ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:詭弁を勉強するとまっとうになる『論理病をなおす!――処方箋としての詭弁』

 この本を読みました。

  前回の記事で取り上げた『13歳からの論理ノート』と一緒に買った本です。今回読んだ本のカバーそでには「論理ではなく、詭弁を身につけてみないか?」と書かれています。論理とはこういうものですよ、というのを本で読んだ後に、論理の反対の「詭弁」について書かれた本を読むというのはおもしろいだろうな、と、読む前から楽しくなっていました。
 そしてその期待通り、ケラケラ笑いながら読んでしまうくらいおもしろかったです。備忘のために、いくつか印象に残った点を引いておきます。

 

...議論とは、言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営みである。だから議論の目的を、真理の追究や問題の解決に求めるのは、人間心理の本質的考察を欠いた浅薄な解釈と言わなくてはならない。人間は、実に下らない、どうでもいいようなことまで、青筋を立て、感情的になって真剣に議論する。これは議論という行為が、その目的や必要からは説明できないことをよく示している。(p.33) 

  太字部分より、その次の文が重要だと思いました。野良の人間同士で議論が始まる時点で、もうその目的は真理の追究でも問題の解決でもないのは明白です。だって、その野良人間同士には目指すべき共通のゴールがないから(ここで僕が念頭に置いているのはネット上の議論です)。たとえば大学生どうしで輪読をする、とかいうシチュエーションなら、議論が発生してもそれは「その本を深くわかりたい」という目標をお互いにもっているので、互いにもっともらしい意見を戦わせた結果白黒はっきりし、それでいてお互いに満足感を得る、ということは大いにありうるでしょう。会社組織でも、「利益の最大化」という(建前上かもしれないけれど)共通の目標が社員どうしにあるので、一定の妥協点は見いだせるはずです(あまりにもしょうもないこだわりがあって著しく迷惑な人間はクビになるし)。ですが、前回記事の『13歳からの論理ノート』には「ある行動や意見が、ある人には論理的であって、また別の人には論理的でない、ということは頻繁にあります。」と書かれていました。このことを考え含めると、目標もなく始まった議論は決着がつくはずがないし、論理のルールや倫理に強く従う側の人が負け(たことになってしまい)ます。
 そういうわけで、ここで引いた「議論とは、言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営み」という考えは正しいことを言っていると思いました。つまりもう、議論好きの人はただただ血がたぎっているだけなのです。先日、テレビ番組の出演者がネットの誹謗中傷で自死したという事件が話題になっていました。それをめぐるいろんな意見のなかに「誹謗中傷と批判は違う」というのがありましたが、もうそういうことではないんです。議論好きの人間は「自分の精神を伝播させ」(=精神的に屈服させ)ることが目的なので、ひとたび見つかればもう、見つかった側が全損、議論を吹っ掛けた側が気持ちよくなっておしまい、ということになってしまいます。先日、快楽殺人犯の本を読んだときにも思いましたが、見つかったら終わりです。そして、そういう人間に限って、この本で紹介されているような詭弁の手法を次々に繰り出してくるのです(読むとわかりますが、詭弁の手法は巧妙で、まともに戦うと勝てないことが多い)。

即堕ち2コマ

 別の話題にします。本書の中で、渡部昇一という人が書いた文章を取り上げて詭弁の手法を紹介していました。それがきわめておもしろかったので、ここに引いておきます。紹介されているのは「人に訴える議論」という型式の詭弁で、「その人の論そのものでなく、その人自身の欠陥を指摘することで説得力を失わせる」という技です。

…例えば、渡部昇一は、優れた英語学者であり評論家でもあるが、本人がその効果を意図してかどうかは別にして、しばしば「論」と一緒に、それに関する「人」の情報を併せあげる癖をもった書き手である。まずは渡部の青年時代の思い出話から始めてみよう。…(中略)

 (渡部昇一『英文法を知っていますか』から引用して)文法ノイローゼの学生だった私は、英文講読のときもよく質問した。先生によってはうるさがる人や、やめさせる人もいた。同級生の中にも私の質問のために授業の進行が遅れるというので、先生に「渡部の質問は無視して進んでください」と申し出た男がいた。

この「男」について、渡部は次のような情報を付け足している。

(ちなみにこの男は北朝鮮系で卒業後は朝鮮総連に入ったということをあとで聞いた。学生時代は日本姓だったので国籍はわからなかった。)(p.146‐147)

 次は渡部が教師になってからの話である。...(中略)

 (これも渡部昇一『英文法を知っていますか』から引用して)ベーコンと言えば私も三〇年ほど前に英文科の二年生で教えたことがあったが、その時、一人の男子学生が「なぜこんなものを読まなければならないのですか」と質問したことがあった。...(中略)...″ベーコンの随筆をなぜ読まなければならないのですか”などという愚問をするな」と逆に叱ったことがあった。

ところでこの学生は、その後どうなったか。

 (ちなみにこの学生は数年後に自殺した。)(p.148-149)

 今度は渡部の少年時代に逆戻りする。少年時代の、渡部の読書の趣味についての話である(『知的生活の方法』)

 (前略)...当時、少し早熟な少年の中には芥川龍之介のものを読んでいる人もいた。私も借りて、多少努力していくつかを読んでみたものであるが、どうもいやでなじめなかった。その理由はいまから見ると不健全だったからだろう。...(後略)

では、芥川を読んでいた「少し早熟な少年」はその後どうだったか。

 少年のころに芥川などを読んでいた近所の早熟少年は、中学時代に痴漢となった。(p.149-150) 

  この即堕ち2コマ感のある文が三連発されているところで、ケタケタ笑ってしまいました。たぶん、実際に引用元の本を読んでいたら、こういう話ばかりしているわけではないでしょうからそう気になるようなものでもないのでしょうが、こうして並べられると陰険だな~、と思ってしまいます。でも渡部自身はべつに、ただ単純に情報を書き添えただけで、二つの出来事のつながりは明示していないそうです。著者は、この節を次のような言葉で締めくくります。

 こうして見ると、人に訴える議論が詭弁であるとしても、そもそもそれを成り立たせているのは一体誰なのかという疑問が起こってくる。書き手が何ら直接に手を下さなくても、人についての情報を添えるだけで、読み手が勝手にそれを論の評価に使用してくれる。それと言うのも、先にも述べたように、人と論とは単純に切っても切り離せないからである。読者はそのことを、経験的に知っている。読者には、人でもって論を評価して、それで誤らなかった経験がある。そうでなければ、わざわざ人と論を混同して考えるはずがない。だから、われわれが、人に訴える議論という虚偽を犯してしまうのは、人に訴えることが虚偽でない場合がいくらでもあるからである。詭弁は、詭弁でないことがあるから、かえって人を欺く。(p.152-153) 

  これはかなり本質的なことを言っていると思います。うまくウソをつくコツは、本当のことをベースにすることだと聞いたことがあります。実際、本当ベースに少し混ぜられたウソを見抜くのはかなり難しいです。議論の中では、おおむね妥当なことを言っているところに少しだけ詭弁を混ぜるとたぶん勝率は高いでしょう。

 とはいえ、こんな風に人の著作からの抜粋を紹介して、陰険さを示すということも結構な陰険ムーブだと思いますが、おもしろいしなにより詭弁の型式を例示するためのものなので擁護しちゃいます。それに本書のあとがきには「科研費で研究させてもらっているが、その成果をこういう本にまとめて一般の人に役立ててもらわないと研究の意味がない」と書かれていました。この理念のまっとうさと、実際僕の役に立ったという点も擁護ポイントです。

詭弁の効能

最後にもう一つ印象的なところを。

…詭弁を学ぶことで、それを用いて議論の相手を翻弄することができる、という考え方も間違いである。 詭弁を学べば、詭弁を使うようになるのではなく、むしろ安易に詭弁など使えなくなる。自分が相手の詭弁を見分けられるようになったため、逆にこちらが詭弁を使っても、すぐに見破られるのではないかと恐れてしまうからだ。すでに述べたように、詭弁を暴露されることは、議論にとって取り返しのつかない一撃となる。だから、詭弁を学ぶことで、詭弁など使うことのない「堅気」の人間として生きることができるだろう。(p.13)

  詭弁を勉強するとまっとうになる、というのは強く感じます。ここで挙げられているような、暴露されることへの恐れもそうですが、僕の場合はなんかそもそも恥ずかしくて使いたくありません。それとわかって詭弁を弄するということは、対話の相手を下に見ているということにもなると思うのですが、そんな失礼なことあまりしたくないし、実際下に見ている相手だったとしたらそもそも議論なんかしないほうがいいです。それは記事の冒頭で触れたように、議論とは基本的に、「言葉で他人を支配し、自分の精神を伝播させようとする営み」だからです。

 

この著者の本は、前に読んだ『論より詭弁』と合わせて2冊目で、この本も大変おもしろかったです。『論より詭弁』のほうが好きですが。今後全著作を集めて読破するぞ! というようなバイタリティはありませんが、この人の本はもう何冊か読みたいです。残念なのは、この先生はけっこう若くして亡くなっていることで、もう新しい著作が読めないということです。

 

以上です。