケースが多いため、提供できる利益は限られてしまう。と同時に、相手の貴重な管理能力を奪ってしまうことも多い。そのため、ボランティア活動はむしろあなたが手を貸す慈善団体に実害を及ぼす場合もあるのだ。実際、ある非営利組織から聞いた話によると、彼らがボランティアを利用する最大の理由は、将来的にドナーになってくれることを期待しているからだという。...(中略)

 しかし、こうした点だけにとらわれる必要はない。むしろ、獲得できるスキルや経験という観点からボランティア活動を考えることをお勧めしたい。...(中略)

 自分自身にとってメリットがあるからという理由でボランティア活動をするのは少し気が引けるかもしれないが、世の中に影響を及ぼすための第一歩ととらえているかぎり、私はなんの問題もないと思う。どの分野でもそうだが、誰かの役に立つまでには一定の訓練が必要だ。その点、ボランティア活動は経験を得るための絶好の手段になりうるのだ。(p.185-186)

↑切ない話かと思ったら違ってよかった。

 

おわりです。

*1:本のなかでは、800万ポンドを算出したところで止まって、その金額を稼いで寄付した額と比べているが、たぶん間違っている

読書記録:「わかりやすい」って何?『学術書を読む』『わかりやすさの罪』

これらの本を読みました。

わかりやすさの罪

わかりやすさの罪

 
学術書を読む

学術書を読む

 この2冊はたまたま同時期に読んで、どちらも「わかりやすさ」に対する疑問が展開されていました。考えたことが共通するので、まとめて記事にします。

 読んでいて特に驚いたのは、「書籍要約サービス」とか「読まない読書会(アクティブブックダイアローグ:参加者数人で分担して1冊の本を要約する)」というのがあるという情報です(『わかりやすさの罪』に出てくる)。効率的に情報を身につけるサービスとして注目されているそうです。

creive.me

www.abd-abd.com

 こんなサービス、特に要約サイトのほうは出版社も著者も忌々しく感じると思うのですがよく掲載を許可するよな、という感じです。

 とはいえここ2,3年、こういうコンシェルジュのようなサービスはもっとも求められているものだよな、とも思います。実際『学術書を読む』のほうは、「読むべき学術書を選ぶことが難しい」と書かれた大学院生からのメールを著者が受け取ったことをきっかけにして書かれており、「専門外の学術書はどのように選んでいけばいいのか?」ということが内容の中心です。売れてる本やYoutuberの動画、インフルエンサーツイッターなどなどを見ると「この商品がいい!」「このような考え方をするとうまくいく!」などと「何かを判断する指針」を示しているものが多い印象です。世の中にあふれる判断材料が多すぎて、誰かに決めてほしいと思う人が多いからそういったものに人気が出るのでしょう。最近はどんなことでも選択肢が多いので、自分もなにか選ぶ必要があるときにはそういう情報に頼ることが多いです。なるべく選択肢の少ない方向に進もうとさえします。

 『学術書を読む』の本選びの指針を説明する章のなかに、「学識のある人を慕う、という本選び」というコラムがあります。読んで字のごとく、学識があるなと自分が思う人が読んでいる本を読むということで、僕自身が読む本を選ぶときはこの方法で選ぶことが多いです。これって本質的には、好きな芸能人とかYoutuberが紹介してる商品を買うのとおんなじことです。『学術書を読む』の「良い本を選ぶには」という問題意識は、先の要約サイトにも共通しています(「良い本を効率的に見つけるにはどうしたらいいだろう?」)。

「わかりやすさ」って何

 今回読んだどちらの本も、「わかりやすさ」には否定的です。

...読書においてもっぱら「わかりやすい」ことを要求するのは,身体への負荷をかけずに身体を鍛えようとすることと同じです。(『学術書を読む』p.39-40)

 目の前に、わかりにくいものがある。なぜわかりにくいかといえば、パッと見では、その全体像が見えないからである。凝視したり、裏側に回ってみたり、突っ込んでいったり、持ち上げたり、いくつもの作用で、全体像らしきものがようやく見えてくる。 でも、そんなにあれこれやってちゃダメ、と言われる。見取り図や取扱説明書を至急用意するように求められる。そうすると、用意する間に、その人が考えていることが削り取られてしまう。(『わかりやすさの罪』p.2)

 わかりにくいことをわかりやすくまとめた書籍や体験では、重要な部分が欠落してしまうという懸念がなされています。「わかりやすい/わかりにくい」については「大変難しい問題」としながらも『学術書を読む』のなかで次のように述べられています。

...「わかりにくい」と言われる本は,たいていの場合,理解するにはそれなりの根気と時間と好奇心を必要とするという程度のものだということです。逆に言えば「わかりやすい」とは,基礎的な知識のない者でも躓きもなくすらすら読める,ということになるかと思います(『学術書を読む』p.35)

 学生のとき、学生が教員の授業を評価しているのをよく聞きました。そのなかでよくでてくるのは「あの先生の授業はわかりやすい/わかりにくい」という発言でした。「わかりやすい先生」の授業は人気で、「わかりにくい授業は意味ないから出ない」と言って出てこない人も結構いました。自分としては「あの授業は楽しい」「つまらない」しかなかったし、今までも「わかりやすい/わかりにくい」で何かを評価することができません。「わかりにくい」と言うと、対象をわかったうえで評価しているようにみえるのですがそうではなく、「自分はそれを理解しておらず、理解する根気がありません」と言っているのと同じことに感じて、当時からすごく恥ずかしくて言えませんでした。
 授業だったら説明や話し方の上手い下手はあるし、本だったら書きぶりの上手い下手があるので、「わかりやすい/わかりにくい」と感じることは当然あります。だからサービスを受ける目線に立つと、授業を提供したり本を書くなら聞きやすさや読みやすさに気を配れというのはもっともな意見だけど、そこが評価の第一基準になっているのが自分にとっては気持ち悪い。

「わかりやすさ」への気配り第一になると気持ち悪い

 なににつけても批判的に、自分なりの考えを加えながら取捨選択して判断せよ、ということはいろいろなところでしきりに啓蒙されます。でもそれはおそらく平均的な市民には不可能ですし、どんな知識人も実際はやっていないと思います。あらゆることを1から10まで自分で考えて組み立てようとすると、間違った結論になることも多いし、すでに誰かによって考えられたある程度妥当な答えがあるならそれを理解するほうがいいです。前にプログラマーの人に「イチからコードを書くこともあるんですか?」と聞いたら「そういうのはあまりやらないですね。意味がないので」と言われ、愚問だったなと思ったことがあります。プログラムのコードと同じように、何かに対する理解もなんらかのテンプレートや下地をもとにして改良していくことが基本です(最新の研究成果で参考文献のついていないものはありません(←多分))。

 本には、妥当かどうかはわかりませんが「誰かによって考えられた答え」がまとめられます。それなりの本には、その答えに至った経緯がしっかり書かれています。『学術書を読む』『わかりやすさの罪』のどちらでも、「わかりやすくするために、その経緯の部分をなるべくシンプルにしている」と指摘されています。
 これらのことを踏まえると、「何かを理解する」というのは、結論だけでなく経緯をとらえることだ、と見えてきます。実際『学術書を読む』の著者の鈴木哲也は、前著『学術書を書く』(高瀬桃子との共著)で、「学術書が提供するのは単なる情報ではなく、有機的につながった知識」と言っています*1。だから結局「わかりやすい」がなんか気持ち悪いのは、「それだと本当にはわかったとは言えないんじゃないの?」が拭えないからではないかと思います。だから冒頭に挙げた「書籍要約サービス」や「読まない読書会」のようなものへの違和感が生じるのでしょう。

 あと単純に、わかろうとする側が「わかりやすくしてよ」「どうしてわからせてくれないのか」という態度が気持ち悪いというのもあります。『わかりやすさの罪』のなかで、「どうして私に理解させてくれないのか」という小見出しのついた段落で以下のように書かれています。

...いつもテレビで見ている芸人さんがおススメしているのだから、わかりやすくて面白いに違いないという勝手な確信によって本を手にとり、「ストーリーと深く関わること」がない知識や、「誰が誰だかわからない」と感じさせるキャラクターが登場する小説を読まされたとして、「アメトークに騙されました。」との異議申し立てを行う。
 自分がその小説を理解できなかったのであれば、なぜわからなかったのかを主体的に語るべきだとは思うのだが、自分が信頼している芸人や番組が薦めたのに理解できなかったことをただただ嘆いてしまう。(『わかりやすさの罪』p.17-18) 

 ここで挙げられている事例は小説ですが、それこそ「経緯を把握する」の最たるものでもこういうことが起きているのです。これは自分にとっては、上に書いた「自分は根気がありません」を恥ずかしげもなく表明しているのが気持ち悪いです。

「わかりやすい」は悪なのか?

 こういう話題では、本などに接するときの受け手側の態度への苦言が主になってしまいます。しかし、「わかりやすい」のがいいとは思えないけれど、一概に悪とも言い切れないのではないかとも思います。実際、ここまで僕が書いてきた内容や紹介する本のなかに書いてあるのは「何かを理解するなら本気で理解しようとしろ」というようなある種精神論のようなものだからです。『学術書を読む』のなかに「それなりの根気と時間と好奇心を必要とする」と書いてありますが、「わかりやすい」を求める人たちはそれらがないけどわかりたいわけです。
 体育が嫌いだったという人は多いですが、その理由を聞くと「精神論が嫌だから」というのが多いです。でも、体育嫌いだった人たちが中年になって必要に迫られて運動を始めると楽しくなってきたという話を聞くことがあり、その理由は体育教師のような理不尽な存在がいないから、だったりします。
 「なにかを理解する」に関しても、嫌な体育教師のような存在が結構いるものです。そういった存在は、「嫌ならやらなくてよろしい」と言うわけですが、誰もが嫌でもやらなきゃいけないのが「なにかを理解する」ことで、しかもなにをどれだけ理解すればいいかわからないという不安があるから、なるべく数多く、広範囲に、そして手軽に、というニーズに目をつけて先の書籍要約サービスのようなものをはじめとした、『わかりやすさの罪』で語られるさまざまなエピソードが生まれきたのでしょう。

 だから、手放しに肯定できないですが、「わかりやすい」を求める人たちやそれに応答して生産していく人たちのことを一概に悪だとも言い切れません。「わかりやすい」をきっかけにして「わかりにくい」にとりかかる人もいるはずですし。僕としては、わかりたいと思ったら「根気と時間と好奇心」くらい自分で準備しろよと思いますが。

最後に

 ここまで書いてきて思うのは、客が強く、供給側が弱い...ということです。以下の記事はアメリカの大学の事例ですが、学生(=客)の要求が肥大化しおかしな状況が生じていることが指摘されています。

アメリカの大学でなぜ「ポリコレ」が重視されるようになったか、その「世代」的な理由(ベンジャミン・クリッツァー) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

 客からの要求をどこまで受け入れて対応するかは組織によりますが、どこの組織も要求を受け入れざるをえないことが背景にあると思います。『学術書を読む』『わかりやすさの罪』で話題に上ったような出版社やテレビ、ビジネス上のやりとりのなかで、客の要求をのまないと儲からなかったり炎上したりしてしまうという危機感があるのでしょう。上記記事のように、アメリカの大学でさえそのような状況にあることには絶望感があります。

 おわりです。

*1:引用ではないので細かい文言は違うかもしれません