ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:《借り》とうまく付き合う『借りの哲学』

 この本を読みました。

借りの哲学 (atプラス叢書06)

借りの哲学 (atプラス叢書06)

 

  この本は小川さやか『「その日暮らし」の人類学』(光文社新書)で引かれていたものです。贈与・交換・貸し・借り、という概念についておもしろいことが書いてある、と『その日暮らし』の中に書いてあったので読んでみました。

 本書に通底するのは、「人は一人では生きられない」という考えです。赤ん坊として生まれてから、誰の世話にもならず大きくなることはできないので、誰もが誰かに「借り」がある、というわけです。
 これはある種凡庸な出発点ですが、現代資本主義が、そしてそこで生きる人々が「借り」をどのようにとらえているかについての分析がおもしろかったです。

...現代のようにあらゆるものが簡単に貨幣に置き換えられるようになると、《負債》はそれほど強力な意味を持たなくなった。人々は債務を負っても、すぐに市場で「労働」をお金に換えて、《負債》を支払うことができるようになったからである。その結果、《負債》によって永久的に相手の奴隷になることはなくなった。(p.13、はじめに) 

  ↑の引用部分は、「資本主義以前は、一度《負債》を負ったと見なされると自由を奪われ(奴隷になり)誰かがその《負債》を支払ってくれないかぎり自由を取り戻せなかった」ということを踏まえています。この点は、資本主義のいいところだと思います。気が楽ですね。
 そして、資本主義社会に生きる人々がどのように考えるかは、次のように書かれています。

 ...貨幣経済の発展とともに、たいていの《借り》がただちに精算できるようになると、「私には《借り》がない。私は自分だけの力で生きてきた。だから、他人や社会に対して果たす義務はない」とうそぶく人々が出てくるようなった。もちろん、それは幻想なのだが、「お金がすべてだ」という価値観がその幻想を支えるのである。(p.159、《借り》を拒否する人々)

  このことは、モリエールの喜劇『ドン・ジュアン』のあらすじに沿って解説されています。簡単に言うと、この喜劇の主人公ドン・ジュアンは、あらゆる責任から逃げようとしている、ということが説明されます。筆者はドン・ジュアンのような人を「《借り》を拒否する人々」と説明しています。「どうしても負ってしまう《借り》を、もともと存在しないものと考える」ことで、あらゆる責任から逃れようとするのです。
 この『借りの哲学』のなかではこうして現代社会の問題点を描き出すとともに、現代人はどう考えて生きていけばいいのかについても提案しています。要点をまとめると「《借り》ができるのはしょうがないけど、貸し手に返すことばかりではなく、ほかの人に何かを贈与することで《借り》を返すことになるし、そうすることで人間関係は回っていくんですよ。そうやって関係しあいながら暮らしていきましょう」という穏当な感じの内容です。

 ところで以前、反出生主義についての文章を読んだとき、つぎのように感じたことがあります。

ベネターの論を援用するネット上の人たちは、ベネターの理屈を無批判に鵜呑みして得られる結論だけを求める人が多いと僕は感じています。そこには、「そもそも生まれるべきではなかったのだから、自分の生活が理想通りではないのは自分の責任ではないし責任をとる必要もない」という意図を感じとれます。反出生主義では自殺を奨励していないことも、たぶん人気の秘訣です。要するに、自分の人生に責任を負いたくないがための理論的支柱として、反出生主義に寄りかかっているというイメージです。

読書記録:反出生主義特集―哲学的議論の入り口として『現代思想 2019年11月号』 - ルジャンドルの読書記録

  生まれさせることで強制的に《借り》を与えてしまうなんて暴力的だ、というのがよく見る反出生主義者の意見です(強産魔とか言ってます)。一方で本書の主張は「《借り》とうまく付き合っていきましょう」ということです。反出生主義者でも、《借り》とうまく付き合う(ただし生殖はしない)という考えで生きてるほうが建設的だよな、と感じました。反出生主義でも自殺はダメで、生まれてしまったらしょうがないから生きなくてはならないので(反出生主義はとことん厭世主義なんだと言われたらもう言えることはないですが)。

 もう一つ考えたことがあります。この本のように、資本主義を批判する立場の論はよくあって、読んでいると「そうだそうだ!」と納得し、感化されながら読むのですが、実際これってなんの役にも立たないな、と感じます。それは、こういう資本主義批判の本は掃いて捨てるほどありますが、資本主義に代わるシステムはうまく導入されそうにないからというのが一つの理由です。
 自分なんかはこうして資本主義への文句に、そうだねそうだねと同調しながら生きているわけですが、たとえば企業に就職して労働力を提供してみたり、資本の強い店(イオンとか西友とか)での買い物に終始してしまったり、株を買って小金を得てみたり(個人的にはこれは最悪、株式の売買で利益を出すのは搾取のもっとも純粋な形。そもそもそれが資本主義だが)しています。じゃあ自分がなんでそうやって資本主義に乗っかっているかというと、それは楽だからです。しかも実際、どんな純粋なマルクス主義者だったとしても、日本で生きていたら資本主義に乗らずに元気にマルクス主義を唱えることなんてできないと思うのです(糧を得られないので。できる人がいるとしてもそれは超人だと思う)。

 

 こうして見ると、反出生主義も資本主義批判も、多くの場合、ローカルに愚痴を言うような構図に陥りがちです。実際問題として、システムをまるっととりかえるなんてことはできないし、できることはローカルな愚痴だけになってしまうんだよな、と考えると無力感で嫌になってしまいます。そういう意味では、本書で提示されている「《借り》とうまく付き合っていきましょう」という提案に乗って、自分の考え方や行動をコントロールしていくのがいくぶんマシなことだろう、と思いました。しかし、そんな余裕をもって暮らせる状況とそうでない状況とがあって、それも解決不能だ…、とぐるぐるしてしまいます。

 このあいだ、このツイートを見て大いに納得したのですが、それってつまり資本主義のルールでお金いっぱい稼ぐのが正しいということになってしまうのだろうか。ううん。

 

以下、いくつか備忘のために引用メモをしておきます。

 ...家父長制の廃止によって、こういった伝統的な家族関係は揺らいでいるが、それでも、こうした誰かに《借り》をつくる関係はそのまま残っている。だいたい、生まれたばかりの赤ん坊はひとりでは成長できず、誰かに頼らなければ生きていけない。家族の関係は構成員が対等ではないのが原則で、そこから必然的に《借り》が生まれるようになっているのだ。

 だが、これは決して悪いことではない。人は自分一人では生きていけないので、誰かに《借り》をつくる必要が出てくる。《借り》は確かに相手の支配を受けるという悪い状態も生みだすが、よい家族関係のように、安心して《借り》をつくれる状況さえできていれば、「他者を信頼する意識」や、「お互いに支えあっていこうという意識」が形成されるからである。

 そんなふうに考えれば、《借り》には「過度の負い目を感じて、それによって相手に支配される」という否定的な側面だけではなく、「相手に感謝の気持ちを感じ、そのお返しに自分ができることをして支えあっていく」という肯定的な側面があることがわかるだろう。(p.19-20、はじめに)

 たとえば、ポトラッチ〔注:ポリネシアでの交易のしかた〕では、人々は《贈与交換》を通じて、「自分が相手よりどれだけ多く贈り物をした」か、名誉と威信を競いあった。したがって、そこでやりとりされる《贈与》が等価であるはずがないし、あってはいけない。また、クラ〔注:メラネシアでの交易のしかた〕では交易の目的は物と物との実利的な交換ではなく、「取引き」という行為そのもの、すなわち「お互いの交流」に置かれた。その結果、一回一回の交易で等価な物が交換されてはいけなかった。等価な物が交換されたら、それで《貸し借り》がなくなり、交流そのものが精算されかねないからである。(p.50-51、第1章 交換、贈与、借り) 

 しかし、共同体のなかで、私たちはいついかなるときでも、自由で平等でなければならないのだろうか? つまり、自分以外のすべての人に対して、完璧に《貸し借り》のない関係でいなければならないのだろうか? あるいは、《貸し借り》のない関係でいることができるのだろうか? 人が自由で独立した存在になる――つまり自立するとは、《貸し借り》のない関係をつくるということだろうか?

 そうではあるまい。人が自立するためには、まず誰かから何かを与えられる必要がある。そして、しかるのちに、誰かに与えるという経験をしたとき、人は真に自立した存在になるのである。あるいは、この「与える」、「与えられる」ということが同時並行的に起こっていってもよい。現実を考えれば、むしろそのほうが自然だろう。(p.72-73、 第1章 交換、贈与、借り)

...「正義」は《罪》と《償い》との等価交換を目指すが、そんなものは「法の取り決め」のなかにしか存在しない。また「良心」がどこまでも厳しく、等価交換的に《贖罪》を要求すれば、《無限の罪悪感》が生まれるだけだろう。

 したがって、ここで言う《借り》は、そういったものとはちがう。それは等価交換を目指さない。《罪》と《償い》の交換は目指すが、交換を超える部分については《借り》として認めるのである。(p.142、第2章 《借り》から始まる人生) 

 結果として、同じように貧者に金貨を与えるとしても、このふたつはおおいにちがう。外から強制されて《借り》を返すのは自立が脅かされたような気がして惨めだが、自分から与えてやったのなら、自尊心が保てるからである。(p.164、第3章 《借り》を拒否する人々) 

  おわりです。

読書記録:雰囲気づくりが大事です『みんなの「わがまま」入門』

 この本を読みました。

みんなの「わがまま」入門

みんなの「わがまま」入門

  • 作者:富永京子
  • 発売日: 2019/04/30
  • メディア: 単行本
 

  本書の最後のほうに、こんなことが書いてありました。

「ふつう」のなかに隠れて見えない、ほんとうに多様な人たちがいる。その人たちと「同じ職業」とか「同じ性別」とか、そういう「同じ」ではつながれないから、経験の語りをもってつながろうとするのが「わがまま」だとするなら、多様な人たちの多様性をそのままに、立場は全然ちがうけれど、でも尊重しようとするのが「おせっかい」なのではないかと考えています。そして、「わがまま」と「おせっかい」、どちらもこの世界のカラフルさを保ったまま、その色彩を鮮やかにする試みです。(p.262、5時間目 「わがまま」を「おせっかい」につなげよう) 

  この文句に、素直に感動してしまいました。

 本書は、社会学を専門とする著者が、中高生向けの講演をもとにして書かれた本です。「社会運動とはなんなのか」ということを説くためのキーワードに「わがまま」を据えて、いろいろと身近な事例をとりあげながら論を展開していく本です。中高生向けにわかりやすく書いてあるので読みやすく、それでいて大切なことが書かれています。本書の問題意識は次のように説明されています。

 「わがまま」を言うことはじつはとても大切です。みなさんの「わがまま」、あるいは他人の「わがまま」が、その人ひとりだけではなくて、だれか別の人たちのがまんしていることとか、悩んでいることとか、モヤモヤを解決してくれる可能性があるんだ、というのがこの本の一貫した主張です。(p.30、1時間目 私たちが「わがまま」を言えない理由)

  新しい本だし中高生向けなので、最近の話題や人気のある有名人の名前がでてきたりして、具体的に物事をイメージしながら読めるようにできています。そして、この「わがまま」(=社会運動)の意義や効果、「わがまま」を表明するにあたってのハードルやらなにやらを「わがままなんて言えないよ...」という、日本の大多数の人の立場から説明してくれています。全体として「わがまま」は言ったほうがいいよ(それが受け入れられるかわからないけど)、「わがまま」なことを思ったり言ったりするのがいろいろなことが始まるきっかけになるんだよ(それが受け入れられるとは限らないけど)、ということを言っています。

 ところで、次の箇所は自分が長く持っている問題意識に触れていました。

...私たちはだいたい偏っているから、何もしないのが「中立」ではないということです。(p.160、3時間目 「わがまま」準備運動)

 どっちにも与しない、自分は中立だ、というポーズをとることについて、僕はあまりいいと思っていません。その理由はつまらないからです(僕の評価軸はおもしろい→良い、つまらない→悪です)。返答が予想できる人としゃべってもおもしろくないのであまり意味がないと思っているのですが、中立を標榜する人はとくに答えが予想できてしまいます。話していてもそのとき話題にしている誰かの偏った主張をマイルドにする方向の発言が出てくる確率や一般論が出てくる確率が高すぎます。でも、筆者の言うように私たちはだいたい偏っています。だから、その中立を標榜する人もどこかで偏っているはずで、その人が偏っている部分の話を聞けるとそれはおもしろいのです。ツイッターは、ある程度無防備な偏った意見を見られるから僕は大好きです。

 本書では、「わがまま」を主張することは悪いことではない、と主張するとともに、どうして「わがまま」は言いにくいのかという解説もしています。それを読んで思うに、言いやすい「雰囲気づくり」を頑張れば、僕が「中立を標榜していてつまらない」と感じる人からもおもしろい話を引き出せる確率が上がるのではないか、というふうに思えてきました。実際、話しにくい人としゃべる時は一般論に終始させて早く会話を終わらせたいですもんね。つまり、おもしろい話をしてくれないなこの人は、と僕が思ってる人は、単純に僕に警戒しているだけかもしれない、という話でした。話したいな!と思ってもらえる人になるには、どうすればいいんだろうか。どうせおもしろい話を聞くなら、実際に相対している人から聞きたいんだよな。しかし自らを振り返ると、自分自身も結構警戒しながら人に接してあまりおもしろくないことを言っている感じがするので、まずはそこから直さなくてはならない…。よくよく考えればそんなに警戒する必要もないのに!

 

 以下、備忘のメモとして3か所引用して終わりにします。

...過激な主張をしている人に対して「あいつらはうるさい、ネガティブなことしか言わないし批判するだけで対案も出さないし」と言ってしまうと、「わがまま」のハードルそのものが上がっていく。こうした声が増えると、モヤモヤしていることがあって、それを生み出している人や物を批判したいけどできないなあ……と思っている人(私たち自身も含みます)が意見を言いにくい環境を、知らず知らずのうちにつくってしまう。(p.133、3時間目 「わがまま」準備運動) 

...どんな高校や大学に行くか、どのような仕事に就くかで、社会に対する関わり方は数年で変わってしまいます。だから、「その場その時」の正しさで全然構わない、とりあえず自分と周りにとっていいものを考えてみる。それくらいのイメージで、どんどん本や周りの人、情報を提供してくれる場から知識を得ていきましょう。(p.165、3時間目 「わがまま」準備運動) 

...「今のお前に関係ねえじゃん」と言われたら、「いや、自分のことじゃないからできるんだ」と堂々と言えばいいのです。たとえば、福島や広島に住んでいないとか、この問題の被害者じゃないとか、あるいは被害者であったのがはるか昔であったとか、どんなよそ者であっても「わがまま」を言っていい。そのような「おせっかい」が、その被害者のために、かつての自分のために、未来、もしかしたら自分が被害者になるときのためになるかもしれない。(p.248、5時間目 「わがまま」を「おせっかい」につなげよう) 

 おわりです。

読書記録:文章を書くことについて『伝わる文章の書き方教室』

 この本を読みました。

  これは、以前の記事(13歳からの論理ノート)でも言及しましたが、僕が信頼する倫理学長門さんの(大学生に)オススメしていた本の一つです。

  オススメされていたのは以下の三つです(元ツイートは消えてるかも)。

 この3冊は文章で言いたいことを言うのに必要な情報がまとめられた素敵なセットでした。誰かに文章の書き方を相談されたら(ないでしょうが)、僕もこれをオススメします。

 さて、この本の「おわりに」には次のように書いてあります。

「書き換えトレーニング」とは、漢字2字で言い換えれば「推敲」のことです。本書は、文章の推敲を勧め、その方法を伝授するものでした。(p.190、おわりに) 

 本書は、推敲の際に気をつけるべき10個のポイントがまとめられている本なのでした。僕自身が書くまとまった文章はこのブログくらいなものですが、仕事では人の文章をわかりやすいものにするために文章を読むことが多いです。なので、執筆者からもらった文章にどういう指摘をするべきかとか、そもそも指摘が必要か不要かの判断基準にできて役に立つなぁ、と思って読みました。

 

 ところで、世のあらゆる文章を読むときにいつも思うのは、「言いたいこと」があることがなにより大切だ…ということです。どんなに文章の書き方を学んで形式がきちんとした文章を書いていても、「言いたいこと」がない文章はまったくおもしろくありませんし、読後感は「何を言いたいかわからなかった…」となりがちです(何も言っていないので当然なのですが、読み手としては「筆者は何か言いたいことがある」というつもりで読むので、読み落としているのかも、とか高度すぎてわからないのかも、と思わせてしまい無駄に時間を使わせてしまう。悪魔の証明)。恐るべきことに、ネットや印刷物で商業的に発表されている文章であっても、紙面を埋めるためだけに書いたと思われる「言いたいことのない文章」がよくあって、時間を無駄に奪われます。一方、言いたいことのある文は多かれ少なかれ読ませる力をもっていて、おもしろい文章になりえます(おもしろくないときもあります)。

    そういうわけで、この本を読んだだけではいい文章を書けるようにはならないだろう…と思いました。「言いたいこと」の見つけ方は書いてないからです。たとえば小中学生の読書感想文なんかは、言いたいこともないのに書かされるのでひどいものにならないはずがないのです。でも小中学生だって、言いたいことがはっきりしている子はおもしろい作文を作っています(新聞にたまに載ってる作文コンクールの文なんかはおもしろいときがあります)。

 

 とはいえ、筆者は本書で次のように述べていました。

 ...私を含め、教師が望む文章とは、むしろ、筆者も、読者も誰もが「当然だ」と認められることだけを書いた文章です。
「当然のこと」と言っても、「雨の降る日は天気が悪い」などという、読者がすでに知っていることを書くのではありません。ひとつ、分かりやすい例を挙げましょう。
 いつの頃からか、銀行の現金自動支払機(ATM)の前などで、「フォーク並び」が採用されはじめました。複数の支払い機の前に並ぶのでなく、一列に並んで、先頭の人から順に空いた支払い機に進む方法です。誰かが、「この並び方のほうが早い」と指摘したのです。
 今でこそ、フォーク並びは誰もが当然だと思っていますが、その指摘は画期的でした。
 論理的な文章で扱ってほしいのは、こういう「当然のこと」です。(p.146-147)

  これが一番重要であり、しかしとても難しいことです。ちなみにここでいう「当然のこと」とは、僕がここまで書いてきた「言いたいこと」のうちの「おもしろいこと」であると僕は考えています。でも本書にはこの「おもしろいこと」の思いつき方は書いていません。本書は書きたいことがあったとき、どうやって読み書きしたらよいかを説いているだけです。
 「言いたいっぽいこと」を書くことは簡単でも、本書にあるような「当然のこと(=おもしろいこと)」を書くことは至難です。(商業的な製品であろうと学校のレポートだろうと、あらかじめ決めたスケジュール通りに更新しようとしたブログだろうと)多くの文章は〆切に追われて提出することになる文章です。そうした文章は往々にして「言いたいっぽいこと」が書かれた文章になってしまうものです(そうなっていない人はライターや評論家として存在感をもっていることでしょう)。でも、そういった文章でも、本書で指南されているような方法に則って推敲されて提出されていれば、まぁOKだと個人的には思います。形式がしっかりしていれば言っていることがひとまず労力少なく読み取れて、内容の良し悪しの判断が比較的すぐできるからです。

    一方で、「いかめしい言葉でつまらないことを言っている文章」と「長々とつまらないことを言っている文章」は読み終わったあと腹が立ちます。この2種類の何が問題かというと、時間が無駄になることです。まず「いかめしい言葉でつまらないことを言っている文章」には、難解な文を脳内で変換する作業が少なからず必要です(頭のいい人には不要な作業なのかもしれませんが)。そもそも初めから読みやすく書いてほしいですが、そこは我慢するとして、言っている内容がつまらなかったら脳内変換はただの徒労です。おもしろい内容だったら脳内変換の作業もいくらかの充実感が伴って気持ちいいのでいいです。困るのは、いかめしくしておけば高尚になると思っているとしか思えないような文章がたまにあることです。頑張って読んだのに内容がどうしようもなかったときの悲しい気持ちといったら。
 「長々と述べる」のほうはサイアクで、字数を水増ししたり本のページ数を整えるためだけの文字の羅列である(ように見える)ことが多く、そういう文は言いたいことがなかったりします。蛇足も蛇足で蛇が100本足になって胴体はどこかへ飛んでいき、100本の足だけが高速道路を走っているようにさえ感じられてきます(それはおもしろいか)。たとえば、コロナウイルスの感染者がどんどん増えていって国中不安だったときに長々とした文章がいっぱい出ていましたが、まとめると「不安だよね、それに政府ってバカだよね。手を洗おう」くらいのことしか言ってないものが多かった印象です(僕の読解力が低かっただけかもしれませんが)。

 しかしこの2点の特徴をもった文章は生まれ続けるだろうという確信があります。それはなぜなら、いかめしくまたは長々と(もしくはその両方の特徴を備えて)書いてあっておもしろい本(=本書の言う「当然のこと」が書いてある本)はすばらしいからです。おもしろい文章には、長い時間をかけて読む価値があり、さらにそれがいかめしく長々としていると逆にそれがその本の価値を高めたりするし、需要もあるからです。そういうわけで、いかめしく長々としたおもしろい文章を目指して書かれたものの、いかめしく長々としたつまらない文章になってしまった文章が次々と生まれてしまうわけです。
 でもそもそも、おもしろいことが次々と湧いてくる人なんてそういません。『〆切本』(左右社)なんかを読むとわかりますが、大作家でさえ〆切に間に合わせられずに汲々として、すったもんだの末に原稿を提出するわけです。大作家が書いた原稿であればある程度読めるものになるでしょうが、凡百の物書きが〆切に追われて出す文章がおもしろいはずがないのです(もし〆切に追われてやっと出した文章がおもしろかったら、その人は凡百じゃないです)。というわけで、結局何が言いたいかというと、この本で解説している文章作法は役に立つ、ということです。本書の指南に従って書かれた文章なら、書く内容がおもしろくなくても、読んでくれる人の時間を無駄にする量が減らせるからです。当然ながら、書く内容がおもしろかったら簡潔で素敵な文章になります(いかめしく長々としたおもしろい文章を書くには別の訓練が必要ですが)。

 この文章がブーメランとなって自分に複数本突き刺さることは覚悟しつつ、感想を記しました。おわりです。

    (ちなみに、この文章では、本書が有用だということにくわえて、おもしろい文章を読みたくておもしろくない文章は読みたくないということが僕の「言いたいこと」です。伝わったでしょうか)

読書記録:通俗道徳のわな『生きづらい明治社会』

 この本を読みました。

  先日読売新聞で、この本の著者の記事が載っていておもしろかったので買ってみました。
[あすへの考]<生きづらさの正体>社会の変化 現れる抑圧…慶応義塾大学教授 松沢裕作氏 43 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン
(読売オンラインの購読者じゃないと見られません)

  明治時代はどんな社会で、そこにはどんな生きづらさがあったのかが描かれています。2018年に出た本で、そのころ起こっていた出来事と明治時代の出来事を比較しながら論を展開していました。安保法制の反対デモ(SEALDs)とかリーマンショックとか、生活保護叩きみたいな、記憶に新しい問題を口火にして各章の話が進んでいくので読みやすくておもしろかったです。
 生きづらさがテーマの本なので、読んで明るい気持ちになるようなことはありません。いくつか印象に残ったことを、備忘のためにメモしておきます。

生活保護叩きについて

 実際には、生活保護を受ける資格がある世帯の約八〇パーセントは生活保護を利用していません。一方、不正に利用された生活保護の額は、生活保護としてつかわれた金額の一パーセントにも満たない金額です。日本の生活保護制度の問題は、生活保護の網からこぼれてしまっている人の多さにあるのに、ごく一部の「ずるをして生活保護をもらっている人」のことばかりが注目されてしまっているのです。「助けが必要な困っている人がいること」より「自分は苦労しているのにラクをしている人がいること」のほうが、気になって仕方がない。私たちが生きているのはそのような社会であるといえそうです。(p. 47、第3章 貧困者への冷たい視線)

 ↓通俗道徳について

人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のことを、 日本の歴史学会では「通俗道徳」と呼んでいます。この「通俗道徳」が、近代日本の人びとにとって重大な意味をもっていた、という指摘をおこなったのは、二〇一六年に亡くなった安丸良夫さんという歴史学者です。…(中略)…人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされます。ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人はがんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだ、当人が悪い、となるわけです。(p.72-73、第4章 小さな政府と努力する人びと)

アウトローの陥るわなについて

 若い男性労働者の「あえて」通俗道徳を無視する、というカルチャーは、確かに「通俗道徳のわな」に対する一つの抵抗のしかたです。しかし、それだけでは「通俗道徳のわな」から逃れることはできません。
 第一に、それは、単純に通俗道徳をひっくり返して反対のことをやっているだけだからです。「良い」とされていることをやらない、「不良」のカルチャーといってもよいと思います。世の中で良いとされていること「あえて」やらないという態度は、世の中で良いとされていることが何であるか、身に染みて分かったうえでの態度です。「世間の人はこういうのを悪いことだと思うだろうな」と、メインストリームのカルチャーを横目でみながら、浪費したり暴力をふるったりしているわけです。当然、そこには、劣等感がともないます。「本当は良いことを自分はやっていない」という劣等感です。「不良」のカルチャーは、「通俗道徳のわな」から自由ではないのです。
 第二に、彼らが通俗道徳にしたがおうとしたがうまいと、社会全体が「通俗道徳のわな」に人々をはめ込むような仕組みになっている以上、事態はなにもかわらない、ということです。どうせ貯金できない状況に置かれた人が、いかに強がって「貯金なんてかっこ悪いぜ!」といってみたところで、世の中はなにもかわりません。むしろ、通俗道徳にもとづいて行動している人たちは、そのような暴れる若者たちを見て「ああ、あいつらはああやってまともな生活をしないからいつまでも貧困から抜け出せないんだな」と思うでしょう。それは「わな」に逆らっているように見えて、実は、「わな」を強化しているようなものです。

 残酷な事実です。暴動への参加者が若い男性に限られるのは、都市の下層民たちは年齢を重ねるにつれ、こうした残酷な事実を理解するようになるからです。自分たちがより豊かになる可能性が低いことを、彼らは経験を通じて知り、「自分の店をもち、一家のあるじになる」などという将来を夢見ることをやめます。もはやあえて暴動に参加して不満を爆発させることもなく、彼らはその日その日を生きてゆくことになるのです。(p.139-140、第7章 暴れる若い男性たち)

↓この世の絶望について

 ただ、明治時代の社会と現在を比較して、はっきりしていることは、不安がうずまく社会、とくに資本主義経済の仕組みのもとで不安が増してゆく社会のなかでは、人びとは、一人ひとりが必死でがんばるしかない状況に追い込まれてゆくだろうということです。そして、「がんばれば成功する」という通俗道徳のわなに、簡単にはまってしまうということです。それを信じる以外に、未来に希望がもてなくなってしまうからです。(p.150、おわりに)

 

 これは岩波ジュニア文庫の本ということで、子ども向けにわかりやすく書かれています。僕の子ども時代は、それなりにつらいことはあれどかなり安穏としていたので、高校大学とわりと素直に頑張ってこれたと思います。だから高校大学時代は自己責任論みたいな、いま振り返ると恥ずかしい行動指針に浸っていることができました。でも、子ども時代にこんなものを読んでいたらどうなっていただろうか。自分のこととしてとらえられずよくわからずに終わる可能性が高かったですが、もしもしっかりと意味を読み取っていたら、いまにつながるような感じでがんばってこれただろうか、と思います。ストレートに「がんばっても無駄だ」と思ってしまったり、「自分ががんばってうまくいっても、がんばってもうまくいかない人もいて、そもそもがんばれる環境にもない人もいて、なんて悲しい世の中だ」と思ってしまったりと、変にシニカルさを身につけて、一生ショボい冷笑の世界に引きこもることになっていたかもしれません。かえって、こんな世の中は変えなくては!と奮起していた可能性もありますが。
 とはいえ、自己責任をつきつめるネオリベ的世界観は、ある程度恵まれている人にとっては社会的成功につながりやすい考えです。自己責任だからがんばるしかない、がんばれば成功できるんだ、というふうに、がんばることのモチベーションが自動的に供給されるからです。そのことを考察している次のブログは面白いです。

davitrice.hatenadiary.jp

  僕が最近抱いている恐れは、①「突然なんにもやりたくなくなってしまったらどうしよう」ということと、②「今の社会構造がどうしても我慢できなくなったらどうしよう」という2点です。本書で描かれていた「通俗道徳」は現代にもあって、恐れ①のような状態が現実になったら、僕のような雑魚は簡単に通俗道徳にすりつぶされてしまいます。恐れ①はいつ襲ってくるかわからず、しかも自分の意志の持ちようではあまり制御できない気がしていて、本当に恐ろしいです。
 一方恐れ②も怖いです。差別やらなにやらが横行している世の中に生きていたら、それはそれは嫌になります。で、嫌さが積み重なって許容範囲を超えてしまっても、社会は絶対に個人では変えられないのです。そうなると退場(=自殺)するか生き残るかのどちらかということになりますがどちらを選んでも悲しい結末です。運よく社会構造に愛想をつかさずにいられればいいですが、これも自分の意志の持ちようでは制御できない気がしています。
 しかし、この本だったり現在生きている人の語りだったりから「生きづらさ」の話を聞くといつも「生きづらくない時代はあったのか?」と思います。ある環境があったら、それは誰かにとっては生き残れないつらい環境で、他の誰かにとっては生きやすい環境です。じゃあ環境なんてなかったらいい、とか考え出すと、世界を滅ぼしたい魔王のようになってしまいます。
 あまりかっこよくないですが、何も知らなければよかったと思うことがあります。でも、知らなければよかったと思うことは往々にして、知らなきゃいけないことだったりするのです。ままならないですね。

 おわりです。

読書記録:「なかったこと」にすればいい『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』

この本を読みました。

ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理

ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理

 

  「ミソジニー」という比較的新しい概念があります。日本語では「女性嫌悪」と訳されていて、読んで字のごとく、「女性が嫌いな人の振る舞い」と理解されていると思います。本書でも、そういった理解がされているよね、ということが書かれています。

この概念の一般的で辞書的な定義――本書ではそれを「素朴理解」と呼ぶことにする――によれば、ミソジニーは第一義的に、ある個人(かならずしもそうとはかぎらないが、典型的には男性とされる)のもつ、以下のような属性を指す。当該個人は、各々そしてすべての女性、または、女性一般に対して、彼女たちが女性であるというただそれだけの理由で、嫌悪、敵意、またはそれに類する感情を抱く傾向を有する。(p. 59 、第一章 女たちを脅す。太線部は本来傍点。以下同。)

 しかし著者は、この「素朴な」ミソジニー概念は欠陥だらけであり、ミソジニストの実在を否定してしまうことを指摘します。

...「ミソジニストは女性という女性を嫌悪する」という主張にたいして、かならずしもすべての女性を嫌悪しないようなミソジニストが存在するではないかと反論したとする。すると、「本当のミソジニストにはそんな人物はいない」という再反論が、まずまちがいなく返ってくるというわけである。(p.75、第一章)

 というわけで、ミソジニーの素朴理解にもとづけば「ミソジニーなんて存在しない」ことになってしまうのです。そもそも、素朴理解では、「彼の内心を知ること」がその定義に不可欠なので、「彼」が「そんなこと思っていない」と言った瞬間に、彼はミソジニストではなくなってしまいます。女性を重点的に狙った無差別殺人を起こした人でさえも例外ではありません。そしてこのような素朴理解によって、ミソジニーが「なかったこと」になることが、ミソジニストたちの大きなアドバンテージになっている(だってミソジニストじゃなかったら、誰にも文句を言われる筋合いがないので)。
 本書では、この「なかったこと」にするという特徴を含むさまざまな事例を取り上げながら、ミソジニーとそれに付随する差別的な思想の姿を描き出していきます。本書を読むことで自分のなかでこれまであいまいだった概念や、事例の解釈などがはっきりしました。蒙を啓かれたと感じた部分を中心に、感想を交えながら備忘録としてまとめていきます。
 ちなみに、本書ではミソジニーが中心テーマですが、差別構造一般の理解を深めるのにも大変役に立つ本だと思います。

 長くなったので、目次を付けておきます。

 

この本では何をやっているのか

 この本では「ミソジニーという概念を再構成する」ということをやっています。女性のみならず弱い立場の人は当然のようにさまざまに不当な扱いを受けるわけですが、その一つ一つには名前がありません。そしてそれはなぜかというと、時の支配者(たち)がそれを問題にしない、というか、その支配者にとっては「問題ではないから」です。しかし幸運にも(本当に幸運なのはそんな概念が存在もしない世界ですが)、筆者はいま「ミソジニー」という概念のある世に生きている。しかし、上述のように、いまはまったく役に立てられない概念となっている。そこで、本書を通してミソジニー概念を再構成し、武器をそろえようとしています。

性差別主義とミソジニーは違う

 筆者は、性差別とミソジニ―は違うものと考え、定義します。簡単にまとめると、次のようになります。

  • 性差別主義:男性と女性を区別する考え方
  • ミソジニー:良い女性と悪い女性を区別し、後者を罰する仕組み

 この考えによると、ミソジニー的な女性が存在しうることになり、そして実際にそういう人もいるという話が展開されていきます。

女に貸しがある(不当な権利意識のこと)

 ミソジニストたちはどうして女性にいらだちを抱くのか、筆者はその原因を次のように指摘します。

 男性、ことに特権階級と呼べる層の男性の中には、女性には貸しがあるという感覚の持ち主がいるようだ。(p.152、第四章 彼の取り分を奪う)

 このような「不当な権利意識」が、本書の議論にきわめて重要になります。たとえば、プログラミングでコードを書いたけどコンパイルエラー、テストで自信満々に回答したけどバツだった、バスが8:05に到着すると思ってたのに8:10になっても来ない…。これと同じく「女が思い通りにならない」。まさにこれがミソジニストの苛立ちの源泉だ、と筆者は指摘しています。「女は生まれながらにして持っている義務を果たし、俺の思った通りに動くべきだ」という権利意識が、ミソジニーを駆動させているというのです。この指摘には現実的な納得感があり、そして多くのミソジニー的現象を確かに説明できる、と感じました。
 さきほど書いたミソジニー的な女性も存在しうる、ということも、この「不当な権利意識」からよく理解できます。「男は女に貸しがある」=「男は女から受け取る権利がある」ということですが、その意識のもとでは女は生まれながらに男になにかしら(家事労働とか細やかな気配りとか)を与えなくてはなりません。そういうことになっている世界で、一部の「女」が与えることを放棄したらどうなるのか。「受け取る権利を持つ男」は怒り出す(受け取れない+やるべきことをやっていないから)、「与える義務を果たしている女」も怒り出す(自分の仕事が増える+やるべきことをやっていないから)。そもそも与える/受け取るの関係は固定されているべきではないのに。
 「男は女に貸しがある」なんて変だしそんなことが認められて社会が出来上がっているのはおかしなことだ、と思います。が、少し考えると、あまり破綻なくメカニズムを想像できるのです。
 たとえば「特権階級の男」が「不当な権利意識」をもっているとします。ある種の女の人にとっては、その男の庇護を受けることはメリットです(特権階級で金持ちだし権力もあるので)。だからその女性は進んで「与える役割」を買って出ます。そして、その男がミソジニストだったとしても、その女性が十分に献身すれば、暴力的な側面は表面化せずに「夫婦」として存続します。そんな二人が夫婦なら、子どもができればその子は受け取る父、献身する母を見て育ちます。そんな家庭が一定数あれば「ミソジニー」の思想は受け継がれていきます…(だってそれが「普通(=数が多い)」だから)。

 こんなメカニズムを考えてみたら、いま日本で自民党が(意図しているしていないとにかかわらず)家族の単位を強調したメッセージを出していることやその帰結が恐ろしく感じます。パターナリズムの被害を目に見える形で受けている人やそれに近しい人の激しい拒否反応もしかたがないと思えます。

  ここまでからわかるように、現代社会はミソジニーが発生しやすい仕組みになっています。とはいえ筆者は、だから現代を生きる男性はすべてミソジニストだと言っているわけではないことには注意が必要です。先に紹介したように、ミソジニーを内心の問題にしてしまえば「彼は本当のミソジニストではない」で終わってしまいます。そこで筆者は「目に見えるふるまいでミソジニー行為かどうかを判断し、必要なら告発するための定義が必要だ」と言っているのです。

ミソジニー行為は「非人間化」していない

 心理学のなかに「非人間化」という概念があります。たとえばいじめとか戦争で、ひどいことを相手に行う際、相手を人ではないものと考えるようになる、という現象です。女性に対してDVで首を絞める、脅迫する、強姦するなどといった行為は、相手をモノと見なしているからこそ行えることだ、というのは納得しやすいかもしれません。
 しかし著者は、ミソジニーやその他の差別行為において、この考え方は当てはまらない、と指摘しています。特に印象的だったのは次の記述です。

 まず指摘できるのは、非人間化する言語(dehumanizing speech)は強力にコード化された社会的意味を自ずと獲得するので、脅迫、侮辱、貶価、卑小化などの機能を果たしうるという点だろう(Manne 2014b)。…(中略)…ファーガソンの白人警察官の一人が、(中略)黒人デモ隊を「犬畜生」と呼ぶとき、警察官はこの比喩を使ってデモ隊の人々を卑しめ、貶めつつ、彼らに対する自らの優越を重ねて主張する。...(中略)...そうしたこき下ろしは、人間以外の本物の動物にたいして向けられるならば、ほとんど要領を得ないだろう。...(中略)...こき下ろしが成立するには、人間的な理解力に加えて、そこから引きずり下ろされることになる人間的地位を、その対象が有していることが必須だからである。本物のドブネズミを「ドブネズミ」と呼ぶことに異論のあろうはずがない。(p.217、第五章 ヘイトを人間化する)

※引用文中の文献情報:Manne, Kate. 2014. "Punishing Humanity."Op-Ed. New York Times. The Stone, October 12. 

https://opinionator.blogs.nytimes.com/2014/10/12/in-ferguson-and-beyond-punishing-humanity/

 このあたりを読みながら、ミソジニストは逆に「自分が非人間化されている」と感じているのではないか、と考えました。その理屈はこうです。

自分がもらえて当然と思っていることを受け取れない→人間として扱われていないと感じる→腹を立てる→ミソジニー的行為に乗り出す

 本書では、全然モテないナードが女子寮に殴り込み、女性を中心とした無差別殺人に及んだ後に自殺するという事件(アイラ・ヴィスタ銃乱射事件)がことあるごとに取りざたされます。この事件の犯人、エリオット・ロジャーは、この事件直前にYoutubeに犯行予告動画をアップしているのですが、そこでは「自分がモテないのは女のせいである」ということが、大仰な修辞を弄してくどくどと説明されているそうです。ここから、「自分は男なので女を従える資格があるにもかかわらず、それが与えられないなんて不当だ」という「不当な権利意識」が透けて見えるわけですが、まさにロジャーは「非人間化されたと思い込んでいる」と解釈できます。

 実際自分を振り返ってみると、イライラしたり他人と衝突するときの原因は、「思い通りにいかないから」という理由に還元できる気がします。ミソジニーに限らず多くの差別の現場にはこの「思い通りにいかないから」を正当化するための言辞のバリエーションが多く存在します。じゃあなんで思い通りにいかないとイライラするかというと、思い通りにいって然るべきという前提(=権利意識)があるからではないでしょうか。そういう意識は多かれ少なかれ誰もが抱きうる感覚ですが、ことミソジニーについては、その前提が社会に埋め込まれていることが問題だ、と著者は指摘しています。
 ただし、僕個人的には「非人間化ではない」という命題に納得するんですが、非人間化の理論の蓄積をよく知らないので、本当に妥当かどうかは正しく判断できてません。

「恥」の観念が駆動するミソジニー

 ミソジニーの駆動力となっているのは「恥」の観念であるという指摘もありました。

...伝統的に男子校だったシタデル軍事学校(サウスカロライナ州)についてのスーザン・ファルーディ(Faludi 2000)の調査によると、一人の女子訓練生の入学にかんして、男子訓練生はきわめて否定的で、じっさい、その決定に激怒した。…(中略)…彼らは彼女を手ひどく扱い、たった一週間で彼女はシタデルを去った。

 男子訓練生にとってとくに重要だったのは、(a)彼女の面前で、上級訓練生に叱責されるかもしれない可能性、(b)女性にコード化された家事を、女性の面前で、彼女の代わりにこなさなくてはならない可能性、そして、(c)泣き崩れたり、男どうし互いに慰めあったりする様や、これは日常的であったようだが、繰り返されるしごきの合間に優しく宥めたりする様を、彼女の面前に晒さなくてはならない可能性である。(p.161、第四章 彼の取り分を奪う)

※引用文中の文献情報:Faludi, Susan. 2000. Stiffed: The Betrayal of Modern Man. London: Vintage.

 ここで引いた出来事とその分析は、まぁあるだろうな、と思いました。

    このあとに「恥の種類」についての言及があったのですが、それが特に興味深かったです。かいつまむと恥には、「隠れたい」という感覚と「世界の目を破壊したい」という感覚の二通りあり、ミソジニーを理解するうえでは後者の感覚が大変重要になってくる、という指摘です。

 第四章の中ほどでは、事業に失敗したりして一家心中をする男性の事例を紹介しています。そこで、一家心中(=自殺にとどまらず、他の家族を殺してしまう行為)に乗り出す心理には「妻や家族の敬愛を失うことへの恐れ」があることを指摘しています。ここで悲しいのは、恥を作り出しているのはミソジニーを支える観念そのものであるということです。どういことかというと、ミソジニーには「受け取る男と差し出す女」という中心的な思想があり、そこには隠れた条件として、男が威張れる根拠(多くは経済力)がやはり必要です。でも、事業の失敗などで自信の根拠を失い、そんな自分が恥ずかしくなる。そうして恥の発生源である妻を手にかけるというわけです。次の記述が印象的です。

父親は十中八九、経済危機からの唯一の逃げ道として自殺の可能性を検討します。家族を殺すことは、破産や主人の自殺という恥辱と苦境から家族を救う方法となるのです。(p.170、Skipp, Catherine. 2010. "Inside the Mind of Family Annihilators." Newsweek, February 10. https://www.newsweek.com/inside-mind-family-annihilators-75225からの引用)

 巻き添えを食う家族からしたらたまったものではないですね。もちろん、妻や子がいて仕事を失ったら、その後の生活は一筋縄ではいかないでしょうが、一家心中に乗り出すというのは、妻子を所有物と思っているような感覚を覚えます。

ヒムパシー(「彼」は同情してもらえる)

 ヒムパシー(Himpathy)とは、著者の造語で、彼へ(him)の同情(pathy)という二部分からなる語です。第六章「男たちを免責する」で紹介されていた、ヒムパシーの事例はひどいものでした(しかし、ありえるだろうな、とも思えます。それが怖い)。アメリカの大学で起きた、男子大学生によるレイプ事件が紹介されていました。将来を嘱望される男子大学生が「何かの間違いで」犯してしまったレイプに対し、「犯人の将来にもたらす影響が憂慮」され、「標準に比してきわめて寛大な判決」が出たという事件です(レイプ事件以上に全体的な出来事が事件だな、と思えます)。

…公判から判決を通して、ブロック・ターナー(引用注:レイプ犯)の水泳選手としての卓抜した能力が報じられた。それでも、父親のダン・ターナーは裁判結果に不満だった。息子に服役はいっさい必要ないと信じていたのである。二〇年間にわたって非の打ちどころのなかった息子が犯した犯罪は「たった二〇分間の行ない」にすぎないと、ダンは記している(WTW Staff 2016)。(p. 261、第六章 男たちを免責する)

 明らかに犯人に同情の余地がない条件にもかかわらず、上記のような状況になる――これが「ヒムパシー」です。著者はこういう状況において、「レイプ犯は通常薄気味悪い男のはずで、ターナーのようなイケてるメンズは生来のレイプ犯ではないはずだ、という考えが起こりがちだ」と指摘しています。そしてもう一つの特徴として、犯人を擁護する人々の語りの中に「被害者が登場しない」ことも指摘されます。
 ここにも「なかったことにする」という構図が見えています。ここで取り上げられている「なかったことにする」手法はかなり巧妙です。被害を訴えて相手に罰が下るまでに、被害者が乗り越えなければならないハードルがいくつもあり、そしてそのどれもが決して低いものではありません。「本当にそんなことがあったんですか?」「本当に合意はなかったんですか?」「本当にされたことを覚えているんですか?」「その証言は本当ですか?」。そしてすこし油断すれば、被害者にも落ち度があったという話に持っていかれます。大変なことです。

 最近告発があったカリスマ編集者箕輪さんの不愉快な事件にも、「ヒムパシー」的な動きは見いだせますね。

「プッシーわしづかみ」発言(トランプ大統領の悪口)

 ここで、おもしろかった著者のユーモアを一つ。トランプ大統領の「(有名人の女性に対して)なんだってやれる。プッシーわしづかみだろうとなんだろうと。やり放題だ」という録音がリークしたという報道がありました。その発言に対する著者のツッコミが面白かったです。

 たしかに、男たちはこうしたかたちで女性に性的暴行を加える。だとしても、彼は自らがこんなことをしている姿を想像するだろうか。「つかみどころ」がなくて、わしづかみするには厄介な場所ではなかろうか。(p. 271、第六章) 

  ほんとですね。

どうすべきか (自分の感想)

 本書執筆のリサーチをしながら、私は徐々に希望を失っていった。人を説いてミソジニーについて真剣に考えてもらうこと――それが道徳的優先事項であるときには相応に扱ってもらうことも含めて――、そんなことができるのだろうか。耳を傾けてくれるような人だったら、とっくにそうしているのではなかろうか。...(中略)...ミソジニー行為に注意を引こうとすることは、ミソジニーという現象それ自体からすれば、不正なことである。女性は自分自身のために道徳的注意や配慮を促すよりも、むしろ他者に助けを差し出すものとされるからである。 (p.365-366、結論 与える彼女)

  正直いうと、本書に書かれている実際にあったいろいろな事例は、目を覆いたくなるくらいひどいものばかりです。そして多くの事例で通底しているのは「なかったことにすればいい」という加害者の態度です。とくに、女性は性的な被害を受けることが多いですが、性行為やそれに類することは通常人の目に触れるような場では行われません。そして社会の構造は「ヒムパシー」に代表されるように、男の言い分が信用されたり同情されやすい…。したがって、被害を告発したとしても「証拠がない」「証言の信頼が得られない」という2点(しかも根拠は女だからということ)によって、事件はなかったことにされてしまう。
 ミソジニーも、「素朴理解」によってミソジニストの存在が「なくなる」。素朴理解によって事件の犯人が「ミソジニストではない」とされても、犯人は相応の罪で罰されるからいいのでは、という考え方もあるでしょうが、しかしそれは誤りだと思います。ミソジニスト的な犯罪である、と認知されることが重要なのです。そうすることで、筆者が本書で紹介したような数々のミソジニー行為に対する注意ができるので。

 

 本書は、テーマこそ女性問題ですが、指摘されている問題点や構造は、女性問題に限りません。人種差別や経済格差差別、その他あらゆる差別に、今回の議論を当てはめて理解することができます。恐ろしく、悔しく、そして問題であるのは、その構造の維持に、自分も多かれ少なかれ加担してしまっているということです。過去を振り返れば、ミソジニー行為と見なせる自分の行動が次々に出てきて、穴があったら入りたいくらいです。そして、こうしてミソジニーについてちょっとばかり知ったからといって、これから完全にミソジニー行為をしないようにできるのかというと、そうはならないでしょう。筆者も指摘していますが、子ども向けの絵本やお話のなかにも、ミソジニーを促進する価値観がふんだんにちりばめられており、ミソジニーが蔓延しやすい環境を逃れて人が育っていくということは現段階ではありえません。
 たとえばいま、アメリカで黒人差別の問題で混乱が起きています。アメリカでの黒人差別の実情を僕は体感できないので想像するしかありませんが、差別する側とされる側が、差別が生じやすい社会の中で暮らすことを余儀なくされているのです。それは本書で語られていた、ミソジニストと女性の関係に重なる部分が多い。
 構造を大きく変えるのは難しいし何世代もの尽力がいるでしょう。しかし、「なかったことにする」のは一番卑怯でダサい、と感じたので、それだけはまずしないように、上がっている声はちゃんと聞く、ということを心がけながら暮らそうと思いました。

ほかの書評など

note.com

 ↑のnote記事で、本書の要約レジュメが公開されています。このnoteは実際にホンを手元に置かないと読みにくいかもしれませんけど、熱心な勉強会の記録なので、役立てられる人はいるんじゃないでしょうか。

gendai.ismedia.jp

 本書で解説されている「ミソジニー概念」のポイントをきれいにま とめている記事で、わかりやすいです。

横路佳幸(南山大学社会倫理研究所)による書評(Journal of Science and Philosophy, 3(1), 2020)

 分析哲学の専門家として本書の長所や短所を、専門的に解説。うまく本書の概念を日本で適用できるかとか批判、改善提案など読みごたえがあります。

備忘のメモ

 最後に、覚えておきたいと思った箇所を引いて終わりにします。

...女性を人間として認知しないことがかならずしもミソジニーを生み出すわけではないし、しばしば両者は無関係であるということである。(p.12、はじめに 道を誤る) 

「沈黙は金なり」。女性を窒息させた上に、彼女がものを言わないように脅し、事件後も変わらず調和が続いているかのように彼女に語らせる男たちにとって、まさに沈黙は金である。沈黙は被害者を孤立させ、ミソジニーを可能とする。(p.40、序論 前言を取り消す)

↑DV被害では男性が女性の首を絞めることが多いということと、DV被害は告発を妨げられたり(脅迫めいた言葉をかけられるということです)、一度告発されても取り下げさせられたりする、ということを踏まえたもの。

...観念的で普遍的なミソジニー経験なるものの想定は、私の見解には存在しない。(p.41、序論) 

...本書で取り上げる問題はどれを取っても道徳的に中立であることは不可能である。(p.53、序論)

↑あらゆる道徳的問題に言えることだと思います。

...「素朴理解」は、...(中略)...ミソジニーであるかどうかをきわめて診断しがたいものとする。このことは、とりわけ女性にとってミソジニーを認識的に接近不可能とするおそれがある。つまり、ミソジニーと思われる行為に直面した場合に、自分がミソジニーに遭遇したということを女性が知る、つまりそのことについて正当化された信念を獲得し、それにもとづいて申し立てを行うための必要手段を、奪われるおそれがある。(p.70、第一章 女たちを脅す)

ミソジニーの辞書的な意味に対して筆者が抱いている問題意識です。

...ミソジニーとミソジニストの「素朴理解」が受け入れられると、なぜある環境内においてミソジニーが稀有な現象となるのか、その理由を理解するために、次のことを考えてみてほしい。典型的な家父長制的環境に属する男性が、女性と日々やりとりがあるにもかかわらず、普遍的に、もしくはきわめて一般的に女性を嫌悪するなどということが、ありうるだろうか。それどころか、フェミニズムとはおよそ縁もゆかりもないような男性であっても、幾人かの女性、すなわち、彼の利害に友好的に仕えてくれる女性には満足していると考えるのが妥当ではなかろうか。そうした女性に敵意を向けるのが、対人関係の面で不作法でもあり、道徳的にも肯けないという二重の意味で問題含みだというだけではない。もしそんなことがあるとしたら、道徳心理の観点からきわめて奇妙ではないだろうか。単刀直入に言わせてもらえば、自分の望むところを忠順に、しかも喜んで叶えてくれる女性のどこが、気に入らないというのだろうか。(p.73-74)

...言い換えれば、公的生活において一人の女性に向けられるミソジニーは、「この女の後に続くこと、公けに援助の手を伸ばすなどはもってのほか」という、他の女性に対する警告として機能しうる。(p.156、第四章 彼の取り分を奪う) 

「笑ってよ、お願いだからさあ」。これは表向きはさほど侮辱的な言葉と思われないかもしれないが、女性の顔からはその内面は容易に読み取れるべきであるという、狡猾な要求の表現であることに変わりない。(p.160、第四章) 

 ↑は、子どもへの応対でも同じことが言えるし、差し控えようと思いました。

↓ここから続く二つは、ミソジニーと「非人間化」は関係がない、という文脈です。

 ...「同じ人間」というのは、あなたやあなたの所有物との関係において、たんに配偶者、親、子、きょうだい、友人、同僚などとして考えうる存在であるだけでなく、競争相手、敵、強奪者、反抗者、反逆者などとして考えうる存在でもあるということだからだ。さらに言うならば、合理性、行為者性、自律性、そして判断力などの能力を有することにおいて、彼らはあなたに何かを強いたり、あなたを操ったり、あなたの面目をつぶしたり、恥をかかせたりできる人物である。(p.200、第五章 ヘイトを人間化する)

...誰かを自分の競争相手もしくは強敵とみなすために、相手を軽んじる必要はない。じっさい、事はまるで反対で、競争にかかわる領域における相手の長所を認めていなければその相手と競い合うことはその内在的な(外在的でないとすれば)価値を失いかねない。また、競合は健全なものでありうる一方、悪意に満ちたものでありうる。競合関係は友好的でありうる一方で、激しい悪意をともなうこともありうる。(p.207、第五章。太字部は実際は傍点、以下同)

↓の二つ。上位集団と下位集団があったとき、下位集団は下位集団であるという理由で発言権を奪われるということです。

...証言的不正義とは、典型的には、下位集団の成員が何らかの事柄について、またはある特定の人々に抗して主張を行なうときに、信用性において劣ると見なされ、その結果、知識保有としての認識的地位を彼(彼女)が当該の下位集団に属するという事実を通して説明されるような仕方で、否定されるという事態を指す。(p.249-250、第六章 男たちを免責する)

...信頼性欠損(そして、その過剰)は、しばしば上位集団成員の現在の社会的位置を支え、既存の社会階層において彼らが転落しないよう保護する機能を果たすというのが私の考えである。(p.259、第六章) 

男性優位社会においては、私たちはまず男性のほうに同情し、事実上、彼を彼自身が犯した犯罪の被害者に変えてしまう。というのは、水泳奨学金と食欲を失ったということで、まずレイプ犯に同情が示されれば、この物語では彼のほうが被害者として登場することになるからである。(p.265、第六章) 

 ↑ヒムパシーのところで紹介した話の、衝撃的な部分です。彼は、レイプを告発されたことで深く傷つき、大好きなステーキも食べられなくなっちゃったらしい。

 したがって、女性が「被害者を演じている」「ジェンダーカードを切ってきた」、もしくは、過剰に劇的であると感じるとき、私たちには自らの直感について批判的、懐疑的態度をとるべき理由がある(Schraub 2016)。彼女の行為が際立つのは、彼女が正当な取り分以上のものを要求しているからなのではなく、こうした文脈で女性が正当な取り分を要求することに私たちの側が慣れていないということなのである。(p.302、第七章 被害者を疑う) 

※引用文中の文献情報:Schraub, David H. 2016. ”Playing with Cards: Discrimination Claims and the Charge of Bad Faith.”Social Theory and Practice 42, no. 2:285-303.

↑「慣れてないから」というのは意識すべき視点です。奴隷制があったときも、奴隷制がない状態に人々は慣れていませんでした。

 シルヴァスタインの言葉を読んでいて、私は心の底から敗北感を覚える。ミソジニーを下支えする中心的力学の一つは子ども向けの詩やベッドタイム・ストーリーという手段を通じてばらまかれてきた。それは子どもたちがまだ幼稚園に行きはじめる前にすでに重んじられているのだ。(p.382、結論 与える彼女) 

 ↑シルヴァスタインは、本書でたびたび引用される絵本のストーリーや詩の作者。結末が伏せられてるものがあったので、つい買ってしまいました。欲しい人いたらタダであげますので連絡ください。↓

おおきな木

おおきな木

 

 

以上です。重い本を読むと忘れてしまうのがもったいなくて引用ばっかりになってしまう。

読書記録:詭弁を勉強するとまっとうになる『論理病をなおす!――処方箋としての詭弁』

 この本を読みました。

  前回の記事で取り上げた『13歳からの論理ノート』と一緒に買った本です。今回読んだ本のカバーそでには「論理ではなく、詭弁を身につけてみないか?」と書かれています。論理とはこういうものですよ、というのを本で読んだ後に、論理の反対の「詭弁」について書かれた本を読むというのはおもしろいだろうな、と、読む前から楽しくなっていました。
 そしてその期待通り、ケラケラ笑いながら読んでしまうくらいおもしろかったです。備忘のために、いくつか印象に残った点を引いておきます。

 

...議論とは、言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営みである。だから議論の目的を、真理の追究や問題の解決に求めるのは、人間心理の本質的考察を欠いた浅薄な解釈と言わなくてはならない。人間は、実に下らない、どうでもいいようなことまで、青筋を立て、感情的になって真剣に議論する。これは議論という行為が、その目的や必要からは説明できないことをよく示している。(p.33) 

  太字部分より、その次の文が重要だと思いました。野良の人間同士で議論が始まる時点で、もうその目的は真理の追究でも問題の解決でもないのは明白です。だって、その野良人間同士には目指すべき共通のゴールがないから(ここで僕が念頭に置いているのはネット上の議論です)。たとえば大学生どうしで輪読をする、とかいうシチュエーションなら、議論が発生してもそれは「その本を深くわかりたい」という目標をお互いにもっているので、互いにもっともらしい意見を戦わせた結果白黒はっきりし、それでいてお互いに満足感を得る、ということは大いにありうるでしょう。会社組織でも、「利益の最大化」という(建前上かもしれないけれど)共通の目標が社員どうしにあるので、一定の妥協点は見いだせるはずです(あまりにもしょうもないこだわりがあって著しく迷惑な人間はクビになるし)。ですが、前回記事の『13歳からの論理ノート』には「ある行動や意見が、ある人には論理的であって、また別の人には論理的でない、ということは頻繁にあります。」と書かれていました。このことを考え含めると、目標もなく始まった議論は決着がつくはずがないし、論理のルールや倫理に強く従う側の人が負け(たことになってしまい)ます。
 そういうわけで、ここで引いた「議論とは、言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営み」という考えは正しいことを言っていると思いました。つまりもう、議論好きの人はただただ血がたぎっているだけなのです。先日、テレビ番組の出演者がネットの誹謗中傷で自死したという事件が話題になっていました。それをめぐるいろんな意見のなかに「誹謗中傷と批判は違う」というのがありましたが、もうそういうことではないんです。議論好きの人間は「自分の精神を伝播させ」(=精神的に屈服させ)ることが目的なので、ひとたび見つかればもう、見つかった側が全損、議論を吹っ掛けた側が気持ちよくなっておしまい、ということになってしまいます。先日、快楽殺人犯の本を読んだときにも思いましたが、見つかったら終わりです。そして、そういう人間に限って、この本で紹介されているような詭弁の手法を次々に繰り出してくるのです(読むとわかりますが、詭弁の手法は巧妙で、まともに戦うと勝てないことが多い)。

即堕ち2コマ

 別の話題にします。本書の中で、渡部昇一という人が書いた文章を取り上げて詭弁の手法を紹介していました。それがきわめておもしろかったので、ここに引いておきます。紹介されているのは「人に訴える議論」という型式の詭弁で、「その人の論そのものでなく、その人自身の欠陥を指摘することで説得力を失わせる」という技です。

…例えば、渡部昇一は、優れた英語学者であり評論家でもあるが、本人がその効果を意図してかどうかは別にして、しばしば「論」と一緒に、それに関する「人」の情報を併せあげる癖をもった書き手である。まずは渡部の青年時代の思い出話から始めてみよう。…(中略)

 (渡部昇一『英文法を知っていますか』から引用して)文法ノイローゼの学生だった私は、英文講読のときもよく質問した。先生によってはうるさがる人や、やめさせる人もいた。同級生の中にも私の質問のために授業の進行が遅れるというので、先生に「渡部の質問は無視して進んでください」と申し出た男がいた。

この「男」について、渡部は次のような情報を付け足している。

(ちなみにこの男は北朝鮮系で卒業後は朝鮮総連に入ったということをあとで聞いた。学生時代は日本姓だったので国籍はわからなかった。)(p.146‐147)

 次は渡部が教師になってからの話である。...(中略)

 (これも渡部昇一『英文法を知っていますか』から引用して)ベーコンと言えば私も三〇年ほど前に英文科の二年生で教えたことがあったが、その時、一人の男子学生が「なぜこんなものを読まなければならないのですか」と質問したことがあった。...(中略)...″ベーコンの随筆をなぜ読まなければならないのですか”などという愚問をするな」と逆に叱ったことがあった。

ところでこの学生は、その後どうなったか。

 (ちなみにこの学生は数年後に自殺した。)(p.148-149)

 今度は渡部の少年時代に逆戻りする。少年時代の、渡部の読書の趣味についての話である(『知的生活の方法』)

 (前略)...当時、少し早熟な少年の中には芥川龍之介のものを読んでいる人もいた。私も借りて、多少努力していくつかを読んでみたものであるが、どうもいやでなじめなかった。その理由はいまから見ると不健全だったからだろう。...(後略)

では、芥川を読んでいた「少し早熟な少年」はその後どうだったか。

 少年のころに芥川などを読んでいた近所の早熟少年は、中学時代に痴漢となった。(p.149-150) 

  この即堕ち2コマ感のある文が三連発されているところで、ケタケタ笑ってしまいました。たぶん、実際に引用元の本を読んでいたら、こういう話ばかりしているわけではないでしょうからそう気になるようなものでもないのでしょうが、こうして並べられると陰険だな~、と思ってしまいます。でも渡部自身はべつに、ただ単純に情報を書き添えただけで、二つの出来事のつながりは明示していないそうです。著者は、この節を次のような言葉で締めくくります。

 こうして見ると、人に訴える議論が詭弁であるとしても、そもそもそれを成り立たせているのは一体誰なのかという疑問が起こってくる。書き手が何ら直接に手を下さなくても、人についての情報を添えるだけで、読み手が勝手にそれを論の評価に使用してくれる。それと言うのも、先にも述べたように、人と論とは単純に切っても切り離せないからである。読者はそのことを、経験的に知っている。読者には、人でもって論を評価して、それで誤らなかった経験がある。そうでなければ、わざわざ人と論を混同して考えるはずがない。だから、われわれが、人に訴える議論という虚偽を犯してしまうのは、人に訴えることが虚偽でない場合がいくらでもあるからである。詭弁は、詭弁でないことがあるから、かえって人を欺く。(p.152-153) 

  これはかなり本質的なことを言っていると思います。うまくウソをつくコツは、本当のことをベースにすることだと聞いたことがあります。実際、本当ベースに少し混ぜられたウソを見抜くのはかなり難しいです。議論の中では、おおむね妥当なことを言っているところに少しだけ詭弁を混ぜるとたぶん勝率は高いでしょう。

 とはいえ、こんな風に人の著作からの抜粋を紹介して、陰険さを示すということも結構な陰険ムーブだと思いますが、おもしろいしなにより詭弁の型式を例示するためのものなので擁護しちゃいます。それに本書のあとがきには「科研費で研究させてもらっているが、その成果をこういう本にまとめて一般の人に役立ててもらわないと研究の意味がない」と書かれていました。この理念のまっとうさと、実際僕の役に立ったという点も擁護ポイントです。

詭弁の効能

最後にもう一つ印象的なところを。

…詭弁を学ぶことで、それを用いて議論の相手を翻弄することができる、という考え方も間違いである。 詭弁を学べば、詭弁を使うようになるのではなく、むしろ安易に詭弁など使えなくなる。自分が相手の詭弁を見分けられるようになったため、逆にこちらが詭弁を使っても、すぐに見破られるのではないかと恐れてしまうからだ。すでに述べたように、詭弁を暴露されることは、議論にとって取り返しのつかない一撃となる。だから、詭弁を学ぶことで、詭弁など使うことのない「堅気」の人間として生きることができるだろう。(p.13)

  詭弁を勉強するとまっとうになる、というのは強く感じます。ここで挙げられているような、暴露されることへの恐れもそうですが、僕の場合はなんかそもそも恥ずかしくて使いたくありません。それとわかって詭弁を弄するということは、対話の相手を下に見ているということにもなると思うのですが、そんな失礼なことあまりしたくないし、実際下に見ている相手だったとしたらそもそも議論なんかしないほうがいいです。それは記事の冒頭で触れたように、議論とは基本的に、「言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営み」だからです。

 

この著者の本は、前に読んだ『論より詭弁』と合わせて2冊目で、この本も大変おもしろかったです。『論より詭弁』のほうが好きですが。今後全著作を集めて読破するぞ! というようなバイタリティはありませんが、この人の本はもう何冊か読みたいです。残念なのは、この先生はけっこう若くして亡くなっていることで、もう新しい著作が読めないということです。

 

以上です。

読書記録:『13歳からの論理ノート』

 この本を読みました。

13歳からの論理ノート

13歳からの論理ノート

  • 作者:小野田 博一
  • 発売日: 2006/09/21
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  この本は、僕が信頼する倫理学者の先生が大学生向けに、とおすすめしていたので読んでみました(僕は大学生ではありませんが)。

  これといっしょに『論理病をなおす!』(香西秀信著)が勧められていて、一緒に読むと面白そうだな、と思って買ってみました。

 この本では、論理的にものを言う・書くとはどういうことか、わかりやすくコンパクトにまとめられていていい本だな、と思いました。おもしろかった部分を備忘のために引用しておきます。以下7か所引用しますが、僕は「国語のテスト」の話と「冷やしてお召し上がりください」の話が好きでした。

...ある行動や意見が、ある人には論理的であって、また別の人には論理的でない、ということは頻繁にあります。(中略)

 あなたが意見を述べる場合、その意見は読み手や聞き手にとって論理的であるようにしなければならない。

 つまり、あなたにとって論理的である必要は必ずしもないのです。(p.15-16、3)論理的であるか否かを判断する絶対的な基準はない)

 推論は2つに分けられます。1つは演繹(deduction)で、もう1つは帰納(induction)です。
 2つの違いは、荒っぽくいえば、結論に「だろう」が入るか否かです。
 また、次のようにいうこともできます。
 結論の正しさが100%確実なのが演繹です(ただし、前提が正しくなければ、結論が正しいとは限りません)。結論の正しさが100%確実でないのが帰納です。(p. 26、 7)演繹と帰納) 

  帰納の例として、一般化、一般的傾向からの推測、統計的推測、類推、権威論証、の五つがあげられていました。

 

 国語のテストでは、次のタイプのものがよく出題されています。
「筆者は下線部Aと述べているが、それはなぜか」
 この質問に対する答えはふつう、筆者の書いた文中にはありません。つまり、理由を書き落としている欠陥argument(議論)を読んで、筆者の書き忘れたものを察するトレーニングをしているわけです。
これはひどい文章だから、このような文章を書いてはいけない。理由を書き落とさないように」と指導を受けることなしに、このような文章をたくさん読むうちに、生徒は、理由を書き落としている 欠陥argument(議論)を書く習慣を身につけます。
 小中学校で、このようなトレーニングをすべきではありません。すべきなのは、理由部分を落とさずに文章を書くトレーニングです。(p.75-76、 29)疑問をもつ心を大切に )

  よく、次のような記述があります。

 お召し上がり方:冷やしてお召し上がりください。

 理由の添えられていない命令形で不快感を与える表現(「従順に従え」タイプの表現)で、「個人の自由」の領域に踏み込んでいます(冷やして食べるか冷やさずに食べるかは、個人の自由の領域)。
 冷やさずに食べると危険な場合のみ、命令形が適切です。その場合でも、理由を添えるのが望ましいのです。たとえば、「冷やしてお召し上がりください。冷やさずに食べると**の危険があります」という具合に。
 危険とは関係ないなら――たとえば、冷やすのが単においしさのためなら――「冷やすと最もおいしくお召し上がりいただけます」とか「冷やすとよりおいしくお召し上がりいただけます」などのように書くのがよいのです(冷やすのがおいしさのためであることが伝わるので)。(p.77、 30)理由を落とす習慣に注意)

...レトリックを使わないようにしましょう。(中略)
 例を挙げます。

【例】
 R氏「そのような馬鹿げた意見は聞いたこともない」

 この発言の真意は、「それは馬鹿げた意見だ」です。聞いたことがあるかないかは重要な点ではなく、たとえば誰かがR氏に対して「私は聞いたことがありますよ」と言ったなら、R氏は「私が言っているのは、そんなことではない」と言うでしょう。つまり、R氏の発言は聞いたことがあるか否かは重要な点ではないにもかかわらず、聞いたことがあるか否かを述べている大ボケ発言なのです。(p.82-83、 33)レトリックを使わないこと)

...議論の際には「相手を黙らせようとする発言」をしてはいけません。あなたが述べるべきことは、「あなたの主張を述べ、その主張を支えるものを(相手が理解できるように詳しく丁寧に)述べること」です――ただそれだけです。それ以外のことを述べたら反論ではありません。(p.85、 34)反論では、相手を黙らせようとしてはならない) 

 意味を正確に伝える文章を書けなくて、それを補おうとしてムードを伝えることにやたら努力を払う人がいます。...(中略)...文学的才能とは、作品の世界の中に読者をのめり込ませる・引きずり込む文章を書ける能力です。自分に酔った不正確な文章を書ける能力や意味不明の文章を書ける能力のことではありません。(p.118、 53)文学性に関した注意点)  

 以上です。次に読もうとしているのはレトリックの専門家の本『論理病をなおす!――処方箋としての詭弁』です(カバーそでに「論理ではなく、詭弁を身につけてみないか?」と書いてあります)。今回読んだ本と合わせて読むと大変おもしろいのではないかと思って読む前から楽しみです。

おわりです。