今回はこの本を紹介します。
先日、『現代思想2019年9月号』を読みました(過去記事)。そこに収載されていた記事で、岡本裕一朗という哲学者が「応用倫理学は終わった!という気持ちで書いた本」ということでこの本を挙げていました。
「終わった!」と宣言される倫理学というのはなんなんだろう、ということで、読んでみました。批判的な筆致で書かれた本ですが、生命倫理学、環境倫理学で扱われる論点とその到達点がわかりやすく整理されていて良い本だと思いました。
生命倫理学・環境倫理学ってなんなんですか?
倫理学とはそもそも、
行為の善悪を判断し、個人の義務や人柄の徳性を解明し、社会や共同体の規範を探求する(p.4、序)
といった営みのことだそうです。イメージ的には、孔子とかアリストテレスとか、カントとかの議論が倫理学にあたるのだろうと思います。でも、筆者は次のようにも述べます。
倫理学が私たちの具体的な日々の活動に生き生きと働きかけてくれるようには感じられない、というのは確かではないか。(p.6)
たとえば憲法が、日々を生きていて実際に起こる問題をあまり解決してくれないのに似ているな、と思いました。生命倫理学・環境倫理学は、このアナロジーでいうと刑法とか民法のようなものになるのでしょう。倫理学を現実の問題に応用して考えよう、という「応用倫理学」の一部分として、生命、環境の倫理学が位置付けられたようです。
さらに、筆者は次のように述べています。
ここで、生命倫理学と環境倫理学について、今までの議論を確認しておこう。ひとことで言えば、現在それらには新たな論点がなく、現実にうまく対処できていない、ということだ。そのため、それらは今でもお説教話にすぎず、「応用できない倫理学」にとどまっている。逆に、応用されたときは、内容の希薄な常識的な議論以外何もできない。その意味で、生命と環境の「倫理学」はもういらない!(p.15)
大変な間違いかもしれない、と前置きしつつこのように大きなことを宣言して本書は始まります。全体を読んでみて思ったのは、たしかに「応用できない倫理学」だなぁ、ということです。結局どうするべきかは、わからない。
本のなかでは、妊娠中絶や遺伝子組み換えにかかわる話題や、環境保護にかかわる話題が提示されていました。これまでの研究の蓄積がていねいに紹介されてはいるものの、結局「どうすればいいか」は読者にゆだねられています。もちろん、行動規範について「どうすればいいか」が固まってしまうのは逆に不健全ですけど、ちょっと物足りない感じがしました。
ただ、実際に「使えない」としても重要と思えることはいろいろ書いてありました(しかも「使えない」のは使う側の問題なだけかもしれません)。なにより、筆者が言うように生命・環境倫理学が「終わった」ものだとしても、全然考えたことがない人にとっては「新しい」ものですから。
この記事ではいくつか印象的だった話題を備忘録として残しておきます。
「不自然」ってなんなんですか?
クローン人間を生み出すことが忌避されるのは、「自然に反しているから」という理由が挙げられることがあります。これについて筆者は次のように述べています。
「自然」かどうかは、ある意味では、それが社会的に流通しているかどうかに依存している。(中略)(p.130)
だから、「クローン人間が自然に反している」というのは、トートロジーにすぎない。(同)
これは、日常で遭遇しそうな問題なのでよく覚えておきたいと思いました。
動物倫理:ピーター・シンガーの議論
動物を尊重しようと思ったら、究極的なことをいうとペットを飼うなんてとんでもないし、食肉なんてもってのほか、という話になってしまいます。でも僕は肉は食べるしハムスターを飼っています。
現実と理想のバランスをとるのはきわめてむずかしいですが、そこにはどんな倫理学があるのかな、と気になっていました。それが本書でしっかり紹介されていました。動物倫理のことを調べるといちばんに出てくる「ピーター・シンガー」の議論です。
1973年の論文でシンガーは、かいつまむと人種差別の概念を動物種にまで広げよう、と言っています。苦痛を感じる能力を備えた動物には、権利を認め不当な扱いを避けるべきだ、と。シンガーは、これを「種差別主義はやめよう」と表現しています。
筆者はこの議論を、これまでの「人間中心主義」を「動物中心主義」に変えただけで「種差別」の本質的な解決にはなっていないと指摘しています。すなわち「苦痛を感じる能力を備えた動物」の差別はやめるのかもしれないけれど、苦痛を感じない生命、たとえば昆虫とかは依然差別している、ということです。
「終わった!」ことを示すためとはいえ、ここまでの生命倫理・環境倫理の歩みがわかりやすくまとめてあって、とてもいい本だと思いました。手元に置いて読み返したい一冊です。