ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:身近なことの倫理学~生とか死とか暮らしとか 『現代思想 2019年9月号 倫理学の論点23』①

今回はこの雑誌を紹介します。

 

現代思想 2019年9月号 特集=倫理学の論点23

現代思想 2019年9月号 特集=倫理学の論点23

 

現代思想2019年11月号(反出生主義特集)で、この2019年9月号に載っている「ベネターの反出生主義をどう受け止めるか(吉沢文武)」が参考文献として多く挙げられていました。それを読むために取り寄せたのですが、載っている論文がどれも本当に興味深かったので、つい全部読んでしまいました。せっかく読んだので、記録に残します。

 この雑誌は、倫理学の多彩な論点を明示する論文21本と対談記事2本とからなっています。抽象論から具体論まで大変読み応えのあるものでした。最近のニュースや話題になっていることと結びついた問題を材料にしていることで、非常に身にしみて理解しやすかったのはとても重要なことだと思いました。

 読んでいて強く印象に残ったもののなかから、この記事ではとくに身近に感じた話題についてまとめておきます。

 

「応用倫理学メソドロジーを求めて」池田喬+長門祐介

  この対談では、現象学的な観点で倫理問題を考えることの重要さが話題の中心でした。現象学というのは、簡単に言うと経験から得られる結論を積み重ねてものを言う学問です。有名なのはフッサールとかハイデッガーという人です。対談は、「倫理学現象学を含むし、含むべきだ」という結論にまとめられていました。

 この対談の中で、次の問答には、ん?と思いました。

池田 あとトロッコ問題について言うと、踏みにじられる側の立場に全く立っていないのも問題だと思います。レールの上に一人がいる方向と、五人がいる方向のどちらに進路を選びますかと言われたときには、運転手、轢く側で事態の成り行きの一切の権限を掌握した地位に立つように求められます。轢かれる側には立っていません。(後略)

長門 まさに標準的な倫理学者は、そういうことにいちいちこだわっている時点でセンスがないのだと言いたくなりそうです。この思考実験は帰結主義以上のものがわれわれにあるということを示すための事例なのであって、(後略)(p.97)

  池田先生はこの会話の前に「(トロッコ問題には)真面目に考える学生ほど乗ってこない。あるいは違和感を表明します」と発言しています。倫理学に携わろうと考える人は、池田先生の言う「真面目に考える学生」のような思考をすると思っていたのですが、それは標準的ではないようです。「帰結主義以上のものがわれわれにあるということを示す」ためだけの思考実験だとすれば、それこそあまり真面目に考えないほうがいい問題なんじゃないかな、と感じました。

 

生のよしあしを決める主体 「「良き例」を欲してはいけない(武田砂鉄)」

 “ルポルタージュの倫理”というテーマで「「良き例」を欲してはいけない(武田砂鉄)」という文章が寄せられています。この文章は、NHKのドキュメンタリー番組『彼女は安楽死を選んだ』(2019年6月2日放送)の演出が適切だったのかを問うもので、端的に言うと、番組が安楽死を肯定的に扱っているように見えることに対する批判です。

自殺未遂を繰り返していた女性が、不幸な最期を迎える可能性を考えて安楽死を選びました、という紹介でいいのか。それは、本を読めばわかる。そんなに単純な話ではない。だが、桜を重ねて、彼女の写真で終わるドキュメンタリーでは、その葛藤が削られてしまう。(p.150)

 また筆者はこの文章中、身近な親類の死に際して、古市憲寿×落合陽一の対談を思い出し「ムカついた」と述べています。

古市が、「終末期医療、特に最後の1ヶ月」の高齢者に対し、「「最後の一ヶ月間の延命治療はやめませんか?」と提案すればいい。胃ろうを作ったり、ベッドでただ眠ったり、その一ヶ月は必要ないんじゃないですか、と。順番を追って説明すれば大したことないはずの話なんだけど、なかなか話が前に進まない」と述べた。(p.146)

 僕もムカつきました。「安楽死してよかった」、「大したことない話」というのは、決して部外者が口に出せるような判断ではない、という武田砂鉄さんの主張に強く共感します。「そんなに単純な話ではない」という一文に、この話のほとんどすべてが詰まっていると思いました。

 ちかごろは、サバサバと合理的な決定を次々下していく人の声が大きい風潮があります。その合理性の根拠は、「コスト感覚」にあると感じています。ビジネスなど営利目的の営みでは、そのような合理的判断は正しいでしょうけど、コスト感覚に基づく意思決定を国家の運営や人間同士の関わりあいにおける最優先事項にしてしまうのは、端的に間違っていると思います。日本国憲法のどこにも、「営利を追求せよ」とは書かれていない一方、「個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利」は明記されています。もちろん、自分の死に際して自分の命をどう考え、どう扱おうとそれは自由ですが、自分以外の命のことを「大したことない話」などと軽々しく値踏みできるはずがないし、していいわけがないんじゃないのか、と強く思います。

 

生殖医療があたえる心理的影響 「身体の政治はなにを纏うか 不妊治療と出生前診断(重田園江)」

 「身体の政治はなにを纏うか 不妊治療と出生前診断(重田園江)」という論文では不妊治療とそれにまつわる倫理的問題を取り扱っています。筆者は、無数にある妊活ブログに取材し、臨場感のある情報をもとに論を展開しています。

(前略)不妊治療に携わる医療者と「患者」との間では、不妊はある種の病気のように捉えられている。(中略)不妊に悩む人は不妊治療病院に「かかる」。そこでは、不妊は医師によって「治療」されるのであり、高度な治療を施しても妊娠できない人は治療困難者の扱いを受ける。(中略)妊娠を望まなくなれば不妊治療から離れた健康な人に戻る。ことばづかいが示す証拠としては、治療を経て妊娠しクリニックから産科に移る妊婦は、「卒業」ということばを使う。(p.114)

 出産の重要度はカップルごとに異なるでしょうが、重要度に占める社会的な要請の割合はとても大きいものです。カップルが子を望むのは自然なこと、とか、やはり結婚したら子供がほしい、と考えている人は多いと思います。当事者カップル自身をはじめ、関係者の思惑が駆動力になって出産を志向するのです。順調に妊娠・出産に至ればよいのですが、うまくいかなければ不妊治療を行うかどうか選択し努力が求められるという、精神的・体力的・経済的負担が必要な状況になっています。この出産を取り巻く状況が、不妊の「病気化」の一因であると思います。

 また次の指摘には、自分の想像力のなさを自覚させられました。

不妊の身体は、医療化され、治療の対象となり、ある種の「病気」に対するものとしてのホルモン投与から、各種の検査や手術を経て、着床後も流産防止のための投薬が行われ、各種の検査がなされつづける。こうした一連の過程のなかに、出生前診断、そして着床前診断を置いてみるとき、これらに対して特別な抵抗感や倫理的線引きを行うことは困難である。(p. 124)

遺伝子検査やより広い意味での出生前診断は、それだけを取り出せるものではない。命の選別につながるからよくない、あるいは子供を産み育てる親の立場からすればできるだけ正確で詳細な検査を望むのは当然だ、といった賛否の二者択一で考えるべき事柄ではないのだ。受精卵や胎児の異常を判別する遺伝子検査という技術は、現代医療のどのようなあり方の一部なのか。とりわけ不妊治療という身体への恒常的かつ侵襲的な介入が、妊娠にまつわる「異常」の判定と治療に関して、どのような価値観や判断基準をもたらしているのか。こうしたことを見ていってはじめて、出生前診断着床前診断の現状とそこでのきわめて重い倫理的選択が、なぜ治療の日常と地続きであるかが理解できるようになるはずだ。(p.124-125)

認知症の脱医療化 「新健康主義(北中淳子)」

 「新健康主義(北中淳子)」という論文では、認知症の「医療化」に伴う「予防」にかかわる運動を問題視しています。「新健康主義」を、「健康な脳を保つことで最期まで理知的な生を全うしようとする考え方」と位置付けたうえで、次の文章がとても印象的でした。

かつてプロテスタントは、果たして自分が天国に行ける群に選別されているのかわからないまま、必死に勤労を重ねていった。現在台頭している「新健康主義」においても、一体誰が認知症になるのかを確実に知る術はなく、科学的エビデンスすらない予防への努力は、盲目的信仰の領域へと限りなく近づくとともに、人々への不安をさらに強めているかのようだ。(p.152) 

 認知症も、「医療化」されることで当事者たちに弊害が起きているというのです。たとえば、脳にいいということでやりたくもない脳トレを強いられたり、そのことで叱咤を受けるなどのような場景は想像しやすいですね。認知症に関しては、環境を適切に調整すればほとんど支障なく暮らせるケースもあることから、「脱医療化」の流れが進んでいるといいます。筆者は次のように指摘しています。

認知症そのものの予防」を謳うよりはむしろ、誤った情報や思い込みが生み出す「認知症スティグマがもたらす社会的苦悩の予防」こそを目指すべきだろう。(中略)すでにエコロジカルな予防は、当事者運動をはじめとする草の根の動きから 、産業をも巻き込んだ「認知症になっても困らない社会づくり」の試みまで、各地で始動している。(p.158)

 認知症の病徴を形作るのはそれを観察する周りの人間の偏見も一つの原因であるという指摘です。

 

人生の意味と仕事 「「意味」は分配されうるか? 人生の意味の社会哲学的探究(長門裕介)」

 人生の意味を仕事という観点から読み解こうとする「「意味」は分配されうるか? 人生の意味の社会哲学的探究(長門裕介)」という論文も面白かったです。「人生の意味」論は、ようやく最近哲学的検討のプラットフォームができつつあるというような状況だそうです。

 先日『働くことの哲学』という本を読みましたが(過去記事)、それに似た議論がありました。「意味ある仕事とはなんなのか」という先行研究を紹介しながら、筆者は最終的に次のように述べています。

私の見立てでは、「意味あること」は価値の一種であるが、促進の対象になるようなものではない。それはむしろ「尊重される」に相応しいものなのである。あるいは促進しようとするまさにそのことによってその価値が失われてしまうような本質的に副産物essentially by-productsであるようなものかもしれないのである。(p.203-204)

 要するに、意味を追求しても意味は手に入らないということですね。意味を求める活動ではない活動をするなかで副産物的に生まれてくるのが意味だと。

 人生に意味なんてない、と受け入れてそのうえで生きていくのは正しく見えるし、やっぱり楽なんですが、それでもやっぱり僕は意味が欲しいです。そういう現状で、こないだの反出生主義もそうですが、哲学者のあいだで「人生の意味」論が盛り上がってきているというのは僕にとっては心強いです。この流れはちょくちょくフォローしておきたいと思っています。

 

身近に感じた話題についてはこの辺で。次の記事でも、この雑誌を取り上げています。

 

nattogohan-suki.hatenablog.com