ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:九鬼周造の哲学 『いきの構造』

今回はこの本を紹介します。

 

九鬼周造「いきの構造」   ビギナーズ 日本の思想   (角川ソフィア文庫)

九鬼周造「いきの構造」   ビギナーズ 日本の思想   (角川ソフィア文庫)

 

 九鬼周造という哲学者はどんな人なのかを知るため読んでみました。今読んでいる本の中に名前が出てきたのですが恥ずかしながら聞いたことがなかったためです。

この九鬼周造『いきの構造』は、西田幾多郎善の研究』や和辻哲郎『風土』などと並び称される近代日本哲学の名著とされているようです。この本は、『いきの構造』の現代語訳であり、解説や九鬼周造の人となりの紹介文がついていて、九鬼と九鬼哲学のポイントを簡単にチェックできました。備忘録として内容の簡単なまとめを記します。

「いき」ってなんですか

 この本では、「いき」ってなんなのかを、言葉を尽くして説明することを目標としています。ただ、九鬼自身、本書6章結論部でつぎのように記述しています。

「いき」という現象を具体的な体験に即して解明しようとしてきたが

あらゆる考察の逃れえない制約として、結局、概念的分析に頼らざるをえなかった。個人ひとりひとりの体験と同様に民族それぞれの体験は概念的分析によってはすべて残りなく完全に語りつくすことはできない。具体的なものは厳密には体得することによってしか了解されないのである。(p.141、強調は引用者) 

  「いき」だけでなく、あらゆる思想、もっというとちょっとした手順書なんかも、やはりこれにつきるような気がします。「読む→知る→やってみる→そういうことだったのかと思う」、もしくは、「なんとなくやったことがある→読む→そういうことだったのかと思う」、という実践がなんでも重要ですね。

 それはそうとして、本書で語られる「いき」の概念分析についてです。「いき」の特徴は次のようなものだそうです。

  1. 「いき」は日本人が特別に備える独特な感性である
  2. 「いき」は媚態・意気(意気地)・諦めの三位一体からなる概念
日本人が特別に備える感性としての「いき」

 九鬼は、「いき」が日本人が特別に備える感性であることの根拠として、西洋諸語における単語の意味を挙げます。

私たちは民族を形成して暮らしているが、その民族の特質は言葉を通じてあらわれる。言葉というものは、その民族の過去から現在までのありようを語るのであり、民族性の表現に他ならないのである。それゆえに、ある民族の言葉というものは、必ず、その民族の暮らしに固有の得意な色合いを帯びているものなのである。(p. 17-18) 

  この感覚に基づいて、九鬼はchic(しゃれた、上品な。フランス語)、coquet(あだっぽい、色気のある。フランス語)、raffiné(洗練された。フランス語)などの語を挙げ、「いき」と通ずるところはあるがまったく一致するものはない、と結論付けます。

 この「言語が民族を形作る」という考え方は僕もつねに意識していることなので、概念分析の初手に外国語との比較を挙げてくるのはとてもわかりやすかったです。

「いき」を構成する三要素ー媚態、意気、諦め

 いよいよ、日本語の「いき」とはなんなのかという分析に入っていきます。永井荷風の小説『歓楽』の一説を引きながら、「男女の遊び」を例にして「いき」の構造分析を進めています。遊女との駆け引きの中に、媚態・意気・諦めの三要素が垣間見られるというのです。

 媚態とは、いわゆる色っぽさですが、その本質はつかず離れずの関係を維持することにあるといいます。結ばれそうで結ばれない、手に入りそうで入らない、そういう微妙な距離感が媚態を演出するのだそうです。

 意気とは、自分自身への誇りのことです。ここで、九鬼は吉原の遊女を引き合いにだしてこのことを説明します。男女関係において自らを安売りしない矜持が、上で書いた媚態を裏打ちするというのです。

吉原の遊女は野暮な客に対しては金持ちであろうと「吉原の恥、吉原の名折れ」とはねつけた(p.40) 

  そして最後の諦めとは、執着しないことです。遊女にかぎって言えば、生涯結ばれる男性を得ることを期待せず運命を自覚した境地のことです。若いころにつらい裏切りを経験し、心を鍛えられることによってそこへ至るのだそうです。しかしかといってスッパリと断ち切れているかというとそうでもなく、

あだっぽい、かろやかな微笑の裏に隠された真剣な、熱い涙のほのかな痕跡を認めることができて初めて「いき」の真実を理解することができたといえるのである(p.44) 

 とも述べられています。こういう微妙なゆらぎのなかにあるのが「いき」というものなのです。

 ここまでの分析をまとめて、九鬼は次のように述べています。

「いき」とは、いい加減な現実に妥協することなく、ぬるま湯的な日常にきっぱりと距離を置いて、超然孤高の境地を守りながら、目的や執着にとらわれることのない無償の遊びを楽しむことなのだ(p. 47)

「いき」を定義するなら、垢抜けて(諦め)、張りのある(意気地)、色っぽさ(媚態)ということができないだろうか(p. 51) 

  ここまでが、本書1,2章の「いき」の概念分析です。3~5章ではこれを具体的事物にあてはめながら「いき」の実体を探っています。

要はバランス感覚

 本書を通読して、要はバランス感覚が重要だ、と言っていると読み取りました。その結論として、冒頭で引用したような「体得することによってしか了解されない」となることが腑に落ちます。「いき」なふるまいをする練習は、生活のいたるところでできます。超然孤高の独立自尊を貫くのです。

 つかず離れず、ちょうどいいところを保ち続けるということは理想だと思いながらも、とても難しいことだとずっと思っています。そして自分はかなり安定した状態を求めながら生きているということも、最近強く自覚するところです。

 ただ、この「ちょうどいいところを保ち続ける」ことは、冷蔵庫の食材管理ではかなりうまくできてきています。必要なものを必要なだけ準備する。安いからといって使いきれないほどまとめ買いをしない。期限を意識して、きちんと食べきる。

 「ちょうどいいところを保ち続ける」というのは、あらゆる生物が動的平衡として実現していることでもあります。正直最近いろんなものを読んで概念に触れても結局「動的平衡じゃん」という感想に行きついてしまってつまらないし、新しく視野を広げたいのですが、なかなか思考の癖を変えられず困っています。

九鬼周造ってどんな人?

 最後に、本書にまとめられていた九鬼周造の人となりについて備忘録的に記しておきます。九鬼周造1888年の東京生まれ。当時かなりのお金持ちの家に生まれます。1909年に東京帝国大学哲学科に入学。3年ほどで大学を卒業し、1921年にドイツのハイデルベルクへと留学。そこでカントを学んだのち、1924年にパリへ。パリではベルクソンフッサールハイデッガーなどの思想に触れます。1926年には『いきの構造』の原型論文『いきの本質』の執筆に着手。1927年にパリから再びドイツへ移り、1928年に再びパリへ戻り、まもなく帰国します。1930年には『いきの構造』を完成させ出版。帰国すると京都帝国大学に招かれ、京都で暮らします。その当時、西田幾多郎和辻哲郎など「京都学派」の期待の新人として招かれたそうです。祇園で芸者遊びに興じながら哲学を洗練させ、53歳のときがんで亡くなります。

 かなり無味乾燥にまとめていろいろ端折りましたが、詳しく見るとかなりドラマチックな人生です。とくに、当時留学すること自体すごいのにドイツとフランスを行ったり来たりしながら学問し続けるというのはいったいどういうお金持ちなんだ、と思いました。