ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:哲学のこと『心にとって時間とは何か』

この本を読みました。

心にとって時間とは何か (講談社現代新書)

心にとって時間とは何か (講談社現代新書)

 

  この本を読んだ動機は、この本そのものに興味があったからではなく、『〈現在〉という謎 時間の空間化批判』という本を読むにあたって、哲学では時間をどのように理解するのかをまとめて知っておこうと思ったからです。『〈現在〉という謎』では、物理学者の谷村省吾先生と、哲学者の佐金武先生、青山拓央先生(今回の記事の本の著者)、森田邦久先生とが「時間」の概念をめぐって徹底的にすれ違ってしまっています(ケンカしてます)。このことについては別の記事に書くつもりでいます。

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

 

 僕自身は谷村先生側の主張のほうが理解しやすく、哲学の先生の論考は難解で、谷村先生の補助線があって初めて理解できた部分も多かったです。『〈現在〉という謎』のなかで青山先生は「まず問いの共有を」というタイトルのコメントを書いています。そこで、哲学的な時間の見方を知ろう、という気でこの本を手に取りました。

 本書のスタンスは、「はじめに」の次の文章によく表れています。

読者が仮に哲学者であっても、どの謎にも惹かれないかもしれないし、読者が仮に科学者であっても、ある謎に強く惹かれるかもしれない。そして、筆者としては、どの謎にも惹かれない方を無理やり惹きつけることはできず、謎を共有してくれた方に向けて、その詳細を語れるだけである。(はじめに、Kindle版、位置No.60)

 この本のコンセプトは、「心」と「時間」、そしてもう一つのテーマの三者間の関係を検討することで、「心」と「時間」にまつわる謎を提示していこうというものです。

 しょっぱなから残念なのですが、僕は惹かれない側でした。わからないわけではないし、おもしろいと思える話題もあるにはあったのですが、あまりワクワクしなかったというのが正直な印象でした。たぶん、全体的に抽象的で検証もできないことなので、どうでもよく感じるテーマが多かったからだと思います。

そうかもしれない、だが、どうでもよい

 記憶を検討している箇所で、かの有名な「五分前創造仮説」が取り上げられていました。「今ある世界はすべて、過去の痕跡も含めて五分前に作り上げられたものかもしれない」というやつです。それに対して次のようなコメントがついていました。

世界のすべては五分前に造られたのかもしれない、というラッセルの懐疑。これに対する私の答えは、そうかもしれない、だが、どうでもよい、というものだ。(第三章、Kindle版、位置No.1065.太字部は本来なら傍点)

 そして、五分前創造仮説が実践的にはどうでもよいことを見たうえで、にもかかわらず、その提示の仕方自体が、謎をはらんでいる点に注目すべきである。つまり、記憶と過去の関係において、それしかデッサン画がない以上そこから出発するしかないという話がなぜ不問とされるのかーーそれを不問とすることが五分前創造仮説にもなぜ必要なのかーーという謎を。(第三章、Kindle版、位置No.1088)

 ここでいうデッサン画とは、過去のことがわかる痕跡(今朝食べたパンの袋とか、使って洗わずにおいてあるお皿とか)とそれからわかる過去の様子のことです。

 五分前創造仮説がどうでもよいのは、たとえば十分前創造仮説でも一年前創造仮説でもいいうえに、検証も反証も不可能だからです。筆者はそれを踏まえたうえで見えてくる謎がある、と述べています。でも、そこで見えてくる新たな謎は、謎というよりも受け入れないと話にならないことのように思いました。「過去のことは過去の痕跡から推定するしかない」というのは動かしがたい知見です、と結論するのはいけないのかな?と思います。「過去を推測すること」にはこういう構造があったから、ほかにも似た構造を持ったものはないかな?と探しに行くとかしないのかな、と思うのです(「知見」と断言しないで「謎」と言っておくほうがなにかいいことがあるのかもしれない)。

 どちらかというと、これを謎のままにしておいて脳のメモリを使ってしまうよりは、この知見を利用して導けることや全く別のテーマを探しに行くほうが楽しいし、理解も深まると思うのですが(そこで思考停止するのは、哲学的思考とはかけ離れていると言われるような気もしますが…)。

 ほかの箇所では、チャーマーズという哲学者の説を紹介して、答えの出ない問いを答えの出せそうな問いに切り替える、視点の変更について述べています。

チャーマーズは「情報の二側面説」という萌芽的なアイデアを示したが、その過激な一バージョンによると、あらゆる情報は意識を伴う。脳やコンピュータなどがもつ複雑な情報はもちろん、サーモスタットや月面の石などがもつ、さほど複雑でない情報も、それぞれの複雑さ・単純さに見合った意識を伴うというわけだ。(第八章、Kindle版、位置No.2415.太字部は実際は傍点)

 そして、これを受け入れると次のように考えることができると述べます。

このとき、たとえば、左脳と右脳の統合はいかに果たされるかーーその統合によって意識はどれだけ複雑性を増すかーーといった問いは、意識はなぜ在るのかという問いより重要なものとなり、むしろ、後者は真の問いではなくなる(唯物論のもとで、基礎的物質の在り方によってほかの存在が説明されるとき、基礎的物質がなぜ在るのかはもはや問われないのと同様)。(第八章、Kindle版、位置No.2437)

 「意識はなぜ在るのか」というのは、よく問われる「世界はなぜ在るのか」という壮大な問いに近いように感じますが、その問いをスライドさせて、いろいろな方法で検証できる形にしています。こちらはどちらかといえば、哲学的問いを科学的問いに落とし込んでいるように見えて、先に道がありそうな感じがしました(この引用部分は、本書の本筋ではなく余談として挿入されていましたが…)。

 この部分には次のように続きます。

 本書をここまで読まれた方なら、もうお分かりだと思うのだが、私はこの価値観の変革が必須であると言いたいのではない。そうではなく、この変革に意味を与えるような視点もとりうると知ることが、心の仕組みの探求における視野狭窄の危険を減らしてくれると言いたい。(第八章、Kindle版、位置No.2437-2449)

 このことには完全に同意します。

哲学のこと

 ここ2ヶ月ほど、哲学のなかでも応用倫理学を中心に本読みをしてきました。結局やっていることは、この本と同じで「謎(問題点)を描き出すこと」でした。これまでの自分の感想を見てみると「考え続けていかなきゃならないと思いました。」という小学生みたいな結論ばかり書いてあります。でも、この言葉のとおり考え続けていくことは本当に大事なことだと思っているのです。

  ただ、この本で提示している謎には自分は本当になびきませんでした。この価値判断の基準はなんなのだろう、と考えてみました。

 これまでふれてきた哲学・倫理っぽい話題は「反出生主義」「フェミニズム」「仕事」「環境」「動物」がキーワードで、どれもかなり自分の人生で下すなんらかの決断にかかわっている話題でした。子供をもつ・もたない、マイノリティの地位や権利、どういう気分で働くか、環境保護に何ができるか、食肉についてどういうスタンスをとるか…。こういうところに端を発して、たとえば権利論とか政治哲学とか心理学のような原理原則的な話にいくのは、あまり苦しみなく読むことができます。

 一方、本書『心にとって時間とは何か』と『〈現在〉という謎』で扱っている時間論は、哲学のなかでも「世界のありよう」を解き明かそうという営みです。かなり根源的な問いですが、現在の自分の決定や判断にあまり影響を及ぼさないという特徴があります。また、自分自身大学院まで理工学を学んできたので、「世界のありよう」を理解するにはまず科学的方法に落とし込むことを考えるべきでは、と思うところもあります。かなりがんばって二つの時間論を読んできたのですが、やはり「どうやって確かめるの?」というところに強い疑問を持ってしまうし、皮肉にもこの本のなかに書いてあった「そうかもしれない、だが、どうでもよい」という気持ちになってしまうのです。検証ができないので。

 こう分析してみると、やっぱり自分は有用性を欲しているのかな、というところに気がつきました。このあいだツイッターで「哲学を学びはじめてわかったことは自分が俗っぽい人間だということ」というようなbioにしている人がいて、それが結構実感を伴って理解できてきています。

終わりです。