ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:反出生主義特集―哲学的議論の入り口として『現代思想 2019年11月号』

今回はこの雑誌を紹介します。

 

 

「子どもを新たに世に産み落とすことは良くないことである。その帰結として人類は出生をやめて緩やかに絶滅していくのがよい」という主張があります。この「反出生主義」は、最近インターネットでカジュアルに流行っているようにみえます。「人生はつらい」というところからスタートして、「こんな人生なら生まれてこないほうが良かった」という多くの人が抱くであろう思いに囚われ、それを濃くしていくうちに反出生主義という魅力的な考え方に救いを見出す、という人が多いんじゃないでしょうか。ただ、この特集号を精読した結果、生半可に面白がるような代物ではないことがよくわかります。
 デイヴィッド・ベネターという哲学者は、2006年にこの反出生主義を論理的に擁護する論文を発表しました。この論文は2017年に日本語訳されています(『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪(Better Never to Have Been: The Harm of Coming into Existence)』)。この論文を契機にして、哲学界では反出生主義にまつわる議論が紛糾し、その議論は今も続いています。

 ここで紹介する『現代思想 2019年11月号』は、このベネター先生が唱えた反出生主義の概要とそれをとりまく状況がよくわかる特集になっていました。ただ、この特集号は、「かなりタフ」です。かる~く反出生主義のことを知りたいな♪ 程度の気持ちで読み始めると面食らってしまいます。現代思想という雑誌自体がそういうものだといえばそうなのですが。

 僕はこれまで、現在議論が紛糾している哲学や倫理の話題について、学者たちが現場でどのようにやりあっているのかをみることはありませんでした。この特集号を読んだのは反出生主義に興味があったからですが、議論されている内容そのものもさることながら、「反出生主義」という一つの話題に対する哲学的アプローチがこんなにも多様なのか!と驚きました。哲学・倫理学に対する意識を新たにする読書体験になりました。

デイヴィッド・ベネターの反出生主義

 ベネターの唱える反出生主義についてはWikipediaをはじめとしていろいろなWeb記事がありますので、ポイントだけ簡単にまとめます。

  • 生まれてきた場合と生まれてこなかった場合を比べると、生まれてこない場合には悪いことが起こらないため、生まれないほうが良い
  • 生まれないほうが良いのであるから、最終的に人類は絶滅するのが良い
  • ただし、死は人生で指折りのよくないことなので、生まれてきた場合には自殺するのはよくない

この反出生主義について、本特集号の冒頭の対談記事(森岡正博×戸谷洋志)で、森岡先生は次のように述べています。

生まれてこなければ良かったという主張を、彼(引用者注:ベネター)がどこまで彼自身にとっての実存的な問題として主張しているのかということです。反出生主義に対する彼の応答を聞いていると、やはりどこか分析哲学の知的なゲームとして捉えている面があるような気もします。(中略)この問題をそういう方向へ押し進めていったら、本当にこの問題を実存的な自分の問題として抱え込んでいる人たちにとっては、強い言葉を使わせてもらえば、自分たちが侮辱されているような気になると思います。(p.11)

  この森岡先生の発言は、「反出生主義」をとりまく現状を鋭く指摘しているように思います。ベネターの論を援用するネット上の人たちは、ベネターの理屈を無批判に鵜呑みして得られる結論だけを求める人が多いと僕は感じています。そこには、「そもそも生まれるべきではなかったのだから、自分の生活が理想通りではないのは自分の責任ではないし責任をとる必要もない」という意図を感じとれます。反出生主義では自殺を奨励していないことも、たぶん人気の秘訣です。要するに、自分の人生に責任を負いたくないがための理論的支柱として、反出生主義に寄りかかっているというイメージです。そういうスタンスであるので、ベネターの唱える論理そのものはしっかり確かめていなかったり、批判には目を通したりしていないんじゃないかと思っています。

 また、下記のブログで述べられている反出生主義についての雑感にもうなずけるところがあります。

 

私がネット上や実生活で目にしてきたなかでは、反出生主義を唱えている人は、年端も行かない学生や若者が大半なようだ。彼らの多くは、社会的な立場や金銭面の理由から、そもそもつくりたくても子どもをつくれない立場である(または、つくろうと思えば子供はつくれるだろうが、延期した方が一般的な観点からして合理的な立場である、など)。彼らの言い方をよく聞いてみると、「つくれない」という受動的な立場を自分の主導的な選択であるかのように「つくらない」と言い換えていたり、あるいは本気で「つくる/つくらない」を検討する立場にはないから気軽に「つくらない」と主張したりする、という場合が多いように思われる。(中略)…世間ではブームになりつつある反出生主義だが、どれだけの人がこの主張を積極的かつ主体的に選んで唱えているのか、そしてその主張を継続させられるか疑わしいものだ、と私は思っている。

反出生主義についての雑感 - 道徳的動物日記

面白かった論文ベスト3

 本特集号に寄せられた論文のなかには反出生主義への批判についてベネター自身が回答する論文もありました。しかしほかの多くの論文は、ベネターの結論には反対の論調でした。

  特に目を引いたのは次の3本。重要な点をまとめます。

  1. 反‐出生奨励主義と生の価値への不可知論(小島和男)
  2. 「痛み」を感じるロボットを作ることの倫理的問題と反出生主義(西條玲奈)
  3. 釈迦の死生観(佐々木閑
1. 反‐出生奨励主義と生の価値への不可知論(小島和男)

 小島先生の立場は、次の文章によく表れています。ベネターの反出生主義の論文にはいろいろと反論が出ているがベネターからの再反論もあり、現在は結論が出ていない、という状況を踏まえて、

 つまり、「存在しないほうが存在することより良い」かどうかに関しては、少なくとも今のところは「分からない」というのを前提にしてみるのはどうかということを私は言いたいのである。(p.87)

 「生が良いのか悪いのか分からない」という言明は、「生は悪い」という言明よりも意味の範囲が広い。「生は良いもしくは良くはない」かつ「生は悪いもしくは悪くはない」を意味している。これらは二つとも完全なトートロジーであり、真理であると言える。かたや「反出生主義」が基づいている「生は悪い」は、私は強く同意するところではあるが、トートロジーと比べてしまってはさすがに分が悪い。(p.89,強調は引用者)

  このように「分からない」を前提にすることで導かれるのは、出生を勧めないが悪いとも言わない「反-出生奨励主義」になります。小島先生自身は「生が悪い」という実感を持っているようですが、しかしその結論は受け入れられにくい上に現実的ではないため、小島先生は本論文の内容のようなことを主張するわけです。ここで援用されているのはソクラテスの「無知の知」の議論です。

 これはかなりプラグマティックな議論で、僕はこの考え方に感化されているところがあります。僕自身、大手を振って「子供は生まれてくるべきだ!」と主張できるほど、人の一生に肯定的なイメージを持っていません。ベネターが危惧するように、生まれてきた子供に悪い人生が待っている可能性はぬぐえないからです。でも、生まれることは必ず悪いとまでは思わないし、自分ががんばれば自分の生を良くできると(思いたいと)思っている。それに子供を持ちたい気持ちもある。しかし、反出生主義という思想が存在していて、それをどのように受け止めるのが良いのか…と考えたとき、この「反-出生奨励主義」はとてもよいのです。

 なぜよいと思うのか。出生肯定論や出生主義の主張を見ると結構嫌なことが書いてあります。多くは要約すると、「生まれた子供には担うべき役割がある」とか「社会の存続に必要だから」というような主張になっています。こういう風に言ってしまうと、役割を果たせなかった場合に、その生命は生まれるべきでなかったと結論できてしまいます。ほかにも、出生主義、反出生主義とは離れてさまざまな理由で子供を作らない決断をする人たちはいて、そういった人たちは自分の生をどのように考えればいいかわからなくなってしまいます(こういった議論は、この雑誌を通してなんども触れられています)。

 こういった意味で、反出生主義にも問題はありますが、出生主義の側にも問題があるのです。子どもが生まれることは無条件に良いというのもすこし気持ち悪いし、良い理由をつけようとすると問題がある。そういう気持ち悪さで反出生主義を支持する人もいるのかもしれません。この小島先生の主張は、保留の考え方です。良いも悪いも分からないけど、それでも判断はしなくちゃならない、という現実的な着地点を想定した提案なのです。消極的にも思えますが、三つ目の立場としてこういうものがあるよ、という提案で僕のようになるほどと思う人は少なくないと思います。

2. 「痛み」を感じるロボットを作ることの倫理的問題と反出生主義(西條玲奈)

 この論文では、ロボット倫理という一分野の観点から反出生主義を検討しています。例えばドラえもんのようなロボットをつくる技術ができあがったら、ベネターの唱える反出生主義の俎上に載せることができるようになります。ドラえもんとまではいかないまでも、ある程度汎用的な人工知能ができると、そこには外部から得られた刺激の良し悪しを判断して、より良いほうの刺激が得られるように行動する機能を想定できます。この刺激の良し悪しが、人間でいう快・不快にあたると考えることができます。ロボットにとってはどちらも電気信号にすぎないかもしれませんが、外部刺激の良し悪しを判断するという機能は、私たち人間がふだんやっていることと全く同じことで、そうなると倫理的な問題が生じてくるというわけです(哲学的ゾンビみたいな話ですね)。この問題については、もうすでに1999年アメリカで団体が立ち上がっているそうです(ASPCR:The American Society for the Prevention of Cluelty to Robots,米国ロボット虐待防止協会)。

 とはいえ、快苦の感覚や情緒的反応を備えたロボットを作るべきだという市場の反応は高まるという見通しがあるそうです。したがって、現在ロボットにおいては、人間のように痛みを感じる能力を持っている存在を生み出す技術がないという点で人間とは違うが、近いうちに人間と同じような倫理的問題が生じうるという状況です。

 また、つぎのような別の切り口も紹介されています。

倫理学者のデイヴィッド・ガンケルは、痛みを道徳的配慮の基準にすることを恣意的なものとして批判し、道徳的判断を行える人間中心の倫理ではなく、配慮の対象である被行為者中心の倫理学の必要性を主張する(cf. Gunkel 2012)(p. 151) 

 ガンケルの主張そのものにはアクセスしていませんが、人だろうと物だろうと、行為を受ける存在に適用できる道徳的基準を考え出すべきだ、というような主張だと受け取りました。そんな基準はできるのか?と思うのですが、研究が進むと合理的なものが出来上がってくるのかもしれません。

 ロボットに関して、いまは「痛みを感じるロボットの開発を続けるべきなのか」という段階だと思いますが、反出生主義が与える影響はこういうところにも及ぶんだ、と目からうろこが落ちました。

3. 釈迦の死生観(佐々木閑

 これは、反出生主義の論考ではあるのですが、仏教における死生観をまとめた論文として、大変面白かったです。

 

 反出生主義と仏教の関連では次の考察が面白いです。

大きく違うのは、仏教の場合、そういった考え(=反出生主義的考え、引用者注)が、仏教僧団という特殊な島社会だけの局所的なものだという自覚を伴っているという点である。そこには、「「我々出家者の価値観は、すべての人が受け入れるべき普遍性を持っているのであるから、賛同者を増やし、勢力を拡大していこう」と考えることは間違っている。そのような欲求もまた、我欲に基づく現世的思考であり、苦の元になる」という自省の思いが常に付随する。(p. 161) 

「生まれてこないほうが良かったのか」。ベネター氏の著作のタイトルにもかかわるこの問いは、仏教とは無縁の問いである。なぜなら我々は誰か別の存在によってこの世に生み出されたわけではなく、偶然ここにいて、苦しんでいるにすぎないからである。その状況を「こんなふうでないほうが良かった」と考えるのはただの愚痴であって、意味がない。(p. 161)

  出ている結論は似ているけれども、スタート地点や結論の受け止め方が異なっているというのが面白いところです。仏教では門を叩いてやってきた修行者は拒まず仏教徒として受け入れるが、そうでない人は関係がないというスタンス。反出生主義の場合は、どこの誰にも当てはまる理屈として論文を提示している。どちらがよりよい、というのは一概に言えないですが、個人的には仏教の考え方に心が動かされます。超然としている感じがかっこいい。

 僕はもともと仏教の考え方は好きなのですが、なぜか反出生主義が出てきたときはあまり仏教とのオーバーラップに思い至りませんでした。その理由はここで指摘されている違いのせいだったのかもしれません。反出生主義はかなり強引というか、暴力的な思想だと思ったのですが、仏教には柔らかさとか器の大きさを感じるのです。

その他の論点

 ここまで挙げたもの以外でも、おもしろい論点は多かったです。ベネターの議論は、その道具立てがシンプルであり得られる結論が強力である一方、人間が抱える実際的な問題の多くを無視しています。ベネターの議論で無視されている問題を挙げ、「反出生主義」の考え方を多角的に眺めることの重要さを強調するタイプの議論もおもしろかったです。次にあげる3本は、フェミニズムや性的マイノリティなどの立場から問題を提起するもので、いずれも強く興味を引きました。

反出生主義と女性(橋迫瑞穂)

「スピリチュアル市場」において、妊娠、出産にまつわる情報や商品が人気なのは、子どもをつくることの意味をめぐる寄る辺のなさが反映した結果である(p. 195) 

  この論文では、出産を肯定する青木やよひという女性の哲学と、ベネターの反出生主義を比較検討しています。青木やよひとベネターは結論こそ違えど、価値観としての類似性がみられることを挙げながら論を進めています。その中で上の引用文は特にインパクトがあります。出生・反出生主義とは関係なく、

われわれの社会において、「産む性」として生まれると子どもをつくることの意味を見出すことも、あるいは否定することも、判断が困難である。(p. 195)

  そのよりどころとなるのが「スピリチュアル市場」だというのです。「反出生主義」のネット上での人気と、「スピリチュアル市場」の存在は、出生することに何らかの基準を与えるという意味で表裏一体である、と。

トランスジェンダーの未来=ユートピア 生殖規範そして「未来」の否定に抗して(古怒田望人)

 トランスジェンダーの生殖にまつわる多くの問題を挙げ、そこに流れる哲学をまとめていました。ここで一口に紹介できるような内容ではなかったのですが、多くの人が読むべき内容を盛り込んだ論文だと思います。既成の価値観では理解できないことばかりが取り上げられています。

未来による搾取に抗し、今ここを育むあやとりを学ぶ ダナ・ハラウェイと再生産概念の更新(逆巻しとね)

 この論文は、ダナ・ハラウェイという哲学者の考え方を中心に据え、反出生主義にどのような反論ができるかを述べたものです。先日の読書記録(ハラウェイの思想)は、ここで挙げられていた参考文献です。

ハラウェイの出生主義批判の眼目は、血統と類の継承、一夫一婦制を規範とする人間主義的な《産むこと》を、胡乱な生命のあやとりのなかにある《育てること》の一部として語りなおす点にあるからである(p. 217) 

  正直僕が書いた先日の読書記録なんかより、この論文を読むほうがいいです。ハラウェイの思想を中心にきわめて力強く「生をより良くする」ことが論じられています。

おわりに

 ここまで紹介した論文たちだけでも、議論の種類がきわめて多様なことがわかっていただけたかと思います。ある一つの思想が誘起する議論は広くて深いことがよくわかりました。インターネットで流行っているから、というちょっとした理由で手に取ったこの雑誌でしたが、自分に欠落している観点が多いことに改めて気づかせてもらえる読書体験でした。かなり体力が要りますが、多くの大人にぜひおすすめしたいです。