ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:“本物の”オタク『インターネット2』

この本を読みました。

nyalra.booth.pm

 

 この本は、にゃるらさん(Twitter id:@nyalra)と岩倉文也さん(Twitter id:@fumiya_iwakura)が中心となってつくった同人誌です。INTERNET2のことと、本物のオタクのことが書いてあります。すべての記事をオタクが書いています。

f:id:nattogohan_suki:20191212114838j:plain

筆者はすべてオタク

岩倉文也さん

 特に面白いのは、岩倉文也の美少女ゲームダイアリー。オタクの岩倉文也さんは詩人でもあるのですが、美少女ゲームというかエロゲーをやりながら、こんなこと考えるんだ(言うんだ)という新鮮な驚きがありました。

エロゲにおけるHシーンというのは概して退屈なものだ。なぜならHシーンに突入するや否や、それまでヒロインが形成してきた人格(キャラクター性)は崩壊し、ただ不気味に喘ぐだけの肉塊になってしまうからだ。〔美少女ゲームダイアリー(岩倉文也)p.60〕

読書はとても疲れる。長くとも一、二時間くらいしか集中力は続かないし、…(中略)しかしエロゲというのは不思議なもので、ぶっ続けで五時間やろうが十時間やろうが一向に平気なのである。

(中略)...読書がみずから文字を追う、ページをめくるといった能動一辺倒の行為であるのに対し、エロゲはボイス・BGMを聞く、立ち絵や一枚絵を視野に収める、といった受動性と、クリックによる文字送りの能動性とがいい塩梅で混じりあい、長時間の作品享受に堪え得るメディアとなっているのではないか。(同上 p.64-65)

 ここで引いた分析は、どこかで見たことあるようなものですが、これを引き合いに出したあとの本当に言いたいことがすごい。エロゲはやってるんだけど、結局詩のことしか考えてないような気がする。それにしてもとにかくエロゲーをやっている。数えたら文中に30本くらいタイトルが出てきていた。

詩の一行目、というのは詩人にとって永遠の謎である。それがどこから来るのか、いつ来るのかは詩人本人にも全くわからない。そのいつ来るかもしれぬ一行のために詩人の生活はあり、暇な時間はエロゲなどをやって案外気楽に生きている。(同上 p.71)

 この本のなかの岩倉文也さんの作品は「美少女ゲームダイアリー」が白眉だと思いますが、ほかにも詩作品、短歌作品も載っていてマジでこの本はそれだけで価値がかなり高い。

にゃるらさん

 2000年代中盤からインターネットに触れてきていて、基本教養は身につけているつもりの自分ではありますが、いかんせん能力が足りず、ついに本物のオタクにはなれませんでした。にゃるらさんのことは、たまにリツイートで見たり、面白そうなタイトルのノートをみるくらいの情報しか知りませんが、この本でよくわかりました。昔から才能を持っていたようです。

学校の成績も運動能力も全く割り振られなかった僕ですが、どうやらインターネットの文章を読むのは苦ではないという尖ったパラメーターが搭載されていた模様。〔インターネットと僕(にゃるら) p.17〕

...某画像掲示板などもみるようになり、そこからカルトなアニメを知っては、自転車でビデオ屋に走ってレンタルするように。始めは、ただみんなとお話ししたかった。(同上)

  ここでいう「みんな」は、ネット上のみんなです。おもしろいものを追求するためにというか、つまんないものを避けるためにというか、当然のように学校に行かないで鉱脈を掘り続けることができるのは本当にすごいことです。

 この「インターネットと僕」をはじめとして、寄せてある文章群をみると、「スゴいオタクの一例」が立体的に浮かび上がってきます。顔出しで人格を伴ったスゴいオタクを見、その語りをじっくりと読み込むことで、そのスゴさが実感を伴って理解できます。たとえばこれがネットの記事だったら、長いし読み飛ばすし、ふーんなんかありそうな話だね、って片付けちゃってたかもしれませんが、本の形で頭に入れられて本当に良かった。ウケるのは、「にゃるらがトリップした時の思考メモ」に批判的に「にゃるらの思考メモ解説」がついていることです。「思考メモ」の、なんか手癖だろうなこれ、っていうところにちゃんとツッコミがいれてあります。おもしろい。

“本物の”オタク

 正直いうと、今まで出会ったオタクは自称他称問わず、スゴイ!!!と思える人は数えるほどしかいませんでした。キツい言い方をすると、最近の自称オタクは知識があるというわけでも熱意がすごいというわけでもないただのキモいだけの人が多いです*1。その理由はなんとなくわかっています。僕の人とのつながりというと社会になってしまうので、普通に学校に行ったり、受験勉強をしたり、スポーツのコミュニティで頑張ったり、なんなりかんなりで、結局真のオタクから見ると陽の場所にしかおらず、したがってなんやかや常識的な感じにまとまっているのです。小中高と学校にはちゃんと通うわ、大学は卒業しちゃうわ、果ては就職までしてしまっている。当然僕もそういう人たちで構成された場所にいるので、突き抜けたオタクにはどうしても会えない(し、会っても僕が相手にされないしそもそも僕のほうで気づけない)。それに、来なくなったり辞めてしまった人とはそうそう会わない。でも、インターネットのなかには、ちゃんといるんです。そういう“本物の”オタクが。

 でもそういうオタクがちゃんといるとはいえ、インターネット上でもそれに出会うには能力が必要なんです。ただインターネットを見てれば勝手にオタクになれるんじゃなくて、ネット上のテキストを読む能力は必要最低限だし、面白そうにしゃべってる(書き込んでる)人が話題にしているものに手を伸ばす行動力とそれを実現するだけの財力と、鑑賞する能力も必要です。

 一般的に小学生とか中学生なんかは月数百円とか、せいぜい二千円くらいもらえてれば御の字くらいの財力ですから、たとえば放課後駄菓子屋にいくとか毎月コロコロを買うとか毎週ジャンプ買うとか、週末ちょっと駅前に遊びに行ってクレープでも食うかなんてことをしてしまえばお金なんてないわけです。でも、インターネットのテキストを読む能力があれば。どこにお金を使うべきかがわかる。少なくともヒントになる。一回でも、テキストを読む→勧めているものを買う(借りる)→おもしろい、というループに触れてしまえばほかにお金を使うわけにはいかなくなる。しかもインターネットは批評の場でもあるわけで、当然言語感覚は優れていくし鑑賞態度も陶冶されていくしで、面白くなっていくに違いないんですが、しかしいかんせん身近にいる人としゃべらないし、そもそも身近に人がいないので誰にも見つからない(し、しゃべっても気づかれない)。

 にゃるらさんの環境は、そういう一般の小中学生とは違って結構特殊なのですが、やっぱり上で引いた、「みんなとお話したかった」という気持ちからくる、おもしろいものを追求する姿勢がここまでの魅力につながっているんだと思います。ネットカルチャー黎明期から正体を偽ってインピオモノの小説を書く、エロゲの感想を書く、文字コラに手を染める、などいろいろな役割を演じている。どこの世界もやっぱり熱意ですね、ということがわかる。熱意という表現はあまり合っていないかもしれないけれど。

…僕はあることに気づいたのです。それは、世の一般人は僕の想像よりもインターネット慣れしていない、または慣れているつもりでしかないこと。〔インターネットと僕(にゃるら) p.23〕

 インターネットの登場から現在まで、本当につねにインターネットは変わり続けています。それをさまざまな点に立って休みなく観測を続けている人にとっては、インターネット慣れしていると認められる人なんてほんの一握りしかいないだろうと思います。僕がインターネットの基礎教養を身につけたのは中2~高3くらい(2003~2008)。半年ROMったりROMらなかったりして場の空気を把握しつつ、流れに上手に乗れたときはとっても嬉しくなったりしていました。その後はガラケーしかない時期があったり、普通に忙しすぎたりと断絶の時期があるためてんでダメなインターネットユーザーです。結局今も昔もインターネットの深みにはもぐりこめていない中途半端な存在になっています。仲間内でミニ四駆が速いからといって大会に出たらクソザコでした、みたいな状態です。

 この本で描かれたインターネット(またはINTERNET2)がすべてではないことに留保は必要です。おそらくにゃるらさんの知らない世界や言語化されていないけどネット上にある交流は当然あると思いますが、しかしこの本はたしかに、インターネットのひとつの側面を克明に描き出していると感じました。

結語

 自分語りの長い記事になってしまいました。結局何が言いたかったかというと、本物のオタクが実際にいてそれにこうやってアクセスできるなんてすごいなぁと思ったということと、2000年代のライトなインターネットユーザーにもかなり楽しめる本ですよということです。ちょっと高いけどおもしろいのでオススメです。

*1:言葉の定義は時とともに変わっていってしまうので仕方がないという立場もとれるけど、こうやって本物のオタクの存在がちらつかされるとやっぱり釈然としない