ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:『江戸の読書会』

この本を読みました。

 

 

こんど新しく仲間を集めて読書会をすることになり、その課題本となったので読みました。忘れるといけないので、記録を残します。

 

江戸時代の学校や塾で、学問(中国の思想書を読むこと)が行われていたとき、「会読」という形式の学び方がポピュラーだったという事実があります。この事実を出発点に、会読とは実際どのようなことをしていたのか、どうしてポピュラーだったのか、どのくらいポピュラーだったのか、この学び方の社会的意味や影響はどんなものだったのか、といったことを検討する本です。

好きか嫌いかでいうと学問の話が好きな僕にとっては、本の中に描かれている江戸時代の会読の様子には胸を熱くさせられました。一冊の本を肴に、ああでもないこうでもないと言い合うのは楽しいものです。

 

現代の日本では、高学歴が将来の地位や収入と直接結びつくという観念が強いのですが、江戸時代はそうではなかったそうです。それならば、なんで学問をやるのか、というのはわからなくなってきます。著者は次のように書いています。

経済的利益や社会的権勢を得られないにもかかわらず、儒学に励む人々が江戸時代に現れたのはなぜかという問題は、一層不可解な謎として浮かんでくるだろう。実は、この問題は江戸思想史の大問題である。(p28)

中国や朝鮮には科挙という国家公務員を選抜する試験があり、勉励刻苦することが、身を立てるための一つの方法としてひろく認識されていました。だから、中国や朝鮮の若者はいつの時代も、こぞって勉学に励み、競争してきました。

ところが江戸時代の日本には士農工商とはっきりした身分制度があり、どんなに学問を頑張ったからと言って、えらくなれるわけではありませんでした。それなのに、武士だけでなく町人、百姓にいたるまでひろく学ばれました。それはなんでだったか、というのがこの本が解こうとする謎の一つです。

一方で、江戸の学問環境には、会読という学びの方法がよくみられる、という点も、本書が解こうとする謎の一つです。本のタイトルにもなっている、いわゆる読書会が、公式な教育カリキュラムのなかに組み込まれているが、これはいったいどういうもので、どういう経緯で発展したのか。そしてその実態や、意味するところとは? こういうところを、史料にもとづいて分析しています。

 

会読は、現代の読書会とは違う

まずひとつ抱いた感想は、本書で取り上げられている「会読」は現代で行われているいわゆる「読書会」の多くとは大きく違うなぁ、ということです。そういう意味でこの本は、江戸時代のエリートたちの教育環境を解き明かしたものと言えます。

現代の教育と違いは、一つに課題本が古典(中国語)や外国語の本になっていることです。現代で「読書会」と銘打って行われているのは、僕の少ない経験や見聞のかぎりでは、最近の日本語で書かれた本を使うのが多いと思います。そして選ばれる本も、たぶん小説が多いんじゃないだろうか。

そしてもう一つ、参加者の属性も、現代は年齢性別問わず、趣味のつながりで集まって行うことが多いだろうけれども、江戸時代は藩校や私塾で集った学生たちが、先生の監督下で行います。したがって、本の中でやっていることは、どちらかというと大学の研究室やゼミで行われる輪読会とかが近いと思います。

本の中で、熊本の藩校(武士階級が通う学校)であるところの時習館のカリキュラムが紹介されています。時習館は1755年設立で、江戸時代が1603年にはじまり1867年におわりましたので、江戸時代中頃のようすということになります。

時習館では、中国語の文献(孝経・四書・五経唐詩・文選)の素読の段階と、会読の段階がありました。素読段階は入学年齢の10歳から15,6歳くらいまで行い、そこから素読と会読の併用を18,19歳まで行って、そこからさらに上の学年?にはいり、優秀な者が選抜されて四書・六経のなかから専門を決めてさらに深く学び、さらに優秀な者は藩の外へ遊学に行く……というようなシステムだったようです。中高大一貫校みたいですね。

10歳から15歳までの5年間、素読のみを行い、それから会読をする、という流れからは、誰もが気軽にできるようなことじゃなかった、ということがわかります。素読では、意味を考えずにひたすらに本を音読して暗唱できるくらいまでになることを目指すそうです。その訓練を乗り越えてやっと、会読として内容についてみんなで討論するということからは、ますます大学のゼミの感じがするなと思いました。

 

江戸時代の書物の価値が不明

江戸時代は、出版物をとりまく経済が現代と大きく違うはずです。そうすると、学生にとって「本を手に入れる」ということの意味も違ってくると思います。本の中では、「会読が流行ったのは、本の理解度次第で身分に関係なく対等に戦えるからだ」ということが何度も言及されますが、本が高くて手が出ない層がいたらかわいそうだなと思って読んでいました。

同じ平凡社から、今田洋三『江戸の本屋さん』、鈴木敏幸『江戸の読書熱』という本が出ており、この疑問はこれらを読めば解決しそうだなと思って買ってあるのですが、まだ読めていません。

 

最後に

この本では、著者は読書会の目的や動機についてふれ、そこに著者の思いを記したりしています。たとえば以下。

会読前の日は、前日から夜が明けるのを待ちかね、「児女子の祭見にゆくの心地」がした。こんな楽しい読書会をもてたならば、どんなに幸せだろう。(p.129)

 

これは、杉田玄白が『ターヘル・アナトミア』を仲間たちと共訳していたときの記録に、著者が言及しているところです(杉田玄白の訳業を、会読とみなすというのも斬新な感じがしますが、実態はたしかに会読ですよね)。著者は、なぜ会読が流行ったか、の問いに、「身分が関係なくなる」というところを強くあげてはいますが、「会読が単純に楽しかったからだろう」ということも何度か書いています。やっぱり、一冊の本を肴に仲間たちであれやこれや論評しあうという会が好きな著者なんだろうと思います。

 

 全体的には、実例の提示が多くて飽きる人は飽きると思うのですが、楽しそうに会に参加している人たちの様子が好きな人なら読んで楽しいと思います。

 

おわりです。