ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:何をもって「法」なのか『問いかける法哲学』

 この本を読みました。

問いかける法哲学

問いかける法哲学

  • 作者: 
  • 出版社/メーカー: 法律文化社
  • 発売日: 2016/09/20
  • メディア: 単行本
 

 この本では、「臓器売買ってなんでダメなの?」とか、「女性専用車両は差別じゃないのか?」とか、「同性婚を認めるかどうか」とかいった、不定期にTwitterで話題になるようなテーマに対して、その筋の専門家が解説を加えています。この本の良かったところは、いくつかの章で、(少し偏っているかもしれないけど)筆者自身の考えの開陳とその論理の説明が施されていたことです。

 こういう本で取り上げられるような話題は、誰もが納得する正解が見つかっていないから取りざたされるわけですが、僕がわざわざこういう本を読む場合には、「なんらかの方向付けが欲しい」と思って読みます。でも結局一般論に終始して、「いろんな考え方がありますが、こちらを立てればあちらが立たずですね~」という感じで終わるものが多いです。

 論争的なテーマでは、そういう終わらせ方にせざるを得なかったり、そうするのが最も穏当なのかもしれません。でも、何通りかの論者の考えを紹介しても、筆者自身の考えがわからないまま終わらせるんだったら、せっかくあなたの論考を読んだ甲斐がないですよ、と思ってしまいます。研究の進展を伝える文章に価値があることや、どういう論者の考えをまとめて論考とするかにもオリジナリティが必要だということは承知しているつもりだし、たまには読みたいですが、俺が読みたいのはそういうのじゃないよ、といつも思うわけです(フィクションになっちゃってるという点を除けば百田尚樹の本は僕にとっていい本なのかもしれません。読みませんが)。そういう点では、この本の4章「ダフ屋を規制すべきか?(執筆:登尾章)」で展開されている論考は面白く読むことができました。

 法律のように、何かに線を引く営みでは「あれはよくてこれはダメなのはどうしてだ」ということが付きまとってきます。本書の多くの章は、その線引き問題についての論考でしたが、それ以外にも「法にはどういう意義があるのか」とか、「何をもって法なのか」とか、考えるのがおもしろいことがたくさん書いてありました。

 以下、備忘のために、3つのテーマに焦点を当ててメモします。

差別にあふれた住んで楽しい社会

むしろ、このように差別が満ちあふれていることによって、われわれの社会は 、いろいろなことが活発に起きる、住んで楽しい社会になっているのである。〔4章 ダフ屋を規制すべきか?(登尾章)、p.68〕

  本書の4章では、ライブチケットなどのダフ屋行為を法律で規制することの是非を論じています。その論考のなかで、上記の引用部分のような一見ラジカルな一文が出てきます。

 筆者はこの論考のなかで、「差別」について言及します。

...「ダフ屋が介入するようなチケットが存在するということは、そこで差別が行われていることの証拠である」という認識である。(p.61) 

  これはどういうことかというと、チケットを販売して、手に入れることができる人と手に入れることができない人が生じる場合、そこに差別がある(金銭的な違いだったり、チケットを買うのに割く時間があるかないかの違いだったり)ということを言っています。筆者はこれを至極真面目に主張しており、平等主義者による反論「それは区別であって差別でない」という点について以下のように応答しています。

 ...私に言わせれば、差別と区別の区別など、ただのまやかしである。差別と区別の間には、行為様態としての客観的な違いなど存在しない。結局のところ、これは典型的な論点先取である。つまり平等主義者は、自分の都合に合わせて、平等主義を主張しやすそうなケースだけを「差別」と呼んで、「区別」と区別しているに過ぎないのである。しかしわれわれには、そのような彼らの都合につき合う義務はない。行動様態に違いがないのだから、全部「差別」と呼んで差し支えないのである。(p.66)

 

 結局、この章で主張している結論は、「チケットの売買を市場にまかせることで、正しいありかたへ近づくことができる。そこに政府として法規制をかけると、理想的なありかたがゆがめられてしまうため、法規制を設けることには反対である」というものです。市場にゆだねると、ダフ屋への道徳的非難や賞賛が起こったり、チケット販売側の自衛策が発達したり、消費者ひとりひとりの判断によってダフ屋が利用されたり買い控えられたりするという試行錯誤がなされ、最終的に「正しいあり方」へ近づくという「可謬主義的市場*1」としての働きが期待できる、というのです。ダフ屋規制の話というより、平等主義者批判が大部分を占めていたように思いましたが、結論はこういうことでした。

 僕のように考えの浅い人間は、ダフ屋は悪いし法律で規制しちゃえばいいんじゃないの、となんとなく思ってしまうわけですが、こういう主張を読んで、どこでどういう検討をしながら持論を鍛えていくのかを学ぶと、目を開かされた気になります。

 この章での「差別」の説明はかなり極端に思えますが、これに効果的に反論する術を思いつきません。そもそも自分の思考のなかで、「どうしてあれはいいのに、これはダメなんだ」というのを考え続けていくと「ほとんどのものは差別じゃないか」となり、「差別があってOK」と認めないと理屈が通らないナァというのを体験したことがあるのです。そして「差別主義者」と言われてしまうかもしれませんが、僕自身あらゆる「差別」を解消してしまったら、生きてても仕方がないように感じてしまうのです。順位付けは差別的であまり良くないから、みんなで手をつないでゴールしましょう、というような運動会はやる意味がないと思うので。

 また、ここでの「大体のものが差別だ」という考え方は、明示的ではありませんが、本書の随所に見られます。

  • 第1章では「ドーピングを禁止することの是非」を取扱っていますが、そこでは「なぜドーピングはダメなのに、国ごとでオリンピック選手の強化費に違いがあるのは許されるのか」などといった問題が浮かび上がってきます。
  • 第5章では「チンパンジー動物実験に供していいのか」というテーマですが、そこでは「人間と動物のあいだでの種族差別がある(動物解放論)」という指摘が紹介されています。
  • 第6章では「女性専用車は男性差別か?」というテーマ、第12章では「女性議席を設けるべきか?」というテーマで、性別について生じてきた/生じてしまった社会構造について論じています。
  • 第8章では「相続制度の是非」を取扱っていますが、そこでは「生まれながらの環境の違いが生まれる原因は親の財産であるので、遺産はすべて国家が没収して収入とすれば課税を減らして富が再分配すれば、不平等が緩和できてうれしいですね」という考えが紹介されています。

 「種族差別」の考え方では、過去に「主人ー奴隷間」、「男性―女性間」にあった差別は差別として認識されておらず、解放運動によって差別が撤廃されてきたことと同様に、「人間—動物間」にも同様の差別がある、と主張します。この論理を初めてみたとき、本当にその通りだなぁと思って、種族差別の問題を強く意識しました。でもこの論理をいろんなところに応用してみるとそれなりに筋が通ってしまうので、最終的には多くの「異なる取扱い」は「差別」にできてしまうのです。

 なんらかの性質に基づく不当な扱いを撤廃したほうがいいのは当然ですが、「差別」をいろんなところで見つけられてしまう以上、「『差別』はあってしかるべき」というのを受け入れないと前に進めません。そのうえで、ある事例が「どうして正当化されるのか」とか「正当化されないならどういう制度を敷けば撲滅できるのか」とかを考えていくのが法律家であり、法哲学者なのだなぁ、ということがよくわかりました。

何をもって「法」なのか

 本書13章では、「悪法に従う義務はあるか?(執筆:横濱竜也)」というテーマが論じられています。「悪法もまた法なり」とソクラテスは言ったそうですが、この章では、それがそう簡単に言い尽くせる問題でないことを指摘しています。ここでの議論は、「(道徳的に)正しいと思うことを貫くために、法とどうバランスをとればいいか」を考えるのに役立つと思います。物語のヒーローのような、身を挺して悪法と戦う、というようなことは僕の今後の人生に訪れないと思いますが、たとえば会社のなかで感じた違和をどう考えるか、のようなことに応用できるな、と思えました。

 筆者は以下の二点について検討しています。

  • 悪法はそもそも法なのか?
  • 悪法が法だったとして、従うべきなのか?

 この二点について「法ではないから従わない」「法だが従わなくていい」「法なので従うべき」「法なので従うべきだが、場合によって違法行為も許される」という四つの立場から問題が検討されており、どの立場にもある程度の理があります。筆者は、キング牧師の名を挙げ「悪法に違反し制裁を甘受することで議論を起こし、是正していく」という「市民的不服従」の姿勢を支持しています。

 

 この13章のなかで紹介されていた、自然法論、法実証主義、法内在道徳という3つの考え方についてメモを残します。

 「自然法論」という考え方では、「法の存在理由は正義の実現なので、悪法は法ではない」と考えます。ただし、われわれの認知能力は限られており、あらゆる事例について存在するはずの正しい答えを、実際に認知できるとは限らない。そこで法は、認知能力の限られたわれわれが正しい道徳認知へ導くものでなくてはならず、そうであるときに法は拘束力をもつ、となります。この考え方では、「誰が正しい道徳認知で法を制定できるのか」という点に問題がありますが、道徳にそぐわない法をどう理解するかということの手がかりになります。

 「法実証主義」では、つぎのように考えるのが一般的だそうです。

一般に、ある法に従ったほうが正義がよりよく実現されるのであれば服従すべきであるし、従わないほうが正義が実現されるならば従うべきではない。そうなると、基本的には遵法義務が存在しない(Kramer 1999: Ch.9*2)。(13章 悪法に従う義務はあるか?、p.227) 

  議会など定められた手続きで制定された法は、実際に法だが、内容によっては必ずしも従わなくてよいという立場です。

 最後の「法内在道徳」は、L. フラーという人が提唱したもので、8つの道徳的な条件を用意し、それに合うものを法とするという考え方です。法の制定の段階で道徳的な条件をクリアしているので、「悪法も法であり、それに従う必要がある」ということになります。

 

 ほかにも、国際法は法なのか(15章)を考えることによって、「法」とはなんなのかを深く考えることができました。

 僕のように考えの浅い人間は、法典に載ってれば法だろう、と単純に考えていましたが、そうでもないということです。考える方針を与えてもらったので、使えるところで使っていきたいものですね。

漸進的な多元主義

 「漸進的な多元主義」という考え方は重要だなと思ったので、最後にまとめておきます。これは、第7章で「同性間の婚姻」を考えるときに登場した考え方です。

 現在日本の法で描かれている「家族」像がありますが、「同性婚」を考えるとその像が変化します。そのときに、「男女の組み合わせ以外にも考えられる」「家族のあり方も多様になる」「そもそも家族という単位を取り払ってもいいのでは?」など、いろんな考え方がでてきて、それに合わせて法を変更する必要性も考慮しなくてはならない。でも、実際に法を変更するのなら、今ある法をもとにしてすこしずつ変えていくほかないですよね、という考えです。

ハイエクという哲学者がルールの発展過程について考えたときの議論に、この「漸進的な多元主義」が取り入れられているそうです。少し長くなりますが、引用しておきます。

彼(引用者注:ハイエク)は、ルールの発展過程を、内在的批判に基づく漸進的な改善や修正に限定する。この内在的批判とは、あるルールが有する内容の適否に検討を加える際に、所与のルール体系の枠内で進展し、そのルール体系内ですでに承認されている他のルールとの整合性および両立可能性によって判定するものである。彼の考えによれば、確立したルール体系すべてを全く新しく作り直すことでルール体系を改善することは、不可能である。われわれにとって可能なのは、自らが熟慮のうえで自由に設計したわけではない所与のルール体系の枠内で、そのルール体系内の他のルールと両立しない特定のルールを批判し漸進的に排除することによって、所与のルール体系を改善し修正することだけである(ハイエク 2007*3:88; ハイエク 2008a*4: 36-45, 57以下; ハイエク 2008b*5: 227-229; ハイエク 2009a*6: 101; ハイエク2009b*7: 10-11; ハイエク 2010*8: 35, 43以下)。(7章 同性間の婚姻を法的に認めるべきか?、p.129) 

  この考え方は、実際に制度改革をしていくことを想像すると一番妥当な方法ですが、一つの論点について考えているとつい忘れがちになってしまいます。いろいろな場でルールを考えるうえで、念頭に置いておきたいと思います。

 

 ほかにも、児童手当や年金で平等の問題を考えたり、「罰」とはどういうものかを考えたりと刺激に富む内容ばかりでした。読んでよかった。

*1:これは、正解がわからないなかで正解を目指していくという考え方である、と説明されています。これに対し、「功利主義的市場」は効率の高め方ががわかっており、その前提で効率を追求していくもの、と紹介されていました

*2:Kramer, Matthew(1999) In Defense of Legal Positivism: Law Without Trimmings, Oxford U. P.

*3:『法と立法と自由Ⅰ―ルールと秩序〈新版ハイエク全集第Ⅰ期第8巻〉』矢島欽次・水吉俊彦訳、春秋社

*4:『法と立法と自由Ⅱ―社会正義の幻想〈新版ハイエク全集第Ⅰ期第9巻〉』篠塚慎吾訳、春秋社

*5:『法と立法と自由Ⅲ―自由人の政治的秩序〈新版ハイエク全集第Ⅰ期第10巻〉』渡部茂訳、春秋社

*6:『致命的な思いあがり〈ハイエク全集第Ⅱ期第1巻〉』渡辺幹雄訳、春秋社

*7:『思想史論集〈ハイエク全集第Ⅱ期第7巻〉』八木紀一郎監訳、春秋社

*8:『哲学論集〈ハイエク全集第Ⅱ期第4巻〉』嶋津格監訳、春秋社