ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:論理は弱者の悲鳴にすぎない『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』

 この本を読みました。

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)

論より詭弁 反論理的思考のすすめ (光文社新書)

  • 作者:香西 秀信
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2007/02/16
  • メディア: 新書
 

 インターネットでは、毎日のように「論理的な」話者が、他者の「非論理的」な言説にケチをつけています。いろんなことを勉強していくと、「論理的な思考法は大事だ」ということを口を酸っぱくして言われます。それに僕個人の体験としても、浪人生の時『数学ガール』という本を読んで、「論理ってかっこいい!」とおもった記憶があります(たしか、「論理の刃」とか、「論理の翼」みたいなかっこいい修辞が使われていたと思ったんですけど、見つけられませんでした)。

  とはいうものの、僕自身「論理的な議論」にはうんざりしてきた、ということも実感としてあります。なぜかというと、つまらないし、あまり役に立たないからです。もちろん、学術論文や研究成果、その他の公にされる文章を記述するには、一貫して論理的にものごとを組み立てていく必要があることは当然です。ただ、ふだんの暮らしで論理なんてものを使うのは悪手だとさえ思います。「理屈と膏薬はどこにでもつく」という言葉がありますが、これはまったくその通りという実感があるのです。ある主張が論理的だったところで必ず支持を得るわけではありません。人気を博しているある主張が論理的だったら加点しま~す、くらいのノリで支持されているなぁ、と感じています。しかもその「論理」は、どの公理に基づいた論理なのかは明らかにされていませんし、そんなことは誰も気にしません。言いたい結論があったら、それを導く論理なんていくらでも用意できるのです。

 筆者は次のように書いて、論理的思考を揶揄します。

論理的思考力や議論の能力など、所詮は弱者の当てにならない護身術である。強者には、そんなものは要らない。いわゆる議論のルールなど、弱者の甘え以外の何ものでもない。他人の議論をルール違反だの詭弁だのと言って非難するのは、「後生だから、そんな手を使わんでくだされ」と弱者が悲鳴を上げているのだ。(p.9,「序章 論理的思考批判」) 

 とはいえこれは、筆者が論理を軽視して好きなことを好きなように言え、ということを勧めているわけではありません。次のようにも書いています。

 本書は、論理学(非・形式論理学)で虚偽あるいは詭弁と名指されてきた論法を主な材料として、論理的思考をレトリックの立場から批判的に検討しようとするものである。そうした検討によって、論理的思考をより有効なものに洗練させることができたなら、レトリックは再びそれらを自らのうちに取り込み、その機能をさらに豊富にすることができるかもしれない。(p.18,同上) 

 本書は全体として、「論理的な議論」すべてにまともに取り合う必要はないですよ、ということを言っています。大変勉強になる本でした。備忘として、印象に残った部分をまとめて記事にしておこうと思います。

 副産物として、これを読んでからTwitterで人気の批判ツイートや主張ツイートを見てみると(僕はTwitterが大好き)、あぁ、あの型ね、と俯瞰的に見ることができて、かえって論理構造を見やすくなりました。

論破でなく説得

 この本は、レトリックを専門とする著者が書いたものです。レトリックは、筆者の説明では次のようなものです。

私の専門とするレトリックは、真理の追究でも正しいことの証明(論証)でもなく、説得を(正確に言えば、可能な説得手段の発見を)その目的としてきた。(中略)レトリックがなぜそのような目的を設定したかといえば、それはわれわれが議論する立場は必ずしも対等ではないことを、冷徹に認識してきたからである。自分の生殺与奪を握る人を論破などできない。が、説得することは可能である。(p.15,「序章 論理的思考批判」)

  「正しいことは正しいので、誰もが従うべき」という、牧歌的な信条を見放して、現実をきちんと生きましょうという気持ちの表明にも見えます。昔の自分ならあまり好きではありませんでしたが、最近はこういう言説にとろけてしまいます。「正しいことは正しい」ということと、それに従うこととは独立していて、両者をつなぐ何らかが必要だろう、と思うのです。

 論理的に正しい言説に「それは素晴らしいアイディア!僕もそうしよう!」なんて思ってその通りにする人なんてほとんどいなくて、「反論できないししかたないから従っておくか」という気持ちになる人のほうが絶対に多いと思います。同じ結果になるなら、論破してストレスを与えるよりも、説得という方向でものを進めたほうがいいよね、と素直に同意してしまいました。

定義について

 議論の話題になると、必ず登場するのが「定義」です。インターネットには「定義厨」という揶揄の言葉も存在します(もう死語?)。筆者は定義について、次のように言及しています。

 何よりも、定義には、それを読む人に例外や矛盾を探させる衝動をもたらす妙な性質があるらしい。(中略)こういうのに付き合うのはうんざりなので、だから、ここでは詭弁の定義も虚偽の定義もしない。(p.89,「第三章 詭弁とは、自分に反対する意見のこと」)

 言葉の定義や規準の明示を要求することは、それだけを見れば、十分に正当で論理的な行為である。(中略)この行為のどこにも、非難すべきところはない。問題は、こうした正当な定義の要求と、相手を引っ掛けるための定義の要求とが、外見上はまったく区別がつかないことである。(p.92,同上) 

  自分にも覚えがあることで振り返ると大変恥ずかしいことなんですが、定義のもつ妙な性質により、相手を引っ掛けるための議論に持ち込んでしまう人の多いこと。最近はそういうのを見ていたら不愉快になるし、人生に何の足しにもならないので、Twitterで見かけたら全然関係ない人でもついブロックしてしまいます。

 

…詭弁を毛嫌いする人も、自分やその仲間の詭弁は気にならないようだ。それは気の利いた、才気煥発たる物言いに見えるらしいのである。(中略)しかし、同じことを自分たちの敵がやると、突然それが、詭弁、誤魔化し、すり替え、ルール違反、罵詈雑言、無知による誤解、等になる。(p.105,同上)

  ここの記述は、とくに肝に銘じておきたいものです。

何を言ったかよりも誰が言ったか

 誰が言ったかよりも、何を言ったかで判断したい!と多くの人は考えていると思いますし、僕もそうしたいと思っていますが、無理だなぁ、と思い続けています。同じ内容のことでも誰が言ったかで意味は変わるのです。

 この本にそのこともしっかり書いてあります。いろんなことを主張するためには、いろんなことを勉強しなければなりませんが、それと同時に主張を聞いてもらえるような振る舞いをしつづける必要があるんですよね。論理的思考をするならば、「振る舞い」とは関係なしに主張を聞いて、その妥当性に注目すればいいけど、ふつうそうはいかない。

《retort》(言い返し)のやりかた

 「多問の虚偽」という虚偽形式が紹介されていました。「君はもう妻を殴るのはやめたのか?」という質問に、「はい」と答えても「いいえ」と答えても、妻を殴っていたことになってしまう、という問いの形式のひとつです。この場合、「妻を殴っている」という前提を敷かれたことが問題なので、それを覆すために、はい、いいえ以外の「言い返し(retort)」をする必要があります。

 筆者は、その時に注意すべきことを次のように記しています。

...「君は、K西の、あの下らない詭弁の本を最後まで読んだのか?」という問いで考えてみよう。(引用者注:この本の著者は香西さん)

 ここに、K西の本をすばらしいものだと思っている、少なくとも下らないとは思っていない読者がいるとしよう(たくさんいるはずだ)。(中略)もし彼が、「私はK西の本が下らないとは思いません」などと答えたら、彼にとっては最悪の結果となる。そう答えることによって、彼には、K西の本が下らなくない理由を説明する責任が生じてしまうからだ。相手は、その説明に対し、いろいろとけちをつけ、揚げ足を取ってくるだろう。議論においては、攻めるよりも守るほうがはるかに難しい。(p.173-174,「第五章 問いは、どんなに偏っていてもかまわない」)

  こういう場合は、「K西の本がなぜ下らないのか」を説明させるように議論を進める必要がある、と筆者は述べています。

 

 つまんない奴とは話してやらない、が最近の目標なのですが、この本に書いてあることを念頭に置きながらがんばってみようと思います。

以上です。