ルジャンドルの読書記録

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読書記録:経験しないとわからない『食べることと出すこと』

 この本を読みました。

食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)

食べることと出すこと (シリーズ ケアをひらく)

  • 作者:頭木 弘樹
  • 発売日: 2020/08/03
  • メディア: 単行本
 

  潰瘍性大腸炎という、国に難病指定されている疾病をもつ著者による本です。難病にかかるとはどういうことなのかを、自分の実感を込めて素直につづってあります。「この病気を経験しないとわからないこと」が、懇切丁寧に説明されています。
 実際にどういう症状が出て、日常生活のどういうところに困難があるのか、ということが事細かに記述されるところから始まるのですが、それを下敷きにした心の動きに関する文章が特に印象的でした。とても強く印象に残った箇所を引用して、思ったことを書いておきます。

そういう性格になる

 潰瘍性大腸炎になったばかりのとき、患者会のようなところに相談にいったら、そこの責任者の人から(その人は患者ではなかった)、「潰瘍性大腸炎の人たちは、みんな同じような性格をしている」と言われたことがある。
 それは、くどくどしていて、神経質で、いつまでも悩んで、なかなか決断ができず、というようなことだった。
「そんな性格だから、こんな病気になるんですよ」と言われた。
 たしかに、私が会った何人かの患者さんも、そういう感じだった。
 ただ、私はそのときは、そういう性格ではなかったので、「だったらなぜ自分が?」と首をかしげた。

 ところが、闘病が続くと、私もだんだんそういう性格になっていった。
 少しでも症状を改善したいから、毎日の食事や便や行動を観察し、何を食べたからよくなかったのかとか、何をしたから少しましになったのかとか、そういう法則を見出そうとする。
 ところが、そういう法則がない。あれを食べてよかったと思っても、次はダメだったり、同じことをしても、前回と今回で結果がちがったりする。
「さっぱりわからない」とあきらめるわけにもいかないから、さらに観察は細かくなり、神経はとがり、苦悩は増し、迷いは増え、決断できなくなっていく。
人に病状を説明するときにも、やたら細かくなるし、「そうとも限らないんですが」というような保留もあちこちにつく。

 つまり、そういう性格だから、その病気になったのではなく、その病気だから、そういう性格になったのである。(p.251-252  第9章 ブラックボックスだから(心の問題にされる))

  それでもしかし、次のようなこともある。

 難病は治らない病気なので、そういう次第で、とくに「心から治せ」と言われやすい。
 身体からのアプローチで治らないのは、医学の限界であり、当人の責任ではない、心のからのアプローチで治らない場合は、これは当人の「努力が足りない」「性格に問題がある」ということになってくる。
 身体の病気になって苦しんでいるのに、いつの間にか、自分の性格を責められるという、当人にとっては、とても不思議な状況に追い込まれるのだ(p.245-246 第9章 ブラックボックスだから(心の問題にされる))

面倒を見てもらわなければならない

 それでも病人は、他人に面倒を見てもらわなければならない弱い立場なので、なるべく周囲の意向に添おうとする。
 だから、病院の六人部屋でも、たいていの人は明るい。病室というのは、さぞみんな、どよんと暗いのだろうと思って、病院にお見舞いに来る人は、意外にみんなが明るいので、へえっと思うかもしれない。
 しかし、それは第7章でも書いたように、頑張って明るいのである。廊下などでひとりで外をながめていたり、テレビを見ていてつい素に戻っているときなどの同室の人たちの顔は、どきりとするほど暗いことがある。(p.248) 

緊張している

 敵軍がいつ迫ってくるかわからなくて、ピリピリ神経をはりつめてレーダーを見つめている兵士のようなものだ。
 そんな状態が何年も続くと、「もういやだ。許してほしい」と泣いて頼みたくなる。
 問題は、頼む相手がいないということだ。(p.202 第7章 病気はブラック企業

信仰を失う

…車にひかれたり、車でぶつかったりすると、「自分は事故に遭わない」という、多くの人が持っている素朴な信仰を失ってしまう。
 なんだそんなことかと思うかもしれないが、これは意外と大きい。
 人は、そういう信仰によって日常をスムーズに生きている。でなければ、本当に事故の確率とかを正確に考えていたら、いろんなことがおそろしくなってできなくなる。 鬱病の人のほうが、現実を正確に認識できているという心理研究の結果が公表されていたが、それはそうだろう。普通の人というのは、現実をかなり楽観的に考えているし、またそうでないと、生活に支障をきたして、普通の日常を送れなくなってしまう。
 私はもう、「事故は他人が遭うものであって、自分には起きない」というふうには思えない。だから、つねに緊張している。運転免許も持っていない。人をひくかもしれないからだ。(p.275-276 第10章 めったにないことが起きる/治らないことの意味)

「いえ、治りますよ」

 治らない病気になって驚いたことのひとつは、「治らない病気なんです」と言っても、「いえ、治りますよ」と否定されることだ。
(中略)
「治らない病気とは、大変ですね」というような、ごくあたりまえの反応をする人は、じつはとても少ないのだ。(p.294-295)

悟りの境地に達せない

 たしかに、病気とうまく付き合っている人はいる。
 そういう人の中には、「病気になってよかった」と言う人さえいる。
 「病気と闘っているときはつらかったけど、それを乗り越えて、いまは病気とうまく付き合えるようになった。今では、病気になってよかったと思える。病気のおかげで、いろいろないいことがもあった」と言って、やさしい人たちとの出会いとか、日常のささやかな幸福への気づきとか、いろんなことをあげる。
 それはとても感動的である。
 そういう境地にたどり着けて、この人たちはよかったなあとも思う。
 しかし、私には、そういう悟りは無理だ。
 自分を騙せないという気がしてしまう。
 だって、病気にはならないほうがいから。
 これはもしかすると、私がまだそこまで追い込まれていないということなのかもしれない。悟りの境地まで到達している人たちのほうが、そこに到達するしか生きていようがなかったほど、絶望が深かったということなのかもしれない。(p.207-208 第7章 病気はブラック企業) 

感想

  潰瘍性大腸炎の症状の出方は人によってさまざまで、著者の場合、症状が治まる「寛解」の時期と、症状が出てくる「再燃」の時期があるとのことです。再燃期には、引用箇所にもある「ところが、そういう法則がない。あれを食べてよかったと思っても、次はダメだったり、同じことをしても、前回と今回で結果がちがったりする」ことが常に起こる。大腸に炎症が起きていると、トイレのタイミングを自分で制御できないので、そのことでも緊張感が常にある。家で過ごすならトイレもすぐ行けるし、最悪漏らしてもなんとかなるが、外ではそうはいかない...。

 病気そのものの症状だけでもやりにくいことこの上ないですが、本書を通して印象的なのは著者自身や周囲の人の心の動きでした。細かくつづられる著者自身の素朴な心境には、そりゃあそうだよ、と思えることばかりでした。とくに、すすめられたものを食べられないことで起こるいろんな弊害に関する記述は、重いテーマだと思いました。自分自身アレルギーがあって食べられないものがありますが、そのことである種申し訳なさを感じたり、その食べ物を出してくれる人から張り合いのなさというか、打っても響かない鐘のように思われているかも、と感じるときもあります。
 この本には、全編を通して「きれいごと」があまり書いてないことが良かったです。淡々と事実を書き、その時思ったことを書き、ときおり、状況に合っている文学作品の一節を引用しながら考えを展開する。内容は決して明るいものではありませんが、必要以上に暗いわけでもありません。この文体のテンションは、著者の伝えたいことを表現するのにピッタリだと思いました。
 人は「わからないでいる状態」ってやっぱり不安で、どうにか理由や根拠を見つけて「わかった状態」にしたがるということが、本書を読んでよくわかりました。しかしこれ、自分のことでも他人のことでも、短絡的に結び付けようとするといいことはありません。わからないことでも一旦事実を受け止める、そのうえで飼っておく。飼うための牧場をつくっておく(数学受験術指南に書いてあった)、ということは大切です。

 

 おわりです。