この本を読みました。
先日読売新聞で、この本の著者の記事が載っていておもしろかったので買ってみました。
[あすへの考]<生きづらさの正体>社会の変化 現れる抑圧…慶応義塾大学教授 松沢裕作氏 43 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン
(読売オンラインの購読者じゃないと見られません)
明治時代はどんな社会で、そこにはどんな生きづらさがあったのかが描かれています。2018年に出た本で、そのころ起こっていた出来事と明治時代の出来事を比較しながら論を展開していました。安保法制の反対デモ(SEALDs)とかリーマンショックとか、生活保護叩きみたいな、記憶に新しい問題を口火にして各章の話が進んでいくので読みやすくておもしろかったです。
生きづらさがテーマの本なので、読んで明るい気持ちになるようなことはありません。いくつか印象に残ったことを、備忘のためにメモしておきます。
↓生活保護叩きについて
実際には、生活保護を受ける資格がある世帯の約八〇パーセントは生活保護を利用していません。一方、不正に利用された生活保護の額は、生活保護としてつかわれた金額の一パーセントにも満たない金額です。日本の生活保護制度の問題は、生活保護の網からこぼれてしまっている人の多さにあるのに、ごく一部の「ずるをして生活保護をもらっている人」のことばかりが注目されてしまっているのです。「助けが必要な困っている人がいること」より「自分は苦労しているのにラクをしている人がいること」のほうが、気になって仕方がない。私たちが生きているのはそのような社会であるといえそうです。(p. 47、第3章 貧困者への冷たい視線)
↓通俗道徳について
人が貧困に陥るのは、その人の努力が足りないからだ、という考え方のことを、 日本の歴史学会では「通俗道徳」と呼んでいます。この「通俗道徳」が、近代日本の人びとにとって重大な意味をもっていた、という指摘をおこなったのは、二〇一六年に亡くなった安丸良夫さんという歴史学者です。…(中略)…人びとが通俗道徳を信じ切っているところでは、ある人が直面する問題は、すべて当人のせいにされます。ある人が貧乏であるとすれば、それはあの人はがんばって働かなかったからだ、ちゃんと倹約して貯蓄しておかなかったからだ、当人が悪い、となるわけです。(p.72-73、第4章 小さな政府と努力する人びと)
↓アウトローの陥るわなについて
若い男性労働者の「あえて」通俗道徳を無視する、というカルチャーは、確かに「通俗道徳のわな」に対する一つの抵抗のしかたです。しかし、それだけでは「通俗道徳のわな」から逃れることはできません。
第一に、それは、単純に通俗道徳をひっくり返して反対のことをやっているだけだからです。「良い」とされていることをやらない、「不良」のカルチャーといってもよいと思います。世の中で良いとされていること「あえて」やらないという態度は、世の中で良いとされていることが何であるか、身に染みて分かったうえでの態度です。「世間の人はこういうのを悪いことだと思うだろうな」と、メインストリームのカルチャーを横目でみながら、浪費したり暴力をふるったりしているわけです。当然、そこには、劣等感がともないます。「本当は良いことを自分はやっていない」という劣等感です。「不良」のカルチャーは、「通俗道徳のわな」から自由ではないのです。
第二に、彼らが通俗道徳にしたがおうとしたがうまいと、社会全体が「通俗道徳のわな」に人々をはめ込むような仕組みになっている以上、事態はなにもかわらない、ということです。どうせ貯金できない状況に置かれた人が、いかに強がって「貯金なんてかっこ悪いぜ!」といってみたところで、世の中はなにもかわりません。むしろ、通俗道徳にもとづいて行動している人たちは、そのような暴れる若者たちを見て「ああ、あいつらはああやってまともな生活をしないからいつまでも貧困から抜け出せないんだな」と思うでしょう。それは「わな」に逆らっているように見えて、実は、「わな」を強化しているようなものです。残酷な事実です。暴動への参加者が若い男性に限られるのは、都市の下層民たちは年齢を重ねるにつれ、こうした残酷な事実を理解するようになるからです。自分たちがより豊かになる可能性が低いことを、彼らは経験を通じて知り、「自分の店をもち、一家のあるじになる」などという将来を夢見ることをやめます。もはやあえて暴動に参加して不満を爆発させることもなく、彼らはその日その日を生きてゆくことになるのです。(p.139-140、第7章 暴れる若い男性たち)
↓この世の絶望について
ただ、明治時代の社会と現在を比較して、はっきりしていることは、不安がうずまく社会、とくに資本主義経済の仕組みのもとで不安が増してゆく社会のなかでは、人びとは、一人ひとりが必死でがんばるしかない状況に追い込まれてゆくだろうということです。そして、「がんばれば成功する」という通俗道徳のわなに、簡単にはまってしまうということです。それを信じる以外に、未来に希望がもてなくなってしまうからです。(p.150、おわりに)
これは岩波ジュニア文庫の本ということで、子ども向けにわかりやすく書かれています。僕の子ども時代は、それなりにつらいことはあれどかなり安穏としていたので、高校大学とわりと素直に頑張ってこれたと思います。だから高校大学時代は自己責任論みたいな、いま振り返ると恥ずかしい行動指針に浸っていることができました。でも、子ども時代にこんなものを読んでいたらどうなっていただろうか。自分のこととしてとらえられずよくわからずに終わる可能性が高かったですが、もしもしっかりと意味を読み取っていたら、いまにつながるような感じでがんばってこれただろうか、と思います。ストレートに「がんばっても無駄だ」と思ってしまったり、「自分ががんばってうまくいっても、がんばってもうまくいかない人もいて、そもそもがんばれる環境にもない人もいて、なんて悲しい世の中だ」と思ってしまったりと、変にシニカルさを身につけて、一生ショボい冷笑の世界に引きこもることになっていたかもしれません。かえって、こんな世の中は変えなくては!と奮起していた可能性もありますが。
とはいえ、自己責任をつきつめるネオリベ的世界観は、ある程度恵まれている人にとっては社会的成功につながりやすい考えです。自己責任だからがんばるしかない、がんばれば成功できるんだ、というふうに、がんばることのモチベーションが自動的に供給されるからです。そのことを考察している次のブログは面白いです。
僕が最近抱いている恐れは、①「突然なんにもやりたくなくなってしまったらどうしよう」ということと、②「今の社会構造がどうしても我慢できなくなったらどうしよう」という2点です。本書で描かれていた「通俗道徳」は現代にもあって、恐れ①のような状態が現実になったら、僕のような雑魚は簡単に通俗道徳にすりつぶされてしまいます。恐れ①はいつ襲ってくるかわからず、しかも自分の意志の持ちようではあまり制御できない気がしていて、本当に恐ろしいです。
一方恐れ②も怖いです。差別やらなにやらが横行している世の中に生きていたら、それはそれは嫌になります。で、嫌さが積み重なって許容範囲を超えてしまっても、社会は絶対に個人では変えられないのです。そうなると退場(=自殺)するか生き残るかのどちらかということになりますがどちらを選んでも悲しい結末です。運よく社会構造に愛想をつかさずにいられればいいですが、これも自分の意志の持ちようでは制御できない気がしています。
しかし、この本だったり現在生きている人の語りだったりから「生きづらさ」の話を聞くといつも「生きづらくない時代はあったのか?」と思います。ある環境があったら、それは誰かにとっては生き残れないつらい環境で、他の誰かにとっては生きやすい環境です。じゃあ環境なんてなかったらいい、とか考え出すと、世界を滅ぼしたい魔王のようになってしまいます。
あまりかっこよくないですが、何も知らなければよかったと思うことがあります。でも、知らなければよかったと思うことは往々にして、知らなきゃいけないことだったりするのです。ままならないですね。
おわりです。