ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:『現実的な左翼に進化する』

 この本を読みました。

現実的な左翼に進化する 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

現実的な左翼に進化する 進化論の現在 (シリーズ「進化論の現在」)

 

  こちら↓の記事で紹介されていたので、読んでみました。

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 前回記事(『農業は人類の原罪である』)もこの本も、1999年に出た「Darwinism Today(進化論の現在)」というシリーズのなかの1冊です。ダーウィンの進化論を軸にして、いろいろ考えてみようというシリーズです。日本で出たのが2003年で、ちっちゃくて地味だししかたないのですが、シリーズ全部絶版です。とはいえ、上に貼ったコラムでも書かれているように、2020年の今読んでも大変意義がある内容だったと思います。
 本の内容の詳細や、本の内容を取り巻く現代の潮流を知るには上に貼ったコラムを読めばそれで事足りますが、自分で記録にまとめないとすぐに忘れてしまうので、備忘のために記事にします。

本書のテーマ

 社会や政治の話では、論者の政治的立場を言い表す語がよく出てきます。国家に対する考え方を表すのが右翼、左翼? 経済のしくみを表すのが資本主義、社会主義共産主義? リベラル、保守? などなど。ここ1年くらいでやっとそういう話題に興味が出てきたので、それぞれの言葉になんとなくのイメージができてきたものの、じゃあ説明してくれと言われると、それで正しいのか自信が持てません。〇〇党みたいな感じがソレで、誰々みたいな感じのがアレ、あの国みたいなのがコレ、くらいしか言えません。本書では、「左派」とはこんなものです、とはっきり宣言されていました。スラム街の子どもたちの環境向上に努め、動物保護運動に尽力したヘンリー・スピラ(Henry Spira)という人を引き合いに出してこのように言います。

 ...どうして五〇年以上もの間、弱い人、虐げられた者たちのために活動しているのかと訊くと、彼(注:スピラ)はただこう言った。自分は強い者の側でなく弱者の側に、抑圧する方でなくされる方に、馬を御す騎手ではなく御される馬の方にいたからだ、と。彼は、この世の中にあるあまたの痛みや苦しみについて語り、そういうものを少しでも和らげるために何かしたいのだという思いを語った。
 私が思うに、左派であるとはずばりこういうことなのだ。...(中略)...弱者や貧者、虐げられ搾取されている人々、あるいは単に低いレヴェルの生活でさえ維持できない人々がいて、しかも彼らの苦しみが本来味わわなくても済むようなものだとする。そのときそれらの苦しみを目の当たりにし、肩をすくめ、どうしようもないね、お手上げだという顔をしているとしたら、それは左派とは言わない。所詮それが世の中というものさ、いつだってそうさ、我々にできることなんてないねというのであれば、それは左派とは言わない。左派はこういう状況に対して何とかしてあげたいと思うのだ。(p.16-17)

  なるほどすばらしい!左派として頑張って生きていくぞ!という気持ちになってきます。でも、この本でやろうとしてるのは、左派の理想とする社会の実現について説明することではなく、左派の考え方とダーウィン進化論とのかかわりについて説明することです。ダーウィンの進化論は、科学の一学説にすぎません(大理論ですが)。しかし、かなり刺激的な理論なので、いろんな人がいろんなやりかたで、かなりの間違いを含みながらダーウィンの進化論を社会に適用してきてしまいました(さいきんも「もやウィン」とかいうおもしろい漫画がインターネットに登場していました)。このことを指摘しつつ、科学に正しく立脚しながら制度設計をしましょう、ということを易しく解説しているのが本書です。筆者は、左派の精神をもちながらにしてきちんとダーウィン進化論に基づいた「ダーウィニアン・レフト(現実的な左翼)」となることを勧めています。

進化論と社会

 進化論というのは、「今現在生き残っている生物種は、これまでの地球の歴史のなかで環境が変わっても、死なないで済んだものたちである」ということを主張しています。別にがんばって体の仕組みをつくり変えたりしたわけでなく、たとえばたまたま地表の気温がめちゃくちゃ高くなったとき、暑いのを我慢できる奴が生き残れた(我慢できない奴は死んだ)というだけのことです。そうして生き残った奴らが子を成せば暑さに強めの(遺伝子を持った)子が生まれるし、仮にそうでない子が生まれても死ぬだけです。
 でも、社会では「勝てば官軍」「死人に口なし」「雑魚は黙ってろ」という言葉たちが示すように、「生き残ったという事実」と「良い悪いという価値判断」が結びつきがちです。極端になってくると、社会的に成功しないような奴の遺伝子が残らないのは進化論的に正しいので、別に格差社会で子供を持ちたくても持てないのは正しいことだ、みたいな感じにもなってきます。右派の立場で乱暴な人だと、こんなふうになります。でも、ダーウィンの進化論は「良い悪いの価値判断」には使えません。社会的に成功しない奴の遺伝子が残らないほうがいいと考えるのは勝手ですが、その根拠をダーウィンの進化論に求めることは間違っています。
 じゃあ、左派とダーウィンの進化論はどういう関係なのか...ということが本書のテーマの一つです。
 端的に言うと、有名な学説や理論の多くは、進化論の存在は知っていながらも間違った理解をしていろんな論を展開していたということになります。左派の考え方でもっとも有名なものの一つにマルクス主義がありますが、筆者は「マルクスは進化論を正しく理解していなかった」と言っています。マルクスの唱えた唯物史観によると「物資の生産手段が変わると人々の考え方も変わる」(歴史の発展法則)のですが、ダーウィンの進化論にもとづけばそんなことはあり得ないのです。
 もうすこしひらたく言うと、人間の本性は進化の過程で獲得してきた遺伝子構成によって規定されており、社会のあり方多少変わったところで変化するものではありません。しかし、マルクス主義ではそうは考えず、「社会のあり方を変えれば人間の本性は変わるのだ」と主張します。その当時の論争についてはよく知らなかったのですが、ここまでのことを踏まえると次の記述はすこし笑ってしまいます。

 少なくともプラトンの『国家』以来、完全無欠な社会を築くという概念は西洋人の意識のなかにあり続けている。左派は存在する限りずっと誰もが仲良くて、協力しあい、自由で平和に生きていける社会を追求してきたのだ。マルクスエンゲルスは「空想的社会主義者」を軽蔑しており、自分たちの言う社会主義ユートピア的などではないと主張した。とは言え、彼らが言っているのは、自分たちは共産制社会へと向かう人類の歴史の発展法則を発見したのであり、その社会主義は「科学的」なもの、つまり空想的なものではないというにすぎない。(p.45) 

  「類人猿からホモ・サピエンスになったところで一区切りで、あとはホモ・サピエンスのままでよりよくなっていくんだ!」というような、ホモ・サピエンス以前以後で頼りにする考え方を恣意的に切り替えているところがよくなくて、結局科学的ではないよね、という話になってきます。実際意図するとしないとにかかわらず、これまでの左派とダーウィン進化論の相性はあまりよくなかったようです。
 ここまで見ると、左派も左派で、わりと結構とんでもないこと言ってんなという感じがします。すこし極端に言えば、仕組みの設計次第で、望むように人間を変えられると言っているわけなので。
 こういうことについて、筆者は次のように述べています。

 木工職人が材料になる木を与えられ、木の器をつくるようにと言われたらどうだろう。彼らは木材を目にする前に考えていたデザインに沿って削り出したりはしない。その代わり素材をじっくりと調べ、その木目に合うようにデザインの方を修正するだろう。...(中略)...社会を改革しようとするなら、人間に元々備わっている傾向について理解し、自分たちの観念論的な理想をそれに合わせるべきなのだ。(p.68)

 たぶんここが、本書の肝になる部分です。なにをするにも、この観点は大変重要なことです。この文章に続いて、具体的にどのような社会をデザインすればいいのかを提案していきます。

ダーウィニアン・レフトのとるべき行動

 最後に筆者は、ダーウィニアン・レフトがとるべきでない行動と、とるべき行動を列挙します。大変重要だと感じたのでメモしておきます。

 ダーウィニアン・レフトは以下のことをすべからず。

・人間の本性の存在を否定すること、ならびに人間の本性は元々よいものである、あるいは限りなく変えられると主張すること

・人間どうしの対立や反目はすべてなくなると、政治革命、社会革命、あるいは教育の充実などの手段を問わず、期待すること

・すべての不平等が、差別や偏見、抑圧や社会条件に原因があると決めてかかること。それらが原因である場合もあるだろうが、すべての場合そうだとすることはできない

 ダーウィニアン・レフトは以下のことをすべし。

・人間の本性があることを受け入れ、それについてもっと知ろうとすること。そうすれば人間はどういうものかについての証拠のうち、最も利用できるものに基づいた政策が可能である

・「そういうのが本性である」から「それが正しい」へと決して推論しないこと

・様々な社会的・経済的システムにおいて、多くの人が地位を高めようとしたり、権力の座を得ようとしたり、あるいは自分と血縁者の利益を求めたりして競争するだろうと考えること

・競争よりも協力が育む社会構造を展開させ、皆が望んでいる競争の終わりという方向へ事が進むよう努力すること

・我々が人間以外の動物を食い物にしているのは、ダーウィン以前の、人間と他の動物の間の境目を誇張した過去から受け継いだものである。そのことを認識し、人間以外の動物により高いモラルをもって臨み、自然に対する我々の優位という人間中心的な見方をとらないようにすること

・弱い者、貧しい者、虐げられている者の側につくという左派の伝統的な価値観の上に立ちながらも、どんな社会的・経済的な変革をすれば本当にそういう人々のためになるのかを非常に注意深く考えること

(p.100-103)

 全部ばっちり実践するのは大変難しいですが、暗唱したいくらいのリストです。

最後に

 左翼的だったり、リベラルだったりする意見は最近よく目に入ってきます。理想的で耳あたりのよい言説が多いのですが、「果たしてそんなことは可能なのか?」という青写真だったり方法が提案されていることもままあります。そこに欠けているのはこの本に書かれていることかもしれないね、と素直に思いました。『農業は人類の原罪である』と同様、訳者の竹内久美子さんによる解説もよいものでした。
 ちなみに、本書のタイトル『現実的な左翼に進化する』は、進化論的には間違っていますね(個体は進化しないので。原著タイトルは、Darwinian Left)。進化論の誤った理解を告発するこの本のタイトルがこうなっているのはちょっとどうなのか、と思うところはありますが、しかし本のタイトルとしてはかなり機能的です。訳者にそれがわからないとは思えませんが、まぁ何かあったんでしょう。

 それにしてもこの本、絶版なのが大変残念です。持ってるけど要らない人がいたら現実的な価格で譲ってほしいです。

 おわりです。

読書記録:『農業は人類の原罪である』

 この本を読みました。

農業は人類の原罪である (進化論の現在)

農業は人類の原罪である (進化論の現在)

 

  大変おもしろいことを言っている本ですが、残念ながら絶版になっています。

 著者の主張は次のような感じです。

 ...人間は少なくとも四万年前(旧石器時代後期)の昔から、「原農耕民」と呼んで差し支えないくらいにまで環境を制御していた、と私は論じたい。こう考えることにより、他の多くの未解決の問題が楽に然るべき位置に収まるはずだ。(p.12)

 すこし補うと、通説では、「1万年ほど前に各地で農業が行われるようになり、それまでは狩猟採集が主な食い扶持だった」とされているが、とんでもない。農業やそれに似た営みは、そのはるか前から行われており、1万年前の新石器時代に「大規模化しただけ」にすぎない、というような感じのことを言っています。

 本書では、なぜ上記のように言えるのかを平易に、しかし納得的な方法で説明しています。解説含めて100ページに満たないコンパクトな本ですが、大変エキサイティングな内容です。そんな短い本であっても私はすぐ忘れてしまうので、備忘のために記事にします。

証拠はない

 筆者の主張を支持するための、考古学的な証拠はありません。その理由はしっかり考えればわかるのですが、僕は言われるまで気がつきませんでした。
 このことは、「農業の起源」を結論付けるために必要な証拠とはなんなのかを考えるとわかってきます。新石器時代(約1万年前)に見つかる農業の証拠とは以下のようなものです。

  • そのころに見つかる穀物痕跡が、野生のものとはっきり違う(作物栽培の証拠)
  • そのころに見つかる動物のサイズや種類などが変化した痕跡(家畜化と都市の誕生の証拠)
  • そのころに見つかる人工物の痕跡が、農具っぽい

 起源だ、と主張するには、こういった「痕跡」が集まらないといけません。しかし、こういった痕跡は「大規模な変化」が起こらないと見つからないよ、ということを筆者は主張します。化石になるような動物や植物は、その当時ありふれているものだけで、さらにそのなかでも化石化しやすいものだけです。さらに、人工物となるともっと残りません。木と石ころをなんかの植物で結びつけただけの武器や農具は、時間が経てば石しか残りません。だから、新石器時代以前に、小規模な農業が行われていたとしても証拠が残りません。
 また、新石器時代に見つかる農業の証拠は「大規模な農業」の証拠です。さまざまな技術の発展を考えれば、いきなり大規模な農業(生物の遺伝子や植生が大きく変わるほどのもの)が行われるようになることはありえないし、やはりそれ以前に農業やそれに類する営みがあったと考えるのは自然です。
 このことは、次の文章によってよく表現されています。

...人々は農耕を発明し喜びの声を上げたのではない。異議を唱えながらも、農耕へと押し流され、あるいはそれを強制されていったのだ。(p.12) 

農業とはそもそもなんなのか

 筆者はある一つの植物を栽培する過程を、つぎのように分類し、コメントしています。

...土を耕して準備し、品種改良をする、作付け、作物の保護、収穫、そしておそらく保管まで。しかし、これまた注意しなければならないのは、これらの事柄は現代の農業でこそ当然のこととなっているけれど、それぞれを単独で取り出してみれば、まったく違うものだということである。(p.23) 

  「石器時代の人類が、もっぱら食料を狩猟採集に頼っていたとして、農業に要求されるこれらの過程のどれ一つとして行われていなかったはずはない」というのが著者の主張の出発点です。農業の過程のなかの「作物の保護」と「作付け」くらいなら、誰もがひとまずは考えることだろう、という素朴な見方がポイントです。
 「作物の保護」とは、「実をほかの生物に食べられないようにする」「枯れた葉や枝をとる」などです。こういうことはチンパンジーや昆虫、魚でさえも行っているという例を挙げながら説明されていきます。「作付け」とは、種を植えたり挿し木をしたりすることです。これは、ただ単に人間が果物をもって集落に持ち帰り、食べ終わった種をそのへんに捨てておけば成立します。
 この程度の営みであれば、現生人類に近い人類が現れたといわれる200万年前から行われていたと考えられます。筆者が、「四万年前(旧石器時代後期)が農業の本当の起源だ」という根拠は、そのころに洞窟の壁画を描いたり、つくる道具のバリエーションが増えていた、ということにあります。道具制作の技術の発展には意識の転換があったはずで、そのなかには農業も含まれていたに違いない、という主張です。このことについて、筆者は次のように述べています。

 我々が「農業」と呼ぶことができるようなものがこの頃(引用者注:四万年前)に始まったわけではなくて、自分たちの行なっていることが農業だと、はっきりと意識したのがこの時点なのである。環境に対して、行き当たりばったりでやっているうちに、だんだん意識的、計画的に一連の操作ができるようになったのである。それら操作は経験に基づく大雑把なアプローチや、ときには儀式的だったりするものから生まれたものだが、農業とは今でもそうしたものなのだ。(p.32)

 ここまでまとめるだけで、素朴な観点から始まって、定説とは大きく異なる仮説が組み立てられており、読んでいてすごく興奮しました。

なんで「農業は人類の原罪」なのか

 次の文章が本書の核になるところだと思います。

 ...農業とは、一言で言えば、環境を操作し、作り出される食物の量を増やすことである。(中略)食べ物の量が増えれば、もちろん人口も増加する。
 そうなると、当然のことながら、農業を行なっている者は自分たちがらせんをなす悪循環に陥っていることに気づくだろう。農業をすればするほど人口が増え、そうするとますます農業に精を出さなければならなくなる。増えた人間を食べさせていく方法は農業しかないのだから。(p.56) 

...農業をする人々が労力を惜しまないのは、何もそれが楽しいからでも、狩猟・採集に比べて必ずしも楽だからでもない。ただ単に、成功と引き替えに犠牲を強いられているだけなのである。(p.60)

  農業は、やればやるほど農業の規模を大きくしていかないといけないので、際限のない無間地獄に陥るというのです。会社経営に似ていますね。

 で、どうして「原罪」*1なのか。それは、大規模農業の始まり方と、アダムとエバエデンの園から追放された話が似ているからです。
 一番最初の大規模農業(約1万年前)の証拠は、中東(イランのあたり)で見つかるそうです。1万年より少し前の中東では、まだペルシャ湾が干上がっており、その近辺での狩猟採集の暮らしはかなり簡単で安定していたそうです。そんなわけで、狩猟採集と痕跡の残らない小規模な農業だけで、人口がかなり増やせた。しかし、1万年前ごろに氷河期が終わり氷河が溶け、海面が上昇したせいで内陸部への移住を余儀なくされます。しかし内陸部では、それまでのような簡単な暮らしはできない。増えてしまった人口を養うには、農業だ...という流れがあったとのことです。つまり、初期農業はやらざるを得ないから始まった、というのです。
 そして筆者は、この流れと、エデンの園の物語との類似点を指摘する説を肯定的に紹介します。実際、聖書ではアダムとエバが追放されるとき神がかける言葉は「おまえが土に還るまで、顔に汗することなくパンを得ることはできないだろう」(創世記三章一九節)なので、やらざるを得なくて農業をやることになったのを納得させるためのストーリーという感じもします。
 さらに筆者は、旧約聖書の多くの部分は初期農業についての記述であることを指摘し、次のように述べます。

 旧約聖書は実際、壮大なスケールの「週刊農民新聞」のようなものとして読むことができ、語られるのは「飢饉について」「奴隷労働について」「終わりなき苦役について」と物凄いものばかりだ。(p.68)

 創世記が書かれたのは、紀元前1500年のこととされていますが、大規模農業の興りから数千年経って書かれた文章に、農業の辛さが強調されているのは示唆的です。パンドラの箱というのは、大規模農業のことだったのかもしれない、とさえ感じる事実です。

 筆者は最後に、参考文献紹介のところで次のように書いています。

 最後に、聖書を読むことをお勧めしたい。特に創世記と出エジプト記(と新約聖書のたとえ話も含めた他のところ)を、ただの宗教書や物語としてではなく、初期農業とそれが人々にとってどういう意味を持っていたかを説明する書として読まれるとよい。こうやってアプローチすると、心にパッと灯がともるような、とてもワクワクとした気分にさせられるのだ。ぜひお試しあれ!(p.87)

最後に

 本書で書かれた推論が本当に正しいのかは、証拠が出てこないかぎり学説として定着するのは難しいかもしれませんが、充分あり得ることだと思います。書かれていることが正しいかどうかは置いておいて、「農業の発生とその影響」に関してあまり深く考えたことがなかったので、大変勉強になりました。考古学的資料の解釈のしかたについての記述は大変おもしろかったです。また、訳者の竹内久美子による解説も、大変効果的に書かれていたと思います。
 おわりです。

*1:この「原罪」が含まれるのは邦訳版のタイトルだけで、原著タイトルは「Neanderthals, Bandits and Farmers(ネアンデルタール人、ならず者、農民)」です。

読書記録:リスク・責任・決定の一致『ケインズの逆襲 ハイエクの慧眼』

 この本を読みました。

  以前、『問いかける法哲学』を読んだときに、ハイエクという哲学者が出てきて興味がわいたので、ハイエクのことがわかる簡単に読めそうな本がないかなと思って検索して出てきたので読みました。
 ハイエクに触れられていた部分はそんなに多くなかったのですが、経済や政治制度の勉強になりました。筆者は労働者の地位を第一に考えた経済や政治をよしとしてこの本を書いています。僕自身が政治や経済に求める考え方とも近くて読みやすかったです。本書は、「リスクと責任を一致させる」、「政府などは、予測可能な制度のみを設計するべき(状況に応じて変わる部分はそれぞれにまかせるべき)」という二つの指針を繰り返し確認しながら、そのもとで実現できるよい政治制度や経済政策を提言します。

 いくつか印象に残った部分を、備忘のためにメモしておきます。

リスクと責任は一致させる

 共産主義とか社会主義といったワードは、見聞きして理屈はだいたいわかるし良い仕組みのように見えるのですが、歴史上そういった仕組みがあまりうまく機能していないようです。過去に社会主義国だったソ連が崩壊しましたが、その社会主義経済が崩壊した仕組みについてわかりやすくまとめてありました。
 自分が持っていた社会主義のイメージは、いろいろな経済活動をすべて国が管理して、資本家による搾取の仕組みを排除して公平公正な分配を実現するという形です。マルクス主義の話なんかを読んだり見聞きすると、それって素敵じゃん、と思うわけですが、ソ連はそれでうまくいかなくなってしまいました。その理由について、コルナイという経済学者の分析を紹介しています。簡単にまとめると、崩壊の原因は次の二点です。

  • 企業が設備投資などで生産規模を拡大するのに歯止めがかからない(企業が国のお金で運営されているため、企業のトップの経営判断が他人事になる→設備投資が成功すればOKだし、失敗しても私財での補填などの責任をとる必要がない)
  • 原料や燃料や部品を多くため込もうとする(そうしておけば、中央政府から突発的に生産の指示が降りてきても即座に対応でき、ボーナスがもらえる)

 この二点で、企業の生産活動に資源が集中されると、国内では市民生活に必要なもの(食料や衣料など)が不足します。賃金は上がっても、買える物がそもそも存在しないという状況になったそうです。こういうわけで、国民の生活はどんどん貧しくなっていきます。コルナイの分析では、ここでの一番の問題は企業のトップが責任をとる仕組みがないという点だ、というのです。
 こういう、責任をとる人がいないという状況は、社会主義特有のものではなく、資本主義社会でも十分起こりうる、ということを、リーマンショックを例に説明してありました。リーマンショックの主な原因は、金融機関が顧客から預かっているお金をローンとして貸したものの返済できない人が続出した、というものです。なぜ返済できない人が続出したかというと、お金を貸す金融機関のディーラーに「どうせ自分のお金じゃない」という意識があったため、返済されないリスクを過小評価してお金を貸しまくったから。そして、なぜそんな過小評価が可能だったかというと、金融機関がつぶれると雇用や経済への影響が大きいため、破綻しそうになっても国が助けてくれる、という公算があったためだ、と著者は分析しています。
 著者は、リスクと責任が一致している事業形態として、「沿岸漁業の漁師」を例に挙げています。長いですが引用メモしておきます。

...沿岸漁業はいまは、漁業協同組合が漁業権を持って、漁師さんたちが自営して働いています。これが出資した資本家に決定権のある資本主義企業だったらどうなるでしょうか。
(中略)

...漁業には、漁師さんが現場でシケに遭ったりして死んでしまったり、障がいを負ったりするリスクがあります。「舟板一枚の下は地獄」というやつです。これは、とても重大なリスクですが、現場の漁師さんは、長年の経験があったりして、現場特有の情報からこのリスクをある程度抑えることができます。
 もし、資本を出資した資本家が決定権を持っていて、たかが漁船や漁具に出資したぐらいで、現場を離れたところから出漁などを指図したらどうなるでしょうか。その結果の事故リスクは現場の漁師さんにかかってくるのですが、決定者が責任を負わなくていいならば、どんどんと過剰にリスクの高い操業を命令してしまうことになります。
 これはいけないということで、被害者が納得する額の人身事故の補償を、きっちり資本家側にさせるようにしたらどうなるでしょうか。そうするとその補償額はとても大きいはずですので、事故リスクにかかわる情報がよくわからない資本家としては、今度は逆に慎重すぎる操業決定をしてしまうでしょう。
 そうすると、操業決定を現場の漁師さんにまかせてしまうという解決もあるかもしれません。ところが、一定のお給料がもらえるとなったら、漁師さんとしては、資本家がリスクにかかわる情報がわからないことにつけ込んで、危険だと言ってなるべく出漁しなくなるでしょう。
 それを防ごうとしたら、漁師さんの収入を漁獲高に比例させるほかないのですが、操業決定も漁師さんがして、その収入も漁獲高に比例するというのは、会社が自営業者としての漁師さんに下請け委託していることと同じです。結局やはり、事実上現場の漁師さんに決定権のある事業に落ち着くわけです。
(中略)
 結局、漁師さんが自分で操業決定して、自分で責任を負い、自分たちで販売するというのが一番効率的だということになります。(p.59-61)

 そういうわけで筆者は、「負っているリスクが最も大きい人が、事業の決定権、すなわち責任をもつことが重要だ」と結論づけます。 会社員で、上層部からのトンチンカンな指示に従わざるを得ない、という経験がある人がいると思います。こういう場合、失敗したときに上層部が完全に責任をとる、という仕組みやルールがきっちりしているなら全く問題ありません。でも、実感としてあまり実現されていないよな、と暗い気持ちになります。

予想可能性のある制度設計

 筆者はこの「リスクと責任の一致」を実現するために必要なことは、ハイエクという経済学・哲学者が主張した「予想可能性」だと述べています。

 ハイエクの提唱する、誰にでも当てはまる一般的ルールは、逆に、人々の予想を確定させてリスクを減らすものです。「それによって人々は、生産活動をしていく上で関わりを持たざるをえない他者が、どのように行動するかを予想できるように助けられる」というものです。例えば、民法などのルールがあれば、詐欺やごまかしのリスクは減って、安心して取引できます。(p.91)

 そして筆者は、「予想可能性」を実現するための一つの政策として「ベーシックインカム」を挙げます。ベーシックインカムについて、筆者は「労働と生存を切り離す」(p.171)と書いています。最低限生きるために必要なお金を保証して、事業などで失敗しても生きてはいけるようにすることで「責任をもってリスクを負う」という原則を貫けるようになると述べます。生活保護ではダメなのかとか、なにもしないでお金をもらえると人は怠けてしまうとか、異論はいろいろありますが、納得いく反論がいくつか挙げられています。この本に書いてあるベーシックインカムの議論は地に足のついた実現可能そうな理路が展開されていてよかったです。

ゲーム理論で分析する「日本型年功序列vsアメリカ型成果主義

 ゲーム理論を応用して制度を分析している章があり、そこの記述も面白かったです。「労働者の戦略」と「企業の戦略」をゲーム理論をつかって分析し、どういう均衡がとられるのかを探しています。ここでは「労働者の戦略」「企業の戦略」を次のように二つずつ想定しています。

  • 企業の戦略:日本型の雇用慣行(年功序列、終身雇用)vsアメリカ型の雇用慣行(成果主義、流動的雇用)
  • 労働者の戦略:特定企業に特化した技術を伸ばすvs汎用的な技術を身につける

 この場合、四通りの戦略の組み合わせが考えられますが、労働者、企業ともに満足のいく結果になるのは

  1. 日本型雇用慣行×特定企業に特化した技術
  2. アメリカ型雇用慣行×汎用的な技術

の2パターンです。どちらが優れているというわけではないけど、この2パターンのどちらかに落ち着くということになります。ほかにも、ゲーム理論をつかって「男は働き女は家」という家庭が多い(多かった)理由を説明したりしていて、そこも面白かったです。

 

 いままで経済学の本はあまり読んだことがなかったのですが、大変わかりやすく、選挙での投票先選びの役にも立つ本だと思いました。

 おわりです。

読書記録:経験しないとわからない『食べることと出すこと』

 この本を読みました。

食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)

食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)

  • 作者:頭木 弘樹
  • 発売日: 2020/08/03
  • メディア: 単行本
 

  潰瘍性大腸炎という、国に難病指定されている疾病をもつ著者による本です。難病にかかるとはどういうことなのかを、自分の実感を込めて素直につづってあります。「この病気を経験しないとわからないこと」が、懇切丁寧に説明されています。
 実際にどういう症状が出て、日常生活のどういうところに困難があるのか、ということが事細かに記述されるところから始まるのですが、それを下敷きにした心の動きに関する文章が特に印象的でした。とても強く印象に残った箇所を引用して、思ったことを書いておきます。

そういう性格になる

 潰瘍性大腸炎になったばかりのとき、患者会のようなところに相談にいったら、そこの責任者の人から(その人は患者ではなかった)、「潰瘍性大腸炎の人たちは、みんな同じような性格をしている」と言われたことがある。
 それは、くどくどしていて、神経質で、いつまでも悩んで、なかなか決断ができず、というようなことだった。
「そんな性格だから、こんな病気になるんですよ」と言われた。
 たしかに、私が会った何人かの患者さんも、そういう感じだった。
 ただ、私はそのときは、そういう性格ではなかったので、「だったらなぜ自分が?」と首をかしげた。

 ところが、闘病が続くと、私もだんだんそういう性格になっていった。
 少しでも症状を改善したいから、毎日の食事や便や行動を観察し、何を食べたからよくなかったのかとか、何をしたから少しましになったのかとか、そういう法則を見出そうとする。
 ところが、そういう法則がない。あれを食べてよかったと思っても、次はダメだったり、同じことをしても、前回と今回で結果がちがったりする。
「さっぱりわからない」とあきらめるわけにもいかないから、さらに観察は細かくなり、神経はとがり、苦悩は増し、迷いは増え、決断できなくなっていく。
人に病状を説明するときにも、やたら細かくなるし、「そうとも限らないんですが」というような保留もあちこちにつく。

 つまり、そういう性格だから、その病気になったのではなく、その病気だから、そういう性格になったのである。(p.251-252  第9章 ブラックボックスだから(心の問題にされる))

  それでもしかし、次のようなこともある。

 難病は治らない病気なので、そういう次第で、とくに「心から治せ」と言われやすい。
 身体からのアプローチで治らないのは、医学の限界であり、当人の責任ではない、心のからのアプローチで治らない場合は、これは当人の「努力が足りない」「性格に問題がある」ということになってくる。
 身体の病気になって苦しんでいるのに、いつの間にか、自分の性格を責められるという、当人にとっては、とても不思議な状況に追い込まれるのだ(p.245-246 第9章 ブラックボックスだから(心の問題にされる))

面倒を見てもらわなければならない

 それでも病人は、他人に面倒を見てもらわなければならない弱い立場なので、なるべく周囲の意向に添おうとする。
 だから、病院の六人部屋でも、たいていの人は明るい。病室というのは、さぞみんな、どよんと暗いのだろうと思って、病院にお見舞いに来る人は、意外にみんなが明るいので、へえっと思うかもしれない。
 しかし、それは第7章でも書いたように、頑張って明るいのである。廊下などでひとりで外をながめていたり、テレビを見ていてつい素に戻っているときなどの同室の人たちの顔は、どきりとするほど暗いことがある。(p.248) 

緊張している

 敵軍がいつ迫ってくるかわからなくて、ピリピリ神経をはりつめてレーダーを見つめている兵士のようなものだ。
 そんな状態が何年も続くと、「もういやだ。許してほしい」と泣いて頼みたくなる。
 問題は、頼む相手がいないということだ。(p.202 第7章 病気はブラック企業

信仰を失う

…車にひかれたり、車でぶつかったりすると、「自分は事故に遭わない」という、多くの人が持っている素朴な信仰を失ってしまう。
 なんだそんなことかと思うかもしれないが、これは意外と大きい。
 人は、そういう信仰によって日常をスムーズに生きている。でなければ、本当に事故の確率とかを正確に考えていたら、いろんなことがおそろしくなってできなくなる。 鬱病の人のほうが、現実を正確に認識できているという心理研究の結果が公表されていたが、それはそうだろう。普通の人というのは、現実をかなり楽観的に考えているし、またそうでないと、生活に支障をきたして、普通の日常を送れなくなってしまう。
 私はもう、「事故は他人が遭うものであって、自分には起きない」というふうには思えない。だから、つねに緊張している。運転免許も持っていない。人をひくかもしれないからだ。(p.275-276 第10章 めったにないことが起きる/治らないことの意味)

「いえ、治りますよ」

 治らない病気になって驚いたことのひとつは、「治らない病気なんです」と言っても、「いえ、治りますよ」と否定されることだ。
(中略)
「治らない病気とは、大変ですね」というような、ごくあたりまえの反応をする人は、じつはとても少ないのだ。(p.294-295)

悟りの境地に達せない

 たしかに、病気とうまく付き合っている人はいる。
 そういう人の中には、「病気になってよかった」と言う人さえいる。
 「病気と闘っているときはつらかったけど、それを乗り越えて、いまは病気とうまく付き合えるようになった。今では、病気になってよかったと思える。病気のおかげで、いろいろないいことがもあった」と言って、やさしい人たちとの出会いとか、日常のささやかな幸福への気づきとか、いろんなことをあげる。
 それはとても感動的である。
 そういう境地にたどり着けて、この人たちはよかったなあとも思う。
 しかし、私には、そういう悟りは無理だ。
 自分を騙せないという気がしてしまう。
 だって、病気にはならないほうがいから。
 これはもしかすると、私がまだそこまで追い込まれていないということなのかもしれない。悟りの境地まで到達している人たちのほうが、そこに到達するしか生きていようがなかったほど、絶望が深かったということなのかもしれない。(p.207-208 第7章 病気はブラック企業) 

感想

  潰瘍性大腸炎の症状の出方は人によってさまざまで、著者の場合、症状が治まる「寛解」の時期と、症状が出てくる「再燃」の時期があるとのことです。再燃期には、引用箇所にもある「ところが、そういう法則がない。あれを食べてよかったと思っても、次はダメだったり、同じことをしても、前回と今回で結果がちがったりする」ことが常に起こる。大腸に炎症が起きていると、トイレのタイミングを自分で制御できないので、そのことでも緊張感が常にある。家で過ごすならトイレもすぐ行けるし、最悪漏らしてもなんとかなるが、外ではそうはいかない...。

 病気そのものの症状だけでもやりにくいことこの上ないですが、本書を通して印象的なのは著者自身や周囲の人の心の動きでした。細かくつづられる著者自身の素朴な心境には、そりゃあそうだよ、と思えることばかりでした。とくに、すすめられたものを食べられないことで起こるいろんな弊害に関する記述は、重いテーマだと思いました。自分自身アレルギーがあって食べられないものがありますが、そのことである種申し訳なさを感じたり、その食べ物を出してくれる人から張り合いのなさというか、打っても響かない鐘のように思われているかも、と感じるときもあります。
 この本には、全編を通して「きれいごと」があまり書いてないことが良かったです。淡々と事実を書き、その時思ったことを書き、ときおり、状況に合っている文学作品の一節を引用しながら考えを展開する。内容は決して明るいものではありませんが、必要以上に暗いわけでもありません。この文体のテンションは、著者の伝えたいことを表現するのにピッタリだと思いました。
 人は「わからないでいる状態」ってやっぱり不安で、どうにか理由や根拠を見つけて「わかった状態」にしたがるということが、本書を読んでよくわかりました。しかしこれ、自分のことでも他人のことでも、短絡的に結び付けようとするといいことはありません。わからないことでも一旦事実を受け止める、そのうえで飼っておく。飼うための牧場をつくっておく(数学受験術指南に書いてあった)、ということは大切です。

 

 おわりです。

 

読書記録:『数学受験術指南』

 この本を読みました。

数学受験術指南 (中公文庫)

数学受験術指南 (中公文庫)

  • 作者:森 毅
  • 発売日: 2012/09/21
  • メディア: 文庫
 

  数学の大学入試試験に立ち向かうにはどうするべきか、ということをまとめた本です。なにやらおもしろいことが書いてある、という評判を見かけたので、読んでみました。大学受験は僕にとって遠い昔の出来事ですが、おもしろく読めました。

 いくつか引用をメモしておきます。

...なかには、消しゴムで消したあとを、すかして見たりして、調べている採点者まである。

(中略)

 できることなら、採点者は受験生の頭をわってみたい。せめて、どういうつもりでこんなことしてるの、と質問したいことがよくある。(p.50,51. 2 入試採点の内幕)

「正解を公表しろ」という意見があるが、数学の答案には、きまった「正解」なんてない。予備校の「正解」はもちろん、出題者の「正解」だって、満点になるとはかぎらない。

(中略)

...入試は「客観厳正」などというヤカラは、採点の苦労をしたことのない人間だと思う。(p.55-56. 2 入試採点の内幕)

 交換日記を利用してもいい。交換日記のなかで、数学の問題の出しっこなんて、ヤボッタくって、イメージをこわしかねないが、受験のことを考えれば、背に腹はかえられぬ。イメージをこわさぬ範囲で、利用すればよい。

 それに、そうしたなかで、逆に数学のほうが、交換日記の持つフンワカしたイメージに同化されて、フンワカしてくればしめたものだ。キミは、数学が好きになれる。(p.95. 4 受験数学以前)

 どうしてもよくわからないところは、わからないからといって、あきらめて見捨てたりしないで、頭のなかで飼っておくと、そのうち一年もすると、なんとなく馴れてきてくれて、それがわかってくる、といった経験も、たいていの数学者は持っているのではなかろうか。ただ、そのわからない概念が、住み心地よく飼われてくれるように、頭の牧場ができていることが大事である。(p. 97. 4 受験数学以前) 

 

 おわりです。

読書記録:『10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』

 この本を読みました。

10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」

10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」

  • 作者:森山至貴
  • 発売日: 2020/08/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 この本は、中高生くらいの子どもがかけられることの多い「ずるい言葉」のなにが問題であり、どう対処すればいいのかを29のシーンに分けて解説したものです。「あなたのためを思って言っているんだよ」など、人から言われると納得がいかないけれども反論もしにくいような物言いを取り上げています。
 差別や不当な扱いにひそむ構造に関する基本的で重要なことが、実際にありそうな会話をタネにしてコンパクトにまとめられていて、学びのとっかかりとしては大変いい本だと思ったし、一つ一つの理屈はまっとうなものだとも思いましたが、あまり気持ちのいい読後感ではありませんでした。その理由について、本の感想にかこつけて書いておこうと思います。

 本のなかに、次のような記述がありました。

A「あいつはオタクで正直気持ち悪い」
B「そういう考えは良くないのでは?」
A「でも心の中で思っているだけならいいでしょ」

という会話をタネに、本音と建前について述べている箇所です。

感情的でもあり、未熟でもあり、欲求に突き動かされもする私たち個人の本音などより、互いの権利を侵害せず節度を守ってやりとりするために人々がつくり上げた建前のほうがよほど大事なのです。

(中略)

...本音を自ら疑ったり、正したりする以外に取る道はありません。「心の中で思っているだけ」を厳格に守って人を傷つけないのももちろん大事ですが、「心の中でしか思っていてはいけない」ことをそもそも思わずにすむように自分をつくり変えていくことも大事だと、私は思います。(p.158)

  建前のほうがよほど大事、には同意できますが、「不適切なことをそもそも思わずにすむように自分をつくり変える」という点にひっかかりを覚えました。紹介されている会話では、「心の中で思ってるだけならいいでしょ」と言いながらその前に「オタクは気持ち悪い」と口に出しちゃってるので全然ダメなのですが、それを指摘するのみならず、内心の変更にまで言及しちゃうのはちょっと行きすぎだと思います。もちろん内心の変更ができる人なら黙ってやればいいだけですが、そんなことができる人が多いとは思えません。内心の変更に言及することによって、自分の考えは悪いことだがどうしても変えられない、と悩んでしまうことがあるかもしれません(自分なんかはそういうタイプです)。

 これは一つの例にすぎませんが、全体として一言多かったり、相手の発言の無神経さや悪意を過剰に読み取っている感じがしました(架空の事例だから、普通より悪しざまに書いているのかもしれません)。こういった書き方の文章や意見を読むにつけ「なるべく発言しないほうが得策だ」という気持ちが強まります。この本が伝えたいメッセージは、「コミュニケーションは相手を尊重して熟慮したうえで行いましょう」ということなのでしょうが、対偶をとると「相手を尊重して熟慮しないならコミュニケーションをとってはいけません」となります。それは理想ですが、これを最優先の原理にしてしまうと、「熟慮できない人の孤立・疎外」に簡単につながってしまいます。無思慮によって不当に傷つけられる人がいてよいはずがないのは当然ですが、コミュニケーションに求められる能力やコストが高すぎるために孤立してしまう人が多いのではないかと思います。
 現に、この本を読んでいると「無神経な大人」「無神経な教師」「無神経な同級生」がたくさん出てきます。粗野で無知な存在としてだけ描かれる存在に、理にかなっているけれどもすこし一言多い批判を与えていくかたちになっていて、どうもすっきりしない読後感だったのです。

 実はこの本を読んだのは、以下の記事で紹介されていたことがきっかけです。

gendai.ismedia.jp

 この記事で紹介されている事例は非の打ちどころのない「悪い例」です。知事や議員という立場でしていい行動や発言ではなく、このレベルの発言や行動をしてはいけない、というのには全く反対でないのですが、しかし読後に残ったのは「窮屈な世の中だ…」という感想でした。記事のメッセージを乱暴にまとめると、「適切な発言ができないものは発言するべきでない」ということになりますが、そうなると、草原で笛を吹いて暮らしたい...という気持ちが強まっていくわけです。

 

 僕自身は、言葉はかなりローカルなものだという考えをもっています。日本語は日本全国で使われていますが、各地方の方言よりもっとせまい範囲で、「夫婦」、「家族」、「チーム」、「クラス」「職場」…くらいの小さな集団でそれぞれでしか通じない...もしくは解釈の異なる言葉があると思うのです。だからたとえば、同じ発言でも家庭と職場とではちょっと違った受け取り方をする/されることがあります。ときには文言通りの意味を考えずに「シチュエーションに合わせて」発言する、ということもあるでしょう。たとえば、髪を切った人に「失恋でもしたの?」と言うとか。これ自体には批判も多そうですが、「髪切ったんだね」のバリエーションで言っているだけであって、なんでその発言をするかと言えば、長い時間を過ごすコミュニティ(つまり細かい説明なしに意思疎通できる人がいるところ)でそういう言葉のやりとりが多い(し、コミュニティ内では失恋したかどうかを聞くことが問題視されたことがない)というだけなのではないだろうか、と感じます。
 たとえば差別語は、その由来を特に調べなければそれが差別的かそうでないかはわかりません。たとえば「びっこ」「ぎっちょ」「つんぼ」なんかも、初めて聞いたときにそういった特徴を揶揄する文脈でないかぎり、ニュートラルな語彙として記憶されて、誰かに指摘されるまで気づくことはできないでしょう。
 だからといって気にせず人を傷つける言葉をかけていいということにはなりませんし悪気がなければなんでもいいというわけでもないですが、「こういう発言をする奴は無思慮な奴だ!」というレッテルのもとに議論を展開していくのはあまり好きじゃなかったということです。耳目を引くかもしれないしわかりやすいけれど、もう少し穏当な形がよかったな、と思いました。そうすると本は売れないかもしれないですが。

 

 おわりです。

読書記録:『70歳からの世界征服』

 この本を読みました。

70歳からの世界征服

70歳からの世界征服

 

 

 老人は基本的に何の役にも立たないし、基本的には迷惑なので財産の処理だけして早く死んでしまったほうがいいということが書いてありました。タイトルが「70歳からの世界征服」なのに、それはムリだからため込んだお金を使って若い人に代わりに世界征服をさせなさいと書いてあったりします。ただ、老人はとりあえず死ね、と言った乱暴な論ではないことは読めばわかると思います。
 いくつかおもしろいことが書いてあったのでメモしておきます。

 

 いまは大学に金がないので、「生涯学習」という名目で定年退職した人を受け入れて授業したりしていますが、本当にナンセンスです。はっきり言って迷惑。教える側にしても、若いからこそ「今はバカだけど伸びるかもしれない」」と思えるから教えようという気になる。でも、老人なんて衰えていく一方だし、死ぬだけです。(p.19、1章―死に方入門 中田考

 今の日本にはあまり居候というのはいませんが、エジプトだと、家の中にわけのわからない人がいるのは当たり前だったりします。親族というわけでもなく、誰もその人が誰だかよく知らないけれど、一緒にご飯食べたりしている。夜も床の上で寝ていたりする。(p.26、同上)

 実際あると嫌だと思いますが、こういうの一回体験してみたい。

 

 「人はいつから老人になるのでしょう」という問いに対して、何歳で老人になる、と決めてふるまうのがいいという文脈で

 私は2児の父ですけど、内心「自分が2児の父って何のこと?」みたいな感覚は、今でもあります。それでも日曜日には「2児の父」になりきって、子どもたちを遊園地に連れていきます。老人も同じだと思います。「自分が老人? まじ?」みたいな感覚があっても、頑張って老人をやる。(p.142、矢内東紀の回答) 

  自分も、全体的にそう思っています。「自分が叔父? まじ?」「自分が社会人? まじ?」「自分が30歳? まじ?」「自分が結婚? まじ?」。かっこ悪いのは老いをはじめとする現実を受け入れないこと、と書いてあって、そうだなぁ、受け入れないとなぁ、しかしなぁ...と思いました。

 

 「下流老人になってしまいました。もう生きる希望がありません」という問いに対して、何も希望がないならYouTubeを始めてみては?という文脈で

 奈良公園の鹿は観光客から鹿せんべいをもらって生きていますよね。それの人間バージョンがYouTubeで可能になります。(p.164、 矢内東紀の回答) 

 

 過激な記述が目を引きますが、言っているのは、執着せずに足るを知れ、というような感じのことで、ちょっと角度をずらした自己啓発本という感じでした。

 

おわりです。