ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:『10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」』

 この本を読みました。

10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」

10代から知っておきたい あなたを閉じこめる「ずるい言葉」

  • 作者:森山至貴
  • 発売日: 2020/08/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 この本は、中高生くらいの子どもがかけられることの多い「ずるい言葉」のなにが問題であり、どう対処すればいいのかを29のシーンに分けて解説したものです。「あなたのためを思って言っているんだよ」など、人から言われると納得がいかないけれども反論もしにくいような物言いを取り上げています。
 差別や不当な扱いにひそむ構造に関する基本的で重要なことが、実際にありそうな会話をタネにしてコンパクトにまとめられていて、学びのとっかかりとしては大変いい本だと思ったし、一つ一つの理屈はまっとうなものだとも思いましたが、あまり気持ちのいい読後感ではありませんでした。その理由について、本の感想にかこつけて書いておこうと思います。

 本のなかに、次のような記述がありました。

A「あいつはオタクで正直気持ち悪い」
B「そういう考えは良くないのでは?」
A「でも心の中で思っているだけならいいでしょ」

という会話をタネに、本音と建前について述べている箇所です。

感情的でもあり、未熟でもあり、欲求に突き動かされもする私たち個人の本音などより、互いの権利を侵害せず節度を守ってやりとりするために人々がつくり上げた建前のほうがよほど大事なのです。

(中略)

...本音を自ら疑ったり、正したりする以外に取る道はありません。「心の中で思っているだけ」を厳格に守って人を傷つけないのももちろん大事ですが、「心の中でしか思っていてはいけない」ことをそもそも思わずにすむように自分をつくり変えていくことも大事だと、私は思います。(p.158)

  建前のほうがよほど大事、には同意できますが、「不適切なことをそもそも思わずにすむように自分をつくり変える」という点にひっかかりを覚えました。紹介されている会話では、「心の中で思ってるだけならいいでしょ」と言いながらその前に「オタクは気持ち悪い」と口に出しちゃってるので全然ダメなのですが、それを指摘するのみならず、内心の変更にまで言及しちゃうのはちょっと行きすぎだと思います。もちろん内心の変更ができる人なら黙ってやればいいだけですが、そんなことができる人が多いとは思えません。内心の変更に言及することによって、自分の考えは悪いことだがどうしても変えられない、と悩んでしまうことがあるかもしれません(自分なんかはそういうタイプです)。

 これは一つの例にすぎませんが、全体として一言多かったり、相手の発言の無神経さや悪意を過剰に読み取っている感じがしました(架空の事例だから、普通より悪しざまに書いているのかもしれません)。こういった書き方の文章や意見を読むにつけ「なるべく発言しないほうが得策だ」という気持ちが強まります。この本が伝えたいメッセージは、「コミュニケーションは相手を尊重して熟慮したうえで行いましょう」ということなのでしょうが、対偶をとると「相手を尊重して熟慮しないならコミュニケーションをとってはいけません」となります。それは理想ですが、これを最優先の原理にしてしまうと、「熟慮できない人の孤立・疎外」に簡単につながってしまいます。無思慮によって不当に傷つけられる人がいてよいはずがないのは当然ですが、コミュニケーションに求められる能力やコストが高すぎるために孤立してしまう人が多いのではないかと思います。
 現に、この本を読んでいると「無神経な大人」「無神経な教師」「無神経な同級生」がたくさん出てきます。粗野で無知な存在としてだけ描かれる存在に、理にかなっているけれどもすこし一言多い批判を与えていくかたちになっていて、どうもすっきりしない読後感だったのです。

 実はこの本を読んだのは、以下の記事で紹介されていたことがきっかけです。

gendai.ismedia.jp

 この記事で紹介されている事例は非の打ちどころのない「悪い例」です。知事や議員という立場でしていい行動や発言ではなく、このレベルの発言や行動をしてはいけない、というのには全く反対でないのですが、しかし読後に残ったのは「窮屈な世の中だ…」という感想でした。記事のメッセージを乱暴にまとめると、「適切な発言ができないものは発言するべきでない」ということになりますが、そうなると、草原で笛を吹いて暮らしたい...という気持ちが強まっていくわけです。

 

 僕自身は、言葉はかなりローカルなものだという考えをもっています。日本語は日本全国で使われていますが、各地方の方言よりもっとせまい範囲で、「夫婦」、「家族」、「チーム」、「クラス」「職場」…くらいの小さな集団でそれぞれでしか通じない...もしくは解釈の異なる言葉があると思うのです。だからたとえば、同じ発言でも家庭と職場とではちょっと違った受け取り方をする/されることがあります。ときには文言通りの意味を考えずに「シチュエーションに合わせて」発言する、ということもあるでしょう。たとえば、髪を切った人に「失恋でもしたの?」と言うとか。これ自体には批判も多そうですが、「髪切ったんだね」のバリエーションで言っているだけであって、なんでその発言をするかと言えば、長い時間を過ごすコミュニティ(つまり細かい説明なしに意思疎通できる人がいるところ)でそういう言葉のやりとりが多い(し、コミュニティ内では失恋したかどうかを聞くことが問題視されたことがない)というだけなのではないだろうか、と感じます。
 たとえば差別語は、その由来を特に調べなければそれが差別的かそうでないかはわかりません。たとえば「びっこ」「ぎっちょ」「つんぼ」なんかも、初めて聞いたときにそういった特徴を揶揄する文脈でないかぎり、ニュートラルな語彙として記憶されて、誰かに指摘されるまで気づくことはできないでしょう。
 だからといって気にせず人を傷つける言葉をかけていいということにはなりませんし悪気がなければなんでもいいというわけでもないですが、「こういう発言をする奴は無思慮な奴だ!」というレッテルのもとに議論を展開していくのはあまり好きじゃなかったということです。耳目を引くかもしれないしわかりやすいけれど、もう少し穏当な形がよかったな、と思いました。そうすると本は売れないかもしれないですが。

 

 おわりです。