ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:文章を書くことについて『伝わる文章の書き方教室』

 この本を読みました。

  これは、以前の記事(13歳からの論理ノート)でも言及しましたが、僕が信頼する倫理学長門さんの(大学生に)オススメしていた本の一つです。

  オススメされていたのは以下の三つです(元ツイートは消えてるかも)。

 この3冊は文章で言いたいことを言うのに必要な情報がまとめられた素敵なセットでした。誰かに文章の書き方を相談されたら(ないでしょうが)、僕もこれをオススメします。

 さて、この本の「おわりに」には次のように書いてあります。

「書き換えトレーニング」とは、漢字2字で言い換えれば「推敲」のことです。本書は、文章の推敲を勧め、その方法を伝授するものでした。(p.190、おわりに) 

 本書は、推敲の際に気をつけるべき10個のポイントがまとめられている本なのでした。僕自身が書くまとまった文章はこのブログくらいなものですが、仕事では人の文章をわかりやすいものにするために文章を読むことが多いです。なので、執筆者からもらった文章にどういう指摘をするべきかとか、そもそも指摘が必要か不要かの判断基準にできて役に立つなぁ、と思って読みました。

 

 ところで、世のあらゆる文章を読むときにいつも思うのは、「言いたいこと」があることがなにより大切だ…ということです。どんなに文章の書き方を学んで形式がきちんとした文章を書いていても、「言いたいこと」がない文章はまったくおもしろくありませんし、読後感は「何を言いたいかわからなかった…」となりがちです(何も言っていないので当然なのですが、読み手としては「筆者は何か言いたいことがある」というつもりで読むので、読み落としているのかも、とか高度すぎてわからないのかも、と思わせてしまい無駄に時間を使わせてしまう。悪魔の証明)。恐るべきことに、ネットや印刷物で商業的に発表されている文章であっても、紙面を埋めるためだけに書いたと思われる「言いたいことのない文章」がよくあって、時間を無駄に奪われます。一方、言いたいことのある文は多かれ少なかれ読ませる力をもっていて、おもしろい文章になりえます(おもしろくないときもあります)。

    そういうわけで、この本を読んだだけではいい文章を書けるようにはならないだろう…と思いました。「言いたいこと」の見つけ方は書いてないからです。たとえば小中学生の読書感想文なんかは、言いたいこともないのに書かされるのでひどいものにならないはずがないのです。でも小中学生だって、言いたいことがはっきりしている子はおもしろい作文を作っています(新聞にたまに載ってる作文コンクールの文なんかはおもしろいときがあります)。

 

 とはいえ、筆者は本書で次のように述べていました。

 ...私を含め、教師が望む文章とは、むしろ、筆者も、読者も誰もが「当然だ」と認められることだけを書いた文章です。
「当然のこと」と言っても、「雨の降る日は天気が悪い」などという、読者がすでに知っていることを書くのではありません。ひとつ、分かりやすい例を挙げましょう。
 いつの頃からか、銀行の現金自動支払機(ATM)の前などで、「フォーク並び」が採用されはじめました。複数の支払い機の前に並ぶのでなく、一列に並んで、先頭の人から順に空いた支払い機に進む方法です。誰かが、「この並び方のほうが早い」と指摘したのです。
 今でこそ、フォーク並びは誰もが当然だと思っていますが、その指摘は画期的でした。
 論理的な文章で扱ってほしいのは、こういう「当然のこと」です。(p.146-147)

  これが一番重要であり、しかしとても難しいことです。ちなみにここでいう「当然のこと」とは、僕がここまで書いてきた「言いたいこと」のうちの「おもしろいこと」であると僕は考えています。でも本書にはこの「おもしろいこと」の思いつき方は書いていません。本書は書きたいことがあったとき、どうやって読み書きしたらよいかを説いているだけです。
 「言いたいっぽいこと」を書くことは簡単でも、本書にあるような「当然のこと(=おもしろいこと)」を書くことは至難です。(商業的な製品であろうと学校のレポートだろうと、あらかじめ決めたスケジュール通りに更新しようとしたブログだろうと)多くの文章は〆切に追われて提出することになる文章です。そうした文章は往々にして「言いたいっぽいこと」が書かれた文章になってしまうものです(そうなっていない人はライターや評論家として存在感をもっていることでしょう)。でも、そういった文章でも、本書で指南されているような方法に則って推敲されて提出されていれば、まぁOKだと個人的には思います。形式がしっかりしていれば言っていることがひとまず労力少なく読み取れて、内容の良し悪しの判断が比較的すぐできるからです。

    一方で、「いかめしい言葉でつまらないことを言っている文章」と「長々とつまらないことを言っている文章」は読み終わったあと腹が立ちます。この2種類の何が問題かというと、時間が無駄になることです。まず「いかめしい言葉でつまらないことを言っている文章」には、難解な文を脳内で変換する作業が少なからず必要です(頭のいい人には不要な作業なのかもしれませんが)。そもそも初めから読みやすく書いてほしいですが、そこは我慢するとして、言っている内容がつまらなかったら脳内変換はただの徒労です。おもしろい内容だったら脳内変換の作業もいくらかの充実感が伴って気持ちいいのでいいです。困るのは、いかめしくしておけば高尚になると思っているとしか思えないような文章がたまにあることです。頑張って読んだのに内容がどうしようもなかったときの悲しい気持ちといったら。
 「長々と述べる」のほうはサイアクで、字数を水増ししたり本のページ数を整えるためだけの文字の羅列である(ように見える)ことが多く、そういう文は言いたいことがなかったりします。蛇足も蛇足で蛇が100本足になって胴体はどこかへ飛んでいき、100本の足だけが高速道路を走っているようにさえ感じられてきます(それはおもしろいか)。たとえば、コロナウイルスの感染者がどんどん増えていって国中不安だったときに長々とした文章がいっぱい出ていましたが、まとめると「不安だよね、それに政府ってバカだよね。手を洗おう」くらいのことしか言ってないものが多かった印象です(僕の読解力が低かっただけかもしれませんが)。

 しかしこの2点の特徴をもった文章は生まれ続けるだろうという確信があります。それはなぜなら、いかめしくまたは長々と(もしくはその両方の特徴を備えて)書いてあっておもしろい本(=本書の言う「当然のこと」が書いてある本)はすばらしいからです。おもしろい文章には、長い時間をかけて読む価値があり、さらにそれがいかめしく長々としていると逆にそれがその本の価値を高めたりするし、需要もあるからです。そういうわけで、いかめしく長々としたおもしろい文章を目指して書かれたものの、いかめしく長々としたつまらない文章になってしまった文章が次々と生まれてしまうわけです。
 でもそもそも、おもしろいことが次々と湧いてくる人なんてそういません。『〆切本』(左右社)なんかを読むとわかりますが、大作家でさえ〆切に間に合わせられずに汲々として、すったもんだの末に原稿を提出するわけです。大作家が書いた原稿であればある程度読めるものになるでしょうが、凡百の物書きが〆切に追われて出す文章がおもしろいはずがないのです(もし〆切に追われてやっと出した文章がおもしろかったら、その人は凡百じゃないです)。というわけで、結局何が言いたいかというと、この本で解説している文章作法は役に立つ、ということです。本書の指南に従って書かれた文章なら、書く内容がおもしろくなくても、読んでくれる人の時間を無駄にする量が減らせるからです。当然ながら、書く内容がおもしろかったら簡潔で素敵な文章になります(いかめしく長々としたおもしろい文章を書くには別の訓練が必要ですが)。

 この文章がブーメランとなって自分に複数本突き刺さることは覚悟しつつ、感想を記しました。おわりです。

    (ちなみに、この文章では、本書が有用だということにくわえて、おもしろい文章を読みたくておもしろくない文章は読みたくないということが僕の「言いたいこと」です。伝わったでしょうか)