ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:『農業は人類の原罪である』

 この本を読みました。

農業は人類の原罪である (進化論の現在)

農業は人類の原罪である (進化論の現在)

 

  大変おもしろいことを言っている本ですが、残念ながら絶版になっています。

 著者の主張は次のような感じです。

 ...人間は少なくとも四万年前(旧石器時代後期)の昔から、「原農耕民」と呼んで差し支えないくらいにまで環境を制御していた、と私は論じたい。こう考えることにより、他の多くの未解決の問題が楽に然るべき位置に収まるはずだ。(p.12)

 すこし補うと、通説では、「1万年ほど前に各地で農業が行われるようになり、それまでは狩猟採集が主な食い扶持だった」とされているが、とんでもない。農業やそれに似た営みは、そのはるか前から行われており、1万年前の新石器時代に「大規模化しただけ」にすぎない、というような感じのことを言っています。

 本書では、なぜ上記のように言えるのかを平易に、しかし納得的な方法で説明しています。解説含めて100ページに満たないコンパクトな本ですが、大変エキサイティングな内容です。そんな短い本であっても私はすぐ忘れてしまうので、備忘のために記事にします。

証拠はない

 筆者の主張を支持するための、考古学的な証拠はありません。その理由はしっかり考えればわかるのですが、僕は言われるまで気がつきませんでした。
 このことは、「農業の起源」を結論付けるために必要な証拠とはなんなのかを考えるとわかってきます。新石器時代(約1万年前)に見つかる農業の証拠とは以下のようなものです。

  • そのころに見つかる穀物痕跡が、野生のものとはっきり違う(作物栽培の証拠)
  • そのころに見つかる動物のサイズや種類などが変化した痕跡(家畜化と都市の誕生の証拠)
  • そのころに見つかる人工物の痕跡が、農具っぽい

 起源だ、と主張するには、こういった「痕跡」が集まらないといけません。しかし、こういった痕跡は「大規模な変化」が起こらないと見つからないよ、ということを筆者は主張します。化石になるような動物や植物は、その当時ありふれているものだけで、さらにそのなかでも化石化しやすいものだけです。さらに、人工物となるともっと残りません。木と石ころをなんかの植物で結びつけただけの武器や農具は、時間が経てば石しか残りません。だから、新石器時代以前に、小規模な農業が行われていたとしても証拠が残りません。
 また、新石器時代に見つかる農業の証拠は「大規模な農業」の証拠です。さまざまな技術の発展を考えれば、いきなり大規模な農業(生物の遺伝子や植生が大きく変わるほどのもの)が行われるようになることはありえないし、やはりそれ以前に農業やそれに類する営みがあったと考えるのは自然です。
 このことは、次の文章によってよく表現されています。

...人々は農耕を発明し喜びの声を上げたのではない。異議を唱えながらも、農耕へと押し流され、あるいはそれを強制されていったのだ。(p.12) 

農業とはそもそもなんなのか

 筆者はある一つの植物を栽培する過程を、つぎのように分類し、コメントしています。

...土を耕して準備し、品種改良をする、作付け、作物の保護、収穫、そしておそらく保管まで。しかし、これまた注意しなければならないのは、これらの事柄は現代の農業でこそ当然のこととなっているけれど、それぞれを単独で取り出してみれば、まったく違うものだということである。(p.23) 

  「石器時代の人類が、もっぱら食料を狩猟採集に頼っていたとして、農業に要求されるこれらの過程のどれ一つとして行われていなかったはずはない」というのが著者の主張の出発点です。農業の過程のなかの「作物の保護」と「作付け」くらいなら、誰もがひとまずは考えることだろう、という素朴な見方がポイントです。
 「作物の保護」とは、「実をほかの生物に食べられないようにする」「枯れた葉や枝をとる」などです。こういうことはチンパンジーや昆虫、魚でさえも行っているという例を挙げながら説明されていきます。「作付け」とは、種を植えたり挿し木をしたりすることです。これは、ただ単に人間が果物をもって集落に持ち帰り、食べ終わった種をそのへんに捨てておけば成立します。
 この程度の営みであれば、現生人類に近い人類が現れたといわれる200万年前から行われていたと考えられます。筆者が、「四万年前(旧石器時代後期)が農業の本当の起源だ」という根拠は、そのころに洞窟の壁画を描いたり、つくる道具のバリエーションが増えていた、ということにあります。道具制作の技術の発展には意識の転換があったはずで、そのなかには農業も含まれていたに違いない、という主張です。このことについて、筆者は次のように述べています。

 我々が「農業」と呼ぶことができるようなものがこの頃(引用者注:四万年前)に始まったわけではなくて、自分たちの行なっていることが農業だと、はっきりと意識したのがこの時点なのである。環境に対して、行き当たりばったりでやっているうちに、だんだん意識的、計画的に一連の操作ができるようになったのである。それら操作は経験に基づく大雑把なアプローチや、ときには儀式的だったりするものから生まれたものだが、農業とは今でもそうしたものなのだ。(p.32)

 ここまでまとめるだけで、素朴な観点から始まって、定説とは大きく異なる仮説が組み立てられており、読んでいてすごく興奮しました。

なんで「農業は人類の原罪」なのか

 次の文章が本書の核になるところだと思います。

 ...農業とは、一言で言えば、環境を操作し、作り出される食物の量を増やすことである。(中略)食べ物の量が増えれば、もちろん人口も増加する。
 そうなると、当然のことながら、農業を行なっている者は自分たちがらせんをなす悪循環に陥っていることに気づくだろう。農業をすればするほど人口が増え、そうするとますます農業に精を出さなければならなくなる。増えた人間を食べさせていく方法は農業しかないのだから。(p.56) 

...農業をする人々が労力を惜しまないのは、何もそれが楽しいからでも、狩猟・採集に比べて必ずしも楽だからでもない。ただ単に、成功と引き替えに犠牲を強いられているだけなのである。(p.60)

  農業は、やればやるほど農業の規模を大きくしていかないといけないので、際限のない無間地獄に陥るというのです。会社経営に似ていますね。

 で、どうして「原罪」*1なのか。それは、大規模農業の始まり方と、アダムとエバエデンの園から追放された話が似ているからです。
 一番最初の大規模農業(約1万年前)の証拠は、中東(イランのあたり)で見つかるそうです。1万年より少し前の中東では、まだペルシャ湾が干上がっており、その近辺での狩猟採集の暮らしはかなり簡単で安定していたそうです。そんなわけで、狩猟採集と痕跡の残らない小規模な農業だけで、人口がかなり増やせた。しかし、1万年前ごろに氷河期が終わり氷河が溶け、海面が上昇したせいで内陸部への移住を余儀なくされます。しかし内陸部では、それまでのような簡単な暮らしはできない。増えてしまった人口を養うには、農業だ...という流れがあったとのことです。つまり、初期農業はやらざるを得ないから始まった、というのです。
 そして筆者は、この流れと、エデンの園の物語との類似点を指摘する説を肯定的に紹介します。実際、聖書ではアダムとエバが追放されるとき神がかける言葉は「おまえが土に還るまで、顔に汗することなくパンを得ることはできないだろう」(創世記三章一九節)なので、やらざるを得なくて農業をやることになったのを納得させるためのストーリーという感じもします。
 さらに筆者は、旧約聖書の多くの部分は初期農業についての記述であることを指摘し、次のように述べます。

 旧約聖書は実際、壮大なスケールの「週刊農民新聞」のようなものとして読むことができ、語られるのは「飢饉について」「奴隷労働について」「終わりなき苦役について」と物凄いものばかりだ。(p.68)

 創世記が書かれたのは、紀元前1500年のこととされていますが、大規模農業の興りから数千年経って書かれた文章に、農業の辛さが強調されているのは示唆的です。パンドラの箱というのは、大規模農業のことだったのかもしれない、とさえ感じる事実です。

 筆者は最後に、参考文献紹介のところで次のように書いています。

 最後に、聖書を読むことをお勧めしたい。特に創世記と出エジプト記(と新約聖書のたとえ話も含めた他のところ)を、ただの宗教書や物語としてではなく、初期農業とそれが人々にとってどういう意味を持っていたかを説明する書として読まれるとよい。こうやってアプローチすると、心にパッと灯がともるような、とてもワクワクとした気分にさせられるのだ。ぜひお試しあれ!(p.87)

最後に

 本書で書かれた推論が本当に正しいのかは、証拠が出てこないかぎり学説として定着するのは難しいかもしれませんが、充分あり得ることだと思います。書かれていることが正しいかどうかは置いておいて、「農業の発生とその影響」に関してあまり深く考えたことがなかったので、大変勉強になりました。考古学的資料の解釈のしかたについての記述は大変おもしろかったです。また、訳者の竹内久美子による解説も、大変効果的に書かれていたと思います。
 おわりです。

*1:この「原罪」が含まれるのは邦訳版のタイトルだけで、原著タイトルは「Neanderthals, Bandits and Farmers(ネアンデルタール人、ならず者、農民)」です。