ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:《借り》とうまく付き合う『借りの哲学』

 この本を読みました。

借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)

 

  この本は小川さやか『「その日暮らし」の人類学』(光文社新書)で引かれていたものです。贈与・交換・貸し・借り、という概念についておもしろいことが書いてある、と『その日暮らし』の中に書いてあったので読んでみました。

 本書に通底するのは、「人は一人では生きられない」という考えです。赤ん坊として生まれてから、誰の世話にもならず大きくなることはできないので、誰もが誰かに「借り」がある、というわけです。
 これはある種凡庸な出発点ですが、現代資本主義が、そしてそこで生きる人々が「借り」をどのようにとらえているかについての分析がおもしろかったです。

...現代のようにあらゆるものが簡単に貨幣に置き換えられるようになると、《負債》はそれほど強力な意味を持たなくなった。人々は債務を負っても、すぐに市場で「労働」をお金に換えて、《負債》を支払うことができるようになったからである。その結果、《負債》によって永久的に相手の奴隷になることはなくなった。(p.13、はじめに) 

  ↑の引用部分は、「資本主義以前は、一度《負債》を負ったと見なされると自由を奪われ(奴隷になり)誰かがその《負債》を支払ってくれないかぎり自由を取り戻せなかった」ということを踏まえています。この点は、資本主義のいいところだと思います。気が楽ですね。
 そして、資本主義社会に生きる人々がどのように考えるかは、次のように書かれています。

 ...貨幣経済の発展とともに、たいていの《借り》がただちに精算できるようになると、「私には《借り》がない。私は自分だけの力で生きてきた。だから、他人や社会に対して果たす義務はない」とうそぶく人々が出てくるようなった。もちろん、それは幻想なのだが、「お金がすべてだ」という価値観がその幻想を支えるのである。(p.159、《借り》を拒否する人々)

  このことは、モリエールの喜劇『ドン・ジュアン』のあらすじに沿って解説されています。簡単に言うと、この喜劇の主人公ドン・ジュアンは、あらゆる責任から逃げようとしている、ということが説明されます。筆者はドン・ジュアンのような人を「《借り》を拒否する人々」と説明しています。「どうしても負ってしまう《借り》を、もともと存在しないものと考える」ことで、あらゆる責任から逃れようとするのです。
 この『借りの哲学』のなかではこうして現代社会の問題点を描き出すとともに、現代人はどう考えて生きていけばいいのかについても提案しています。要点をまとめると「《借り》ができるのはしょうがないけど、貸し手に返すことばかりではなく、ほかの人に何かを贈与することで《借り》を返すことになるし、そうすることで人間関係は回っていくんですよ。そうやって関係しあいながら暮らしていきましょう」という穏当な感じの内容です。

 ところで以前、反出生主義についての文章を読んだとき、つぎのように感じたことがあります。

ベネターの論を援用するネット上の人たちは、ベネターの理屈を無批判に鵜呑みして得られる結論だけを求める人が多いと僕は感じています。そこには、「そもそも生まれるべきではなかったのだから、自分の生活が理想通りではないのは自分の責任ではないし責任をとる必要もない」という意図を感じとれます。反出生主義では自殺を奨励していないことも、たぶん人気の秘訣です。要するに、自分の人生に責任を負いたくないがための理論的支柱として、反出生主義に寄りかかっているというイメージです。

読書記録:反出生主義特集―哲学的議論の入り口として『現代思想 2019年11月号』 - ルジャンドルの読書記録

  生まれさせることで強制的に《借り》を与えてしまうなんて暴力的だ、というのがよく見る反出生主義者の意見です(強産魔とか言ってます)。一方で本書の主張は「《借り》とうまく付き合っていきましょう」ということです。反出生主義者でも、《借り》とうまく付き合う(ただし生殖はしない)という考えで生きてるほうが建設的だよな、と感じました。反出生主義でも自殺はダメで、生まれてしまったらしょうがないから生きなくてはならないので(反出生主義はとことん厭世主義なんだと言われたらもう言えることはないですが)。

 もう一つ考えたことがあります。この本のように、資本主義を批判する立場の論はよくあって、読んでいると「そうだそうだ!」と納得し、感化されながら読むのですが、実際これってなんの役にも立たないな、と感じます。それは、こういう資本主義批判の本は掃いて捨てるほどありますが、資本主義に代わるシステムはうまく導入されそうにないからというのが一つの理由です。
 自分なんかはこうして資本主義への文句に、そうだねそうだねと同調しながら生きているわけですが、たとえば企業に就職して労働力を提供してみたり、資本の強い店(イオンとか西友とか)での買い物に終始してしまったり、株を買って小金を得てみたり(個人的にはこれは最悪、株式の売買で利益を出すのは搾取のもっとも純粋な形。そもそもそれが資本主義だが)しています。じゃあ自分がなんでそうやって資本主義に乗っかっているかというと、それは楽だからです。しかも実際、どんな純粋なマルクス主義者だったとしても、日本で生きていたら資本主義に乗らずに元気にマルクス主義を唱えることなんてできないと思うのです(糧を得られないので。できる人がいるとしてもそれは超人だと思う)。

 

 こうして見ると、反出生主義も資本主義批判も、多くの場合、ローカルに愚痴を言うような構図に陥りがちです。実際問題として、システムをまるっととりかえるなんてことはできないし、できることはローカルな愚痴だけになってしまうんだよな、と考えると無力感で嫌になってしまいます。そういう意味では、本書で提示されている「《借り》とうまく付き合っていきましょう」という提案に乗って、自分の考え方や行動をコントロールしていくのがいくぶんマシなことだろう、と思いました。しかし、そんな余裕をもって暮らせる状況とそうでない状況とがあって、それも解決不能だ…、とぐるぐるしてしまいます。

 このあいだ、このツイートを見て大いに納得したのですが、それってつまり資本主義のルールでお金いっぱい稼ぐのが正しいということになってしまうのだろうか。ううん。

 

以下、いくつか備忘のために引用メモをしておきます。

 ...家父長制の廃止によって、こういった伝統的な家族関係は揺らいでいるが、それでも、こうした誰かに《借り》をつくる関係はそのまま残っている。だいたい、生まれたばかりの赤ん坊はひとりでは成長できず、誰かに頼らなければ生きていけない。家族の関係は構成員が対等ではないのが原則で、そこから必然的に《借り》が生まれるようになっているのだ。

 だが、これは決して悪いことではない。人は自分一人では生きていけないので、誰かに《借り》をつくる必要が出てくる。《借り》は確かに相手の支配を受けるという悪い状態も生みだすが、よい家族関係のように、安心して《借り》をつくれる状況さえできていれば、「他者を信頼する意識」や、「お互いに支えあっていこうという意識」が形成されるからである。

 そんなふうに考えれば、《借り》には「過度の負い目を感じて、それによって相手に支配される」という否定的な側面だけではなく、「相手に感謝の気持ちを感じ、そのお返しに自分ができることをして支えあっていく」という肯定的な側面があることがわかるだろう。(p.19-20、はじめに)

 たとえば、ポトラッチ〔注:ポリネシアでの交易のしかた〕では、人々は《贈与交換》を通じて、「自分が相手よりどれだけ多く贈り物をした」か、名誉と威信を競いあった。したがって、そこでやりとりされる《贈与》が等価であるはずがないし、あってはいけない。また、クラ〔注:メラネシアでの交易のしかた〕では交易の目的は物と物との実利的な交換ではなく、「取引き」という行為そのもの、すなわち「お互いの交流」に置かれた。その結果、一回一回の交易で等価な物が交換されてはいけなかった。等価な物が交換されたら、それで《貸し借り》がなくなり、交流そのものが精算されかねないからである。(p.50-51、第1章 交換、贈与、借り) 

 しかし、共同体のなかで、私たちはいついかなるときでも、自由で平等でなければならないのだろうか? つまり、自分以外のすべての人に対して、完璧に《貸し借り》のない関係でいなければならないのだろうか? あるいは、《貸し借り》のない関係でいることができるのだろうか? 人が自由で独立した存在になる――つまり自立するとは、《貸し借り》のない関係をつくるということだろうか?

 そうではあるまい。人が自立するためには、まず誰かから何かを与えられる必要がある。そして、しかるのちに、誰かに与えるという経験をしたとき、人は真に自立した存在になるのである。あるいは、この「与える」、「与えられる」ということが同時並行的に起こっていってもよい。現実を考えれば、むしろそのほうが自然だろう。(p.72-73、 第1章 交換、贈与、借り)

...「正義」は《罪》と《償い》との等価交換を目指すが、そんなものは「法の取り決め」のなかにしか存在しない。また「良心」がどこまでも厳しく、等価交換的に《贖罪》を要求すれば、《無限の罪悪感》が生まれるだけだろう。

 したがって、ここで言う《借り》は、そういったものとはちがう。それは等価交換を目指さない。《罪》と《償い》の交換は目指すが、交換を超える部分については《借り》として認めるのである。(p.142、第2章 《借り》から始まる人生) 

 結果として、同じように貧者に金貨を与えるとしても、このふたつはおおいにちがう。外から強制されて《借り》を返すのは自立が脅かされたような気がして惨めだが、自分から与えてやったのなら、自尊心が保てるからである。(p.164、第3章 《借り》を拒否する人々) 

  おわりです。