ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:一対一の関係 『十七八より』『未熟な同感者』『最高の任務』

 『群像2019年12月号』より「最高の任務」(乗代雄介)を読みました。「最高の任務」は、乗代雄介さんの「十七八より」、「未熟な同感者」と地続きのお話です。「最高の任務」があまりにもよく、三作品をつい読み返してしまいました。

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

群像 2019年 12 月号 [雑誌]

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/11/07
  • メディア: 雑誌
 

以前の二作は単行本になっています。(「未熟な同感者」は『本物の読書家』に収載)

十七八より

十七八より

 
本物の読書家

本物の読書家

 

 

過去を振り返る時、自分のことを「あの少女」と呼ぶことになる。叔母はそういう予言を与えた。そのとき彼女はまだ生きていて、だから今はもういない。(『十七八より』 p.1)

 「十七八より」から始まる三作品で、「阿佐美景子が「書く」世界」が描かれ、読者はそれを読みます。主人公の阿佐美景子の「書くこと」への姿勢とか、考え方が表出している文体はとてもきれいに見えます。ほかにも出来事はあったけどここには書いていないよ、ということや、すこしかっこつけて書いていますよ、ということを示唆されていたりもします。その結果として、小説の筋として起こる出来事そのものへの興味より筆者(=阿佐美景子)の考えていることや、その背景にあるものへの興味が強く喚起されます。登場人物はいろいろと出てはきますが、この三作品の登場人物は本質的に、景子(あの少女、または私)と叔母のゆき江ちゃんだけだろう、と感じています。叔母と姪の一対一の関係を執拗に描いている。

 このように筆者への興味が喚起されると、「それがいつ書かれたのか」が気になってくるものです。作品を注意深くめくってみると、作品の中の時間がうっすらと感じ取れますが、書かれたのがいつのことなのかははっきりしませんでした。ただし、「未熟な同感者」、「最高の任務」と書かれ、一番最後に「十七八より」であろうことはなんとなくわかります。

 この三篇をとおして、ゆき江ちゃんが景子に、いろいろなかたちで打ち込んだくさびの一部分が手を変え品を変えて明るみに出されていきます。景子は、気づいていることを書き、書くことで気づき、しかし気づかれなかったことは書かれない。それに、覚えていられることしか書けない。こんなのは当然のことですが、このことがゆき江ちゃんをただならない人物に仕立て上げています。そして、景子は一貫して、ゆき江ちゃんだけを見ている。こんな関係性を眺める権利をもてることは、この小説を手にして得られる最高のメリットだと思いました。

 

 最後に、この三篇からとくに印象に残った箇所をいくつか引用して終わりにします。

「あのね、私もゆき江ちゃんぐらいの年になったら、二回り年下の未熟な同性たちには是非ともそういう態度で接してやるって決めてるの。そうやって、はぐらかして知らないうちに囲いこむ、牧羊犬風のやり方をしようってね」

「ずいぶん素敵な喩えを使ってくれるのね」と叔母は言った。優雅に毛抜きを泳がせている。「羊を追いかけ回すシェパードたちのうるんだ目って、すごく親近感を覚えるわ。暑苦しい毛皮を背負って一生懸命あらぬ方向に向かってふらふら歩きだす羊を見てると、奴ら、本当にたまらなくなるんじゃないかしら」(『十七八より』p.30) 

こうした芸当(引用者注:文学作品からの引用)を、しばしばあまり効果的でない場面でも安売りする彼女の記憶力に、おそらくただ一人の取引相手である少女が絶えず怯えていたのは、一介の女子高生にとってそんな書くときにだけ許されるような魔術は、この世に実在しては都合の悪いものだったからだ。こちらがそれを真似るときは、執拗に準備された手品のようにしかならないのである。(『十七八より』p.120)

...「誰にも言わずに何度も思い出してたら、どんどんいい思い出になるみたい。ここで話せてよかった。一人でなければ遠くへ行けないなんて思っちゃダメよ」

「は?」

「一人でなければ遠くへ行けないなんて思っちゃダメ。自分しかやっていないようなことに興味を持たないようにお願いするわ」

「ゆき江ちゃんの話、さっぱりついていけない。いつもだけど」(『十七八より』p.137)

「ね、悪いこと言わないから覚えときなさいよ。色んなことを。なるべく全部のことを覚えておいて。今までにこの世に起こった全部のこと、何かのきっかけで思い出せるかもしれないって、覚えておいて」(『十七八より』p.138)

 

まして、私は現実に一度あっただけのこの話に何度も手を加え、あろうことか、そのたびに正しく書いたつもりでいたはずなのだから、にわかには信じ難いことである。そしてまた信じたくないことに、この失敗の実感だけが、切実なのだ。(「未熟な同感者」『群像 2017年7月号』p.27)

 

少しでも手がかりを集めるつもりで、私は鍵付きのキャビネットから小学生の時の日記帳を引っ張り出した。紺色で丸背みぞつきの上製で、二〇〇八年十一月八日、叔母が小五の女の子にあげるにしては木訥が過ぎるそれをくれたから、私は日記を書き始めたのだった。しかもその日の私はひどい熱で、ベッドに寝たままそれを受け取った。叔母は手渡す時「お願いだからくれぐれも」と前置きした上で「私に読まれないようにね」と言った。私は満面の笑みでこっくりとうなずいた。叔母が日記を読もうとしてくる楽しみに、顔は輝いていたことだろう。(「最高の任務」『群像2019年12月号』p.9)

 ...書物は再読することしかできないとナボコフは書いている。その全体で何が起こるかを知る過程を乗り越え、二度、三度、もしくは四度、さらにはもっと読み返すことで明確に把握し、味わうのだと。私と叔母の間にもはや新しい出来事が起こる望みはなく、本当の会話は一言だって足されることなく、ともに歩いた各地をせいぜい再訪することしかできないのは余りにも残念だが、私はそれを再読できる可能性について、それが逃げ出さないようなるべくゆっくり考えているところだ。(「最高の任務」『群像2019年12月号』p.18)

 しかし、読まれる心配はもうないのだし、私はそれを悲しみつつもへまを犯す恐れなしにぬけぬけと書いてきたのだ。ということは、今になって筆がすべったと自覚するなら、その記述は私にとって重大な意味を持つ。自分を書くことで自分に書かれる。自分が誰かもわからない者だけが、筆のすべりに露出した何かに目をとめ、自分を突き動かしている切実なものに気付くのだ。そこで私は間髪入れず、「あんた、誰?」と問いかけなければならない。この世に存在しないまま、卒業式終わりの家族旅行にかこつけて、こんなことを考えさせようと導いているのは誰なのか。(「最高の任務」『群像2019年12月号』p.52、太字部は実際は傍点)

終わりです。