ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:誠実な議論を『〈現在〉という謎』②

 今回も、この本を読んだ記録です。

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

 

 前回のブログでも紹介していますが、この本では物理学者の谷村省吾先生と、哲学者の佐金武先生、青山拓央先生、森田邦久先生とが「時間」の概念をめぐって徹底的にすれ違ってしまっています(ケンカしてます)。物理の谷村先生は本書での議論に納得がいかず、100ページを超えるpdfファイル(通称谷村ノート)を自身のウェブサイトにアップロードしています 『〈現在〉という謎』をめぐる議論)。

 物理学者の谷村先生は、全8章のうち3つの章にかかわっています。そのなかで、かなりとげとげしく哲学論考に対する意見を述べています。そして、ウェブサイトで公開している谷村ノートにあっては、もっとはなはだしい表現が使われています。ただ、読めばわかることですが、それは怒りに任せた罵詈雑言を書きたてたものでは全くありません(そもそもその程度の内容で100ページ以上になったとしたらかなり異常です)。僕はこの谷村ノートを本より先に読みましたが、問題点とそれに対する考えが明確に示されていて谷村ノートだけでほとんどの流れは理解できたと思います。

 かなり骨の折れることではありましたが、本と谷村ノートを一通り読んで状況をある程度把握できたので、思ったことを書き記そうと思います。ただ、ここに述べていることは偏った個人の感想です。興味を持たれた方は、このことについて書かれたほかの記事もご覧になってみることをオススメします*1

 本書での、谷村先生以外の物理学者がかかわっている章はかなり穏当に仕上がっています。ベルクソンを扱う6,7章では、とくに哲学者(平井靖史、三宅岳史)・物理学者(筒井泉)の間のやりとりはとても有意義に見えました。しかし、やはり谷村先生が厳しく指摘している部分に、哲学者サイドから明快な返答がでているとは思えない仕上がりになっています。「問題が共有されていない」ということにして、そのことに紙幅を割いてページを埋めているような感じは否めません。

この問題の核心

 一通り議論を追ってみた結果、これは哲学と物理学のあいだにあるかみ合わなさというより、この本の編著者間での問題にすぎないしそれに尽きるだろう、と思いました。

 特に気になったのは、編纂のながれです。

 谷村先生は、谷村ノートの最後に次のように書いています。ちなみに、谷村ノート内で、「ここでいう哲学者というのはおもに、本でかかわった佐金武先生、青山拓央先生、森田邦久先生の3人を指す」ということは前もって述べられています。

 私は哲学者の考え方を改めさせようなどとおこがましいことは考えない。私は哲学者の思考回路を正確に解明する自信はない。それにしても、私は哲学者たちに招かれて議論を振られた側であることを忘れないでほしい。私は自分には理解しがたいものに出会ったのである。そしで、自分には理解しがたいからと拒絶するのではなく、哲学者の話を聴き、哲学者が書いたものを読み、質問し、哲学者からの質問にも応答した。そして、哲学者が発する問題提起と、普通の感覚からするとそのような問題は問題だとは思えないようなことがらを問題提起する哲学者の思考回路とを、私なりに理解しようと努めたのである。その努力の成果がこの文章であった。(一物理学者が観た哲学,p.107)

  一方、本書のまえがきで、編者の森田先生は次のように述べています。

 今回、哲学者たちとの議論を通して、物理学者たち(執筆者だけではなく読者も)にも少しでも問題意識を(それが真の問題だと考えるかどうかは別として)共有していただけたなら成功であるといえるだろう。もっとも、執筆を依頼する時点でその問題意識を共有しておけというのは、編者に対する正当な批判であり、その点に関して編者として怠惰であったことは反省点でありこの場を借りてお詫びしておきたい。だが、言い訳を許していただけるなら、むしろ、今回物理学者の方たちから寄せられた論文およびコメントによってどのように問題意識が共有されていなかったのが明らかになったのであり、その点において本書は一定の成果を得ることができたともいえるだろう。(『〈現在〉という謎』まえがき,p.ii)

 このまえがきは、谷村先生のpdfもふくめ全体像に目を通したうえで読んでみると、どういうつもりなのだろうと思わざるを得ませんでした。しかも、執筆の段階で著者同士でのやりとりがなかったわけでなく、誰あろう編者の森田先生自身、谷村先生からの質問をメールで受けていることが、谷村先生の原稿中で明記してあります。やりとりができるのであれば、「なにがわからないかが明確ではない〔5章・谷村コメントへのリプライ(森田邦久)p.196 〕」と原稿に書いたり、まえがきに言い訳を書くくらいなら、疑問点を明確にする努力(具体的にはメールのやりとり)をすればよかったのではないか、と思いました。

 はたから見ていても違和感のあるこのまえがきですが、この点にかんして谷村ノートp.100で強い反感が表明されています。細かいことはいろいろありますが、この論争は谷村ノートのp.98~100に書かれていることに尽きる、と僕自身は感じています。それは怒るでしょう。

 谷村ノートには、各立場から批判と賛同の声が出されているようです。谷村ノートに好意的な哲学者はいるので、ノートに示されている問題整理と疑問に答えて、物理学と哲学のあいだで共有できる健全な議論が蓄積されればいいな、と思っています(谷村先生がそれに応答するかどうかは別として)。谷村ノートでは「谷村自身が絶対に正しいと思っているわけでなく、間違っているのなら教えてほしい」ということは繰り返し書かれています。

 たらればですが、谷村先生が6,7章のベルクソンプリゴジンがかかわる時間論にコメントする立場だったら、もう少し生産的な結果になったのではないかな、と残念に思います。

哲学と科学の違いについて思うこと

 少ないながらも、哲学と科学の論文や書籍などをこれまで読んできたなかで気がついた目立つ違いは、「仮説の棄却」のプロセスです。科学では、「実験事実に合わない」とわかった時点でその仮説は棄却されます。次のアイデアに至るためのヒントとなることはありますが、仮説自体が記録として残ることはあまりありません。とはいえ、今日もどこかで無数の大学院生や研究者が、無数の仮説を立て、実験し、仮説を棄却しています。そして、いま受け入れられている理論も、それに合わない実験結果が出てくれば簡単に棄却されます。

 一方で哲学の論考では、棄却のプロセスが明確ではないものが多い印象です。照らし合わせるべき「実験事実」にあたるものがなかったり、あってもきわめて少ない印象がありました。論考Aに反対の立場を述べるための論考Bで、ほかの思想家の考え方が引合いに出されて研究されていることもままあります。先行研究を引くことは当然ですし、もちろんそれがすべて悪いというわけではありません。その点をうまく準備して論を組み立てたのが、今でも語り継がれる古代ギリシャの哲人だったり、カントだったりするのでしょう(かなり浅い理解ですみません)。

 しかし、本書では「あのウィトゲンシュタインが言った」とか「あのカントがこう書いていた」という理由で引かれているケースがありました。それが正しいならいいのですが、明らかにおかしい部分がありました(たとえば『〈現在〉という謎』p.177, 円周率を逆向きに数え上げる男*2。)。カントやウィトゲンシュタインそのものの研究で本人の発言をもとに演繹するのはいいのですが、こと別のテーマについて、「有名哲学者がこう言った」というのはあまり意味がないように思います。

 また、僕が以前、現代思想の反出生主義特集を読んだとき*3、思ったことがあります。反出生主義特集に寄せられた論考は、反出生主義に対する反論の論文が大部分でした。その反論に説得力があったり、おもしろいと感じる部分はいくつもあって大変勉強になったのですが、ベネター(反出生主義の論者)が用意した論理に真っ向から正しく反論しようとしているもの、できているものはほとんどなかったと思います。「その前提に問題がある」という指摘が多く、それは重要なことなのですが、「前提の問題」を指摘するようになると議論は発散していきます。その点をこそ問題にして解決していくのが哲学の仕事であると僕は思っているし、雑誌全体としては興味深く読めたのですが、一歩間違えば非生産的な水掛け論に終始してしまいかねないな、という印象ももちました。

 哲学についての僕の感覚はきわめて素人で、間違ったことも言っているかもしれません。もし僕の理解が間違っていたら、指摘していただけるとうれしいです。

おわりに

 結構な分量を書いてから、インターネットでどういう意見があるかなぁと思って探してみたら、こういうのがありました。

note.com

 専門的な知識を持っていそうな方が、かなり詳しくこの問題について論じています。このnoteでは、谷村先生の形而上学への理解は誤っているが主張の主旨はよくわかる、ということが書いてあります。

 少なくとも、科学者と共に、その知識に基づいて哲学しているとは思えないものが、最近になっても日本語で出版されて続けているように見える。そうではないというなら、私にも教えて欲しいが、なにより谷村氏に早く教えてあげて欲しい。そしてそういう研究ができていない哲学者と協働することになったことは、あくまで不運であったと明らかにしてほしい。(上記noteより)

  この方は谷村ノートだけを読んで、本自体を読む気にはなれなかったと書いています。僕も、平井靖史先生のベルクソン研究が面白かったのでよかったですが、たしかにこの論争を追うためだけに本を読んだのは徒労だったような気がしています。

 

以上です。