ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:「なかったこと」にすればいい『ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理』

この本を読みました。

ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理

ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理

 

  「ミソジニー」という比較的新しい概念があります。日本語では「女性嫌悪」と訳されていて、読んで字のごとく、「女性が嫌いな人の振る舞い」と理解されていると思います。本書でも、そういった理解がされているよね、ということが書かれています。

この概念の一般的で辞書的な定義――本書ではそれを「素朴理解」と呼ぶことにする――によれば、ミソジニーは第一義的に、ある個人(かならずしもそうとはかぎらないが、典型的には男性とされる)のもつ、以下のような属性を指す。当該個人は、各々そしてすべての女性、または、女性一般に対して、彼女たちが女性であるというただそれだけの理由で、嫌悪、敵意、またはそれに類する感情を抱く傾向を有する。(p. 59 、第一章 女たちを脅す。太線部は本来傍点。以下同。)

 しかし著者は、この「素朴な」ミソジニー概念は欠陥だらけであり、ミソジニストの実在を否定してしまうことを指摘します。

...「ミソジニストは女性という女性を嫌悪する」という主張にたいして、かならずしもすべての女性を嫌悪しないようなミソジニストが存在するではないかと反論したとする。すると、「本当のミソジニストにはそんな人物はいない」という再反論が、まずまちがいなく返ってくるというわけである。(p.75、第一章)

 というわけで、ミソジニーの素朴理解にもとづけば「ミソジニーなんて存在しない」ことになってしまうのです。そもそも、素朴理解では、「彼の内心を知ること」がその定義に不可欠なので、「彼」が「そんなこと思っていない」と言った瞬間に、彼はミソジニストではなくなってしまいます。女性を重点的に狙った無差別殺人を起こした人でさえも例外ではありません。そしてこのような素朴理解によって、ミソジニーが「なかったこと」になることが、ミソジニストたちの大きなアドバンテージになっている(だってミソジニストじゃなかったら、誰にも文句を言われる筋合いがないので)。
 本書では、この「なかったこと」にするという特徴を含むさまざまな事例を取り上げながら、ミソジニーとそれに付随する差別的な思想の姿を描き出していきます。本書を読むことで自分のなかでこれまであいまいだった概念や、事例の解釈などがはっきりしました。蒙を啓かれたと感じた部分を中心に、感想を交えながら備忘録としてまとめていきます。
 ちなみに、本書ではミソジニーが中心テーマですが、差別構造一般の理解を深めるのにも大変役に立つ本だと思います。

 長くなったので、目次を付けておきます。

 

この本では何をやっているのか

 この本では「ミソジニーという概念を再構成する」ということをやっています。女性のみならず弱い立場の人は当然のようにさまざまに不当な扱いを受けるわけですが、その一つ一つには名前がありません。そしてそれはなぜかというと、時の支配者(たち)がそれを問題にしない、というか、その支配者にとっては「問題ではないから」です。しかし幸運にも(本当に幸運なのはそんな概念が存在もしない世界ですが)、筆者はいま「ミソジニー」という概念のある世に生きている。しかし、上述のように、いまはまったく役に立てられない概念となっている。そこで、本書を通してミソジニー概念を再構成し、武器をそろえようとしています。

性差別主義とミソジニーは違う

 筆者は、性差別とミソジニ―は違うものと考え、定義します。簡単にまとめると、次のようになります。

  • 性差別主義:男性と女性を区別する考え方
  • ミソジニー:良い女性と悪い女性を区別し、後者を罰する仕組み

 この考えによると、ミソジニー的な女性が存在しうることになり、そして実際にそういう人もいるという話が展開されていきます。

女に貸しがある(不当な権利意識のこと)

 ミソジニストたちはどうして女性にいらだちを抱くのか、筆者はその原因を次のように指摘します。

 男性、ことに特権階級と呼べる層の男性の中には、女性には貸しがあるという感覚の持ち主がいるようだ。(p.152、第四章 彼の取り分を奪う)

 このような「不当な権利意識」が、本書の議論にきわめて重要になります。たとえば、プログラミングでコードを書いたけどコンパイルエラー、テストで自信満々に回答したけどバツだった、バスが8:05に到着すると思ってたのに8:10になっても来ない…。これと同じく「女が思い通りにならない」。まさにこれがミソジニストの苛立ちの源泉だ、と筆者は指摘しています。「女は生まれながらにして持っている義務を果たし、俺の思った通りに動くべきだ」という権利意識が、ミソジニーを駆動させているというのです。この指摘には現実的な納得感があり、そして多くのミソジニー的現象を確かに説明できる、と感じました。
 さきほど書いたミソジニー的な女性も存在しうる、ということも、この「不当な権利意識」からよく理解できます。「男は女に貸しがある」=「男は女から受け取る権利がある」ということですが、その意識のもとでは女は生まれながらに男になにかしら(家事労働とか細やかな気配りとか)を与えなくてはなりません。そういうことになっている世界で、一部の「女」が与えることを放棄したらどうなるのか。「受け取る権利を持つ男」は怒り出す(受け取れない+やるべきことをやっていないから)、「与える義務を果たしている女」も怒り出す(自分の仕事が増える+やるべきことをやっていないから)。そもそも与える/受け取るの関係は固定されているべきではないのに。
 「男は女に貸しがある」なんて変だしそんなことが認められて社会が出来上がっているのはおかしなことだ、と思います。が、少し考えると、あまり破綻なくメカニズムを想像できるのです。
 たとえば「特権階級の男」が「不当な権利意識」をもっているとします。ある種の女の人にとっては、その男の庇護を受けることはメリットです(特権階級で金持ちだし権力もあるので)。だからその女性は進んで「与える役割」を買って出ます。そして、その男がミソジニストだったとしても、その女性が十分に献身すれば、暴力的な側面は表面化せずに「夫婦」として存続します。そんな二人が夫婦なら、子どもができればその子は受け取る父、献身する母を見て育ちます。そんな家庭が一定数あれば「ミソジニー」の思想は受け継がれていきます…(だってそれが「普通(=数が多い)」だから)。

 こんなメカニズムを考えてみたら、いま日本で自民党が(意図しているしていないとにかかわらず)家族の単位を強調したメッセージを出していることやその帰結が恐ろしく感じます。パターナリズムの被害を目に見える形で受けている人やそれに近しい人の激しい拒否反応もしかたがないと思えます。

  ここまでからわかるように、現代社会はミソジニーが発生しやすい仕組みになっています。とはいえ筆者は、だから現代を生きる男性はすべてミソジニストだと言っているわけではないことには注意が必要です。先に紹介したように、ミソジニーを内心の問題にしてしまえば「彼は本当のミソジニストではない」で終わってしまいます。そこで筆者は「目に見えるふるまいでミソジニー行為かどうかを判断し、必要なら告発するための定義が必要だ」と言っているのです。

ミソジニー行為は「非人間化」していない

 心理学のなかに「非人間化」という概念があります。たとえばいじめとか戦争で、ひどいことを相手に行う際、相手を人ではないものと考えるようになる、という現象です。女性に対してDVで首を絞める、脅迫する、強姦するなどといった行為は、相手をモノと見なしているからこそ行えることだ、というのは納得しやすいかもしれません。
 しかし著者は、ミソジニーやその他の差別行為において、この考え方は当てはまらない、と指摘しています。特に印象的だったのは次の記述です。

 まず指摘できるのは、非人間化する言語(dehumanizing speech)は強力にコード化された社会的意味を自ずと獲得するので、脅迫、侮辱、貶価、卑小化などの機能を果たしうるという点だろう(Manne 2014b)。…(中略)…ファーガソンの白人警察官の一人が、(中略)黒人デモ隊を「犬畜生」と呼ぶとき、警察官はこの比喩を使ってデモ隊の人々を卑しめ、貶めつつ、彼らに対する自らの優越を重ねて主張する。...(中略)...そうしたこき下ろしは、人間以外の本物の動物にたいして向けられるならば、ほとんど要領を得ないだろう。...(中略)...こき下ろしが成立するには、人間的な理解力に加えて、そこから引きずり下ろされることになる人間的地位を、その対象が有していることが必須だからである。本物のドブネズミを「ドブネズミ」と呼ぶことに異論のあろうはずがない。(p.217、第五章 ヘイトを人間化する)

※引用文中の文献情報:Manne, Kate. 2014. "Punishing Humanity."Op-Ed. New York Times. The Stone, October 12. 

https://opinionator.blogs.nytimes.com/2014/10/12/in-ferguson-and-beyond-punishing-humanity/

 このあたりを読みながら、ミソジニストは逆に「自分が非人間化されている」と感じているのではないか、と考えました。その理屈はこうです。

自分がもらえて当然と思っていることを受け取れない→人間として扱われていないと感じる→腹を立てる→ミソジニー的行為に乗り出す

 本書では、全然モテないナードが女子寮に殴り込み、女性を中心とした無差別殺人に及んだ後に自殺するという事件(アイラ・ヴィスタ銃乱射事件)がことあるごとに取りざたされます。この事件の犯人、エリオット・ロジャーは、この事件直前にYoutubeに犯行予告動画をアップしているのですが、そこでは「自分がモテないのは女のせいである」ということが、大仰な修辞を弄してくどくどと説明されているそうです。ここから、「自分は男なので女を従える資格があるにもかかわらず、それが与えられないなんて不当だ」という「不当な権利意識」が透けて見えるわけですが、まさにロジャーは「非人間化されたと思い込んでいる」と解釈できます。

 実際自分を振り返ってみると、イライラしたり他人と衝突するときの原因は、「思い通りにいかないから」という理由に還元できる気がします。ミソジニーに限らず多くの差別の現場にはこの「思い通りにいかないから」を正当化するための言辞のバリエーションが多く存在します。じゃあなんで思い通りにいかないとイライラするかというと、思い通りにいって然るべきという前提(=権利意識)があるからではないでしょうか。そういう意識は多かれ少なかれ誰もが抱きうる感覚ですが、ことミソジニーについては、その前提が社会に埋め込まれていることが問題だ、と著者は指摘しています。
 ただし、僕個人的には「非人間化ではない」という命題に納得するんですが、非人間化の理論の蓄積をよく知らないので、本当に妥当かどうかは正しく判断できてません。

「恥」の観念が駆動するミソジニー

 ミソジニーの駆動力となっているのは「恥」の観念であるという指摘もありました。

...伝統的に男子校だったシタデル軍事学校(サウスカロライナ州)についてのスーザン・ファルーディ(Faludi 2000)の調査によると、一人の女子訓練生の入学にかんして、男子訓練生はきわめて否定的で、じっさい、その決定に激怒した。…(中略)…彼らは彼女を手ひどく扱い、たった一週間で彼女はシタデルを去った。

 男子訓練生にとってとくに重要だったのは、(a)彼女の面前で、上級訓練生に叱責されるかもしれない可能性、(b)女性にコード化された家事を、女性の面前で、彼女の代わりにこなさなくてはならない可能性、そして、(c)泣き崩れたり、男どうし互いに慰めあったりする様や、これは日常的であったようだが、繰り返されるしごきの合間に優しく宥めたりする様を、彼女の面前に晒さなくてはならない可能性である。(p.161、第四章 彼の取り分を奪う)

※引用文中の文献情報:Faludi, Susan. 2000. Stiffed: The Betrayal of Modern Man. London: Vintage.

 ここで引いた出来事とその分析は、まぁあるだろうな、と思いました。

    このあとに「恥の種類」についての言及があったのですが、それが特に興味深かったです。かいつまむと恥には、「隠れたい」という感覚と「世界の目を破壊したい」という感覚の二通りあり、ミソジニーを理解するうえでは後者の感覚が大変重要になってくる、という指摘です。

 第四章の中ほどでは、事業に失敗したりして一家心中をする男性の事例を紹介しています。そこで、一家心中(=自殺にとどまらず、他の家族を殺してしまう行為)に乗り出す心理には「妻や家族の敬愛を失うことへの恐れ」があることを指摘しています。ここで悲しいのは、恥を作り出しているのはミソジニーを支える観念そのものであるということです。どういことかというと、ミソジニーには「受け取る男と差し出す女」という中心的な思想があり、そこには隠れた条件として、男が威張れる根拠(多くは経済力)がやはり必要です。でも、事業の失敗などで自信の根拠を失い、そんな自分が恥ずかしくなる。そうして恥の発生源である妻を手にかけるというわけです。次の記述が印象的です。

父親は十中八九、経済危機からの唯一の逃げ道として自殺の可能性を検討します。家族を殺すことは、破産や主人の自殺という恥辱と苦境から家族を救う方法となるのです。(p.170、Skipp, Catherine. 2010. "Inside the Mind of Family Annihilators." Newsweek, February 10. https://www.newsweek.com/inside-mind-family-annihilators-75225からの引用)

 巻き添えを食う家族からしたらたまったものではないですね。もちろん、妻や子がいて仕事を失ったら、その後の生活は一筋縄ではいかないでしょうが、一家心中に乗り出すというのは、妻子を所有物と思っているような感覚を覚えます。

ヒムパシー(「彼」は同情してもらえる)

 ヒムパシー(Himpathy)とは、著者の造語で、彼へ(him)の同情(pathy)という二部分からなる語です。第六章「男たちを免責する」で紹介されていた、ヒムパシーの事例はひどいものでした(しかし、ありえるだろうな、とも思えます。それが怖い)。アメリカの大学で起きた、男子大学生によるレイプ事件が紹介されていました。将来を嘱望される男子大学生が「何かの間違いで」犯してしまったレイプに対し、「犯人の将来にもたらす影響が憂慮」され、「標準に比してきわめて寛大な判決」が出たという事件です(レイプ事件以上に全体的な出来事が事件だな、と思えます)。

…公判から判決を通して、ブロック・ターナー(引用注:レイプ犯)の水泳選手としての卓抜した能力が報じられた。それでも、父親のダン・ターナーは裁判結果に不満だった。息子に服役はいっさい必要ないと信じていたのである。二〇年間にわたって非の打ちどころのなかった息子が犯した犯罪は「たった二〇分間の行ない」にすぎないと、ダンは記している(WTW Staff 2016)。(p. 261、第六章 男たちを免責する)

 明らかに犯人に同情の余地がない条件にもかかわらず、上記のような状況になる――これが「ヒムパシー」です。著者はこういう状況において、「レイプ犯は通常薄気味悪い男のはずで、ターナーのようなイケてるメンズは生来のレイプ犯ではないはずだ、という考えが起こりがちだ」と指摘しています。そしてもう一つの特徴として、犯人を擁護する人々の語りの中に「被害者が登場しない」ことも指摘されます。
 ここにも「なかったことにする」という構図が見えています。ここで取り上げられている「なかったことにする」手法はかなり巧妙です。被害を訴えて相手に罰が下るまでに、被害者が乗り越えなければならないハードルがいくつもあり、そしてそのどれもが決して低いものではありません。「本当にそんなことがあったんですか?」「本当に合意はなかったんですか?」「本当にされたことを覚えているんですか?」「その証言は本当ですか?」。そしてすこし油断すれば、被害者にも落ち度があったという話に持っていかれます。大変なことです。

 最近告発があったカリスマ編集者箕輪さんの不愉快な事件にも、「ヒムパシー」的な動きは見いだせますね。

「プッシーわしづかみ」発言(トランプ大統領の悪口)

 ここで、おもしろかった著者のユーモアを一つ。トランプ大統領の「(有名人の女性に対して)なんだってやれる。プッシーわしづかみだろうとなんだろうと。やり放題だ」という録音がリークしたという報道がありました。その発言に対する著者のツッコミが面白かったです。

 たしかに、男たちはこうしたかたちで女性に性的暴行を加える。だとしても、彼は自らがこんなことをしている姿を想像するだろうか。「つかみどころ」がなくて、わしづかみするには厄介な場所ではなかろうか。(p. 271、第六章) 

  ほんとですね。

どうすべきか (自分の感想)

 本書執筆のリサーチをしながら、私は徐々に希望を失っていった。人を説いてミソジニーについて真剣に考えてもらうこと――それが道徳的優先事項であるときには相応に扱ってもらうことも含めて――、そんなことができるのだろうか。耳を傾けてくれるような人だったら、とっくにそうしているのではなかろうか。...(中略)...ミソジニー行為に注意を引こうとすることは、ミソジニーという現象それ自体からすれば、不正なことである。女性は自分自身のために道徳的注意や配慮を促すよりも、むしろ他者に助けを差し出すものとされるからである。 (p.365-366、結論 与える彼女)

  正直いうと、本書に書かれている実際にあったいろいろな事例は、目を覆いたくなるくらいひどいものばかりです。そして多くの事例で通底しているのは「なかったことにすればいい」という加害者の態度です。とくに、女性は性的な被害を受けることが多いですが、性行為やそれに類することは通常人の目に触れるような場では行われません。そして社会の構造は「ヒムパシー」に代表されるように、男の言い分が信用されたり同情されやすい…。したがって、被害を告発したとしても「証拠がない」「証言の信頼が得られない」という2点(しかも根拠は女だからということ)によって、事件はなかったことにされてしまう。
 ミソジニーも、「素朴理解」によってミソジニストの存在が「なくなる」。素朴理解によって事件の犯人が「ミソジニストではない」とされても、犯人は相応の罪で罰されるからいいのでは、という考え方もあるでしょうが、しかしそれは誤りだと思います。ミソジニスト的な犯罪である、と認知されることが重要なのです。そうすることで、筆者が本書で紹介したような数々のミソジニー行為に対する注意ができるので。

 

 本書は、テーマこそ女性問題ですが、指摘されている問題点や構造は、女性問題に限りません。人種差別や経済格差差別、その他あらゆる差別に、今回の議論を当てはめて理解することができます。恐ろしく、悔しく、そして問題であるのは、その構造の維持に、自分も多かれ少なかれ加担してしまっているということです。過去を振り返れば、ミソジニー行為と見なせる自分の行動が次々に出てきて、穴があったら入りたいくらいです。そして、こうしてミソジニーについてちょっとばかり知ったからといって、これから完全にミソジニー行為をしないようにできるのかというと、そうはならないでしょう。筆者も指摘していますが、子ども向けの絵本やお話のなかにも、ミソジニーを促進する価値観がふんだんにちりばめられており、ミソジニーが蔓延しやすい環境を逃れて人が育っていくということは現段階ではありえません。
 たとえばいま、アメリカで黒人差別の問題で混乱が起きています。アメリカでの黒人差別の実情を僕は体感できないので想像するしかありませんが、差別する側とされる側が、差別が生じやすい社会の中で暮らすことを余儀なくされているのです。それは本書で語られていた、ミソジニストと女性の関係に重なる部分が多い。
 構造を大きく変えるのは難しいし何世代もの尽力がいるでしょう。しかし、「なかったことにする」のは一番卑怯でダサい、と感じたので、それだけはまずしないように、上がっている声はちゃんと聞く、ということを心がけながら暮らそうと思いました。

ほかの書評など

note.com

 ↑のnote記事で、本書の要約レジュメが公開されています。このnoteは実際にホンを手元に置かないと読みにくいかもしれませんけど、熱心な勉強会の記録なので、役立てられる人はいるんじゃないでしょうか。

gendai.ismedia.jp

 本書で解説されている「ミソジニー概念」のポイントをきれいにま とめている記事で、わかりやすいです。

横路佳幸(南山大学社会倫理研究所)による書評(Journal of Science and Philosophy, 3(1), 2020)

 分析哲学の専門家として本書の長所や短所を、専門的に解説。うまく本書の概念を日本で適用できるかとか批判、改善提案など読みごたえがあります。

備忘のメモ

 最後に、覚えておきたいと思った箇所を引いて終わりにします。

...女性を人間として認知しないことがかならずしもミソジニーを生み出すわけではないし、しばしば両者は無関係であるということである。(p.12、はじめに 道を誤る) 

「沈黙は金なり」。女性を窒息させた上に、彼女がものを言わないように脅し、事件後も変わらず調和が続いているかのように彼女に語らせる男たちにとって、まさに沈黙は金である。沈黙は被害者を孤立させ、ミソジニーを可能とする。(p.40、序論 前言を取り消す)

↑DV被害では男性が女性の首を絞めることが多いということと、DV被害は告発を妨げられたり(脅迫めいた言葉をかけられるということです)、一度告発されても取り下げさせられたりする、ということを踏まえたもの。

...観念的で普遍的なミソジニー経験なるものの想定は、私の見解には存在しない。(p.41、序論) 

...本書で取り上げる問題はどれを取っても道徳的に中立であることは不可能である。(p.53、序論)

↑あらゆる道徳的問題に言えることだと思います。

...「素朴理解」は、...(中略)...ミソジニーであるかどうかをきわめて診断しがたいものとする。このことは、とりわけ女性にとってミソジニーを認識的に接近不可能とするおそれがある。つまり、ミソジニーと思われる行為に直面した場合に、自分がミソジニーに遭遇したということを女性が知る、つまりそのことについて正当化された信念を獲得し、それにもとづいて申し立てを行うための必要手段を、奪われるおそれがある。(p.70、第一章 女たちを脅す)

ミソジニーの辞書的な意味に対して筆者が抱いている問題意識です。

...ミソジニーとミソジニストの「素朴理解」が受け入れられると、なぜある環境内においてミソジニーが稀有な現象となるのか、その理由を理解するために、次のことを考えてみてほしい。典型的な家父長制的環境に属する男性が、女性と日々やりとりがあるにもかかわらず、普遍的に、もしくはきわめて一般的に女性を嫌悪するなどということが、ありうるだろうか。それどころか、フェミニズムとはおよそ縁もゆかりもないような男性であっても、幾人かの女性、すなわち、彼の利害に友好的に仕えてくれる女性には満足していると考えるのが妥当ではなかろうか。そうした女性に敵意を向けるのが、対人関係の面で不作法でもあり、道徳的にも肯けないという二重の意味で問題含みだというだけではない。もしそんなことがあるとしたら、道徳心理の観点からきわめて奇妙ではないだろうか。単刀直入に言わせてもらえば、自分の望むところを忠順に、しかも喜んで叶えてくれる女性のどこが、気に入らないというのだろうか。(p.73-74)

...言い換えれば、公的生活において一人の女性に向けられるミソジニーは、「この女の後に続くこと、公けに援助の手を伸ばすなどはもってのほか」という、他の女性に対する警告として機能しうる。(p.156、第四章 彼の取り分を奪う) 

「笑ってよ、お願いだからさあ」。これは表向きはさほど侮辱的な言葉と思われないかもしれないが、女性の顔からはその内面は容易に読み取れるべきであるという、狡猾な要求の表現であることに変わりない。(p.160、第四章) 

 ↑は、子どもへの応対でも同じことが言えるし、差し控えようと思いました。

↓ここから続く二つは、ミソジニーと「非人間化」は関係がない、という文脈です。

 ...「同じ人間」というのは、あなたやあなたの所有物との関係において、たんに配偶者、親、子、きょうだい、友人、同僚などとして考えうる存在であるだけでなく、競争相手、敵、強奪者、反抗者、反逆者などとして考えうる存在でもあるということだからだ。さらに言うならば、合理性、行為者性、自律性、そして判断力などの能力を有することにおいて、彼らはあなたに何かを強いたり、あなたを操ったり、あなたの面目をつぶしたり、恥をかかせたりできる人物である。(p.200、第五章 ヘイトを人間化する)

...誰かを自分の競争相手もしくは強敵とみなすために、相手を軽んじる必要はない。じっさい、事はまるで反対で、競争にかかわる領域における相手の長所を認めていなければその相手と競い合うことはその内在的な(外在的でないとすれば)価値を失いかねない。また、競合は健全なものでありうる一方、悪意に満ちたものでありうる。競合関係は友好的でありうる一方で、激しい悪意をともなうこともありうる。(p.207、第五章。太字部は実際は傍点、以下同)

↓の二つ。上位集団と下位集団があったとき、下位集団は下位集団であるという理由で発言権を奪われるということです。

...証言的不正義とは、典型的には、下位集団の成員が何らかの事柄について、またはある特定の人々に抗して主張を行なうときに、信用性において劣ると見なされ、その結果、知識保有としての認識的地位を彼(彼女)が当該の下位集団に属するという事実を通して説明されるような仕方で、否定されるという事態を指す。(p.249-250、第六章 男たちを免責する)

...信頼性欠損(そして、その過剰)は、しばしば上位集団成員の現在の社会的位置を支え、既存の社会階層において彼らが転落しないよう保護する機能を果たすというのが私の考えである。(p.259、第六章) 

男性優位社会においては、私たちはまず男性のほうに同情し、事実上、彼を彼自身が犯した犯罪の被害者に変えてしまう。というのは、水泳奨学金と食欲を失ったということで、まずレイプ犯に同情が示されれば、この物語では彼のほうが被害者として登場することになるからである。(p.265、第六章) 

 ↑ヒムパシーのところで紹介した話の、衝撃的な部分です。彼は、レイプを告発されたことで深く傷つき、大好きなステーキも食べられなくなっちゃったらしい。

 したがって、女性が「被害者を演じている」「ジェンダーカードを切ってきた」、もしくは、過剰に劇的であると感じるとき、私たちには自らの直感について批判的、懐疑的態度をとるべき理由がある(Schraub 2016)。彼女の行為が際立つのは、彼女が正当な取り分以上のものを要求しているからなのではなく、こうした文脈で女性が正当な取り分を要求することに私たちの側が慣れていないということなのである。(p.302、第七章 被害者を疑う) 

※引用文中の文献情報:Schraub, David H. 2016. ”Playing with Cards: Discrimination Claims and the Charge of Bad Faith.”Social Theory and Practice 42, no. 2:285-303.

↑「慣れてないから」というのは意識すべき視点です。奴隷制があったときも、奴隷制がない状態に人々は慣れていませんでした。

 シルヴァスタインの言葉を読んでいて、私は心の底から敗北感を覚える。ミソジニーを下支えする中心的力学の一つは子ども向けの詩やベッドタイム・ストーリーという手段を通じてばらまかれてきた。それは子どもたちがまだ幼稚園に行きはじめる前にすでに重んじられているのだ。(p.382、結論 与える彼女) 

 ↑シルヴァスタインは、本書でたびたび引用される絵本のストーリーや詩の作者。結末が伏せられてるものがあったので、つい買ってしまいました。欲しい人いたらタダであげますので連絡ください。↓

おおきな木

おおきな木

 

 

以上です。重い本を読むと忘れてしまうのがもったいなくて引用ばっかりになってしまう。