ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:チョムスキーはどのような人物なのか『我々はどのような生き物なのか』

 この本を読みました。

  この本は、書店で見かけて「え、我々はどのような生き物なのか知りたいんだけど」と思って買ったものの読まずに放置し続けていたものです(4年半も)。一個前の記事で読んだ本(ピダハン)で、言語学にふれ、チョムスキーというすごい人がいるということを改めて意識しました。そうすると、あぁそういえばこんな本を買ったんだったと思いだして読むことにしたという次第です。

 それにしても、この読書体験は、「本には読むべきタイミングってやつがあるもんだな」ということを改めて感じさせてくれるものでした。ここ7~8年、自分の興味の対象や人生に対する考え方がめまぐるしく変わっています(好奇心旺盛と言えば聞こえはいいですが、飽きっぽいとも言えます)。ちょうどいま、人文学や社会科学に興味がある時期で、この本に書いてある内容が自分の興味とドンピシャでマッチしていたのです。4年半前とは比べ物にならないスピードで、おもしろさを感じながら読み切ることができました。正直、4年半前の自分では持て余したのはしょうがないな、と思います(今以上に見識が浅かったので)。

 さて、この本についてです。この本は、2014年のチョムスキー来日講演の書き起こし、その際に行ったインタビュー、そして編訳者による「チョムスキーの思想について」という論考の3部分からなっています。収録されている講演は、言語学の講演ではなく「我々はどのような生き物なのか」という壮大なタイトルの講演です。当然言語学の話もしますが、本当に、我々はどのような生き物なのかが語られています。そしえ本書の編訳者である福井直樹・辻子美保子両氏の論考では、「チョムスキーとはなんなのか」ということがわかりやすくつづられています。

 この記事では、この本をおすすめする理由と、備忘のためのメモとして感想をつけながらいくつか引用していきます。

この本の何がいいんですか?

 この本のすごいところはなんなのか、というと、言語科学者として著名なチョムスキーの姿を、社会思想家のチョムスキーとあわせてみることができるようにまとめてある点です(と、本のなかに書いてあります)。

 僕自身がもともと持っていたチョムスキーの知識は

  • 「地球上のすべての言語は、ひとつの言語の方言にすぎない」と言ったらしい
  • チョムスキーの打ち立てた「生成文法」理論によれば↑のように言えるらしい
  • 人は進化の結果として言語を獲得したわけなので、人間の言語の取り扱いは脳の構造に依存したきわめて科学的な考察対象であるといえる、みたいな感じのことを言っているらしい

 くらいです。こういう先入観があったので、まぁ言語学のことが書いてあるんでしょうね、と思って読むんですけど、全然そうではなくて、言語学ではない切り口でかなり重要な社会問題について言及しまくっていました。この本のなかで、チョムスキーさんという一人の人間をつよく感じられた部分を引いておきます。

永年に亘ってラオスに居住して平和活動を続けていたフレッド・ブランフマンが一九七〇年にラオスを訪問したチョムスキーと過ごした一週間の経験を書いているが(Fred Branfman, "When Chomsky wept,"Salon.com, Monday, June 18, 2012)、その中で、アメリカの空爆によって難民となったラオスの人びとにインタビューしたときのチョムスキーの様子がヴィヴィッドに描かれている。

 ブランフマンがそれ以前に同様の計らいをした『ニューヨーク・タイムズ』等の新聞記者たちが常に眼前のラオスの人びとと心理的距離を置いて接し、あくまで取材の対象として彼らと会話を交わしたのに対し、難民の悲惨な話を聞いていたチョムスキーはインタビューの途中で当然泣き崩れ、滂沱の涙を流し続けたという。(p.195、ノーム・チョムスキーの思想について) 

  これは本の最後のほうに書かれている文ですが、この文によって、それまでに語られていた様々なことの根底にあるものがすべてつながってピンとくる感覚がありました。彼の活動の動機はほとんどこれなんだろう、という説明不要の納得があったのでした。こういう人がちゃんと有名になって、日本の片隅の僕のところまで思想を届けていただけるというのは、大変ありがたいことであるなぁ、と思いました。

メモ部分

 以下では、忘れたくない部分、将来手軽に思い出せるようにしておきたい部分を書き残します。

思考の道具

 言語について成立するように見えることは、言語は「思考の道具」として設計されているということです。もちろん、文字通り(誰かに)「設計」されているという意味ではありませんよ。言語は創発し、そして「思考の道具」として発達したのです。実際、言語を内観的に捉えて、何のために言語を使っているか考えてみてください。ほとんど常に、内的対話と呼ばれるもののために言語を使っていることがわかるはずです。(中略)...注意深く観察してみると、心の中で浮かんできているのは、実際の文ではないことがわかります。それはもし望めば文にすることができるようなちょっとした断片です。(p.38-39,言語の構成原理再考 質問2の応答)

 この本で一番最初の「言語の構成原理再考」の章では、チョムスキー生成文法の理論を簡単に解説した講演内容がまとめられています。講演なので、聴衆からの質問に答えたりします。ここで引用したことやこの周辺で述べられていることから、チョムスキーは言語のことを、コミュニケーションの道具とは考えていないことがわかります。

 いろいろな本を読むと、人は自分の母語でモノを考える、ということが書いてあったりして、納得とともに読んでいました。チョムスキーが言っているのはつまりそういうことで、思考を操るための道具立てとして脳内に備わっているものが言語であって、これらの思考を外在化して(たとえば発話や手話で)コミュニケーションする能力は副産物にすぎない、というようなことも言っていました。

 結構自分は独り言や内的対話が多い生活を送っているのですが、それはまぁ、そういうふうになっているということで、現状を補強してくれてうれしかったです。

「卑しい格言」

 「資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか」、と銘打った第二講演のなかで、アダム・スミスの重要な事実が紹介されていました。

...スミスの言葉を引用すると「 大多数の人間の知力というものは、必然的に彼らの日常の仕事によって形成されている」のであるから「ごく少数の単純な作業だけで一生を過ごし、しかもその作業の結果もおそらく同じかほとんど変わらないような人は、その理解力を生かす機会を持たない……そしてその結果、一般的に言って、人間という生き物としてそれ以下にはなり得ないほどに愚かで無知になってしまうのである……そして、改良され文明化した社会においては、政府がそれを防ぐ何らかの対策を取らないかぎり、民衆の大部分を占める下層労働者は必ずこういった状態に陥ってしまうのである」(『国富論』第五編第一章第三節第二項)

(中略)

 分業の大いなる効用を賞賛するアダム・スミスの言葉は極めて広く引用されているのにもかかわらず、私が今引用した、分業に対する彼のきびしい批判は、事実上まったく知られていません。

(p. 63-64,資本主義的民主制の下で人類は生き残れるか 主講演)

  前に読んだ本でもこの部分が引かれていました(こちらの記事の本)。かなり好きな一節なのですが、講演でこれを引用した(ということは暗唱した?)となると身も震えるほどカッコいいぜと思いました。さらに、アダム・スミスの話が続きます。

「いかに人間が利己的であるように見えようとも、人間の本質の一部として、他の人の運命に関心をいだき、そして他人の幸福を自分にとってかけがえのないものと感じる何らかの原理が明らかに存在している。たとえ自分が得るものが何もなくても、他の人の幸福を見るだけで嬉しいと感じる何かがあるのである」(『道徳感情論』第一部第一編)。スミスは、人間の本質が持つこのような側面を基礎にして自分の思想を組み立てました。そして、彼が「人類の支配者たちの卑しい格言」と呼ぶ「全ては自分たちのために、他の人たちには何ひとつ渡さない」という考え方と、人間の本質が示すいま述べた側面とを対比させています。人間が本来持つ心優しい部分が、人類の支配者たちの病理を克服することを可能にするのではないかとスミスは明らかに願っていました。

 今日では「卑しい格言」を説く人たち、つまり所有的個人主義の教義を説く人たちにとって、アダムスミスは偶像となっていて、その偶像には、現代のネオリベラリズムの中核的教義である「卑しい格言」に従う「経済人」のイメージがまとわりついています。(p.64)

 チョムスキーは、アダム・スミスのことばを引きながら、スミスが予言したように「卑しい格言」が駆逐されることはなく、その反対に「卑しい格言」を弄する人びとにスミスが尊敬されているという皮肉な事態を指摘しています。さらに驚くべきことを、チョムスキーは話してくれています。

…もっと驚かされるような例として、アダム・スミスの有名な言葉である「見えざる手」という語句の使われ方があります。この語句は実際にはスミスの著作の中にごくまれにしか現れません。『国富論』の中では、ただ一回出てくるだけなのです。スミスは、イギリスの資本家たちが輸入、輸出、投資などの取引を国外に移す可能性を考察しました。もし資本家たちがそうしたら、彼らは利益を得るでしょうが、イギリスの社会は悪影響を受けることになります。しかしそういうことは起こらないだろう、とスミスは論じます。なぜならば、イギリスの資本家たちは自らの国で投資をしたり売買をしたりすることを好むであろうから。従って、あたかも「見えざる手」によるかのように、イギリスは経済的リベラリズムの弊害を逃れることができるだろう、というわけです。つまり、スミスは、現在では彼の名の下に称賛されているネオリベラリズムによるグローバリゼーションに対する反論を提起しているのです。(中略) 

 「見えざる手」という語句は、あと一回、スミスのもう一つの偉大な著作である『道徳感情論』に出てきます。ここでスミスは「高慢で冷淡な地主」でさえも、貧者の必需品には配慮するものであり、従って、「見えざる手」が「生活必需品のほぼ等しい分配、つまり、大地がその住民すべてに均等に分けられていたならば達成されていたであろうもの」が実現されるように取り計らうのだ、と論じています。要するに、スミスは、人間の平等に対する自分のコミットメントを表明し、また、人間の持つ優れた本性が、残忍な支配者たちでさえも――あたかも見えざる手によってみちびかれるように――平等な社会の結果を求めるようにしていくであろう、という彼の希望を表明しているのです。もちろんこれは甘い願望かもしれません。しかし、こういった態度は古典的リベラリズムの実際の思想内容を実によく教えてくれるものなのです。(中略)

…現代の資本主義は、初期の創始者たちの思想と全く正反対のものになってしまっています。(p. 65-66)

  この講演の序盤で、チョムスキーアダム・スミスの意外な側面を紹介し、いかに現代の経済が「卑しい格言」のもとに動き続けているのかを次々に指摘します。現代資本主義のことを、次のように表現します。

…「現存する資本主義」はあまりにひどい機能不全を起こしているので、仕事をする意欲がある人たちの力を、必要とされている仕事のために使うことが出来ないのです。つまり、もし経済がごく一部の特権的な富裕層の強欲のためにではなく、人びとの必要を満たすように設計されていたならば容易に手に入るであろう資源を用いることが出来ないのです。社会経済システムの欠陥をこれ以上深刻に告げる事態を考えることは困難でしょう。(p.71) 

  ちょうどこの部分を読んでいるころ、アメリカで、コロナウイルスの影響による失業保険申請数が300万を超えたというニュースを見て、悲しいことに理解が深まりました(今日現在では1000万件を超えているそうです)。

 チョムスキーはしかし、資本主義そのものが悪だと述べているわけではありません。舵の取り方が悪いだけで、仕組みそのものは大した問題ではないと言っています。その説得的な根拠を次々と提示していてそれ自体すごく勉強になりました。かいつまむと、「卑しい格言」(「全ては自分たちのために、他の人たちには何ひとつ渡さない」)に基づいた行動指針の人たちが、強大な地位を占めており、そしてその地位を失いようがない仕組みが作りあげられている、ということを言っていました。

 社会問題を扱った話題で、寄せられた聴衆からの質問もおのずと「悲惨な問題に、私たちはどう向き合っていけばいいのでしょうか」といった論旨のものが多かったですが、そのどれもにチョムスキーは「『あなた』が『今すぐ』行動することです」という返答をしているようでした(僕の要約なので、このとおりには書いてありません)。難しい、難しいけど、それは本当にその通りで、ぐうの音も出ない正しい意見だぞ…と思います。

MIT

 チョムスキーが社会運動で投獄されたときの、MITの対応が書かれている部分を引用します。

反戦運動の場合には、逮捕、長期拘留の危険性があることから、勤務していたマサチューセッツ工科大学(MIT)から解雇されることを覚悟し、妻であるキャロル・チョムスキーと共にそのための準備もしていたようである。実際に何度かの逮捕を経験することになるが、MITからの処分などは一切なかった。ベトナム戦争終結してからの一九八〇年代にも、レーガン政権のニカラグア政策に反対する運動において、MIT言語学科の(チョムスキーを含む)何人かの教員と大学院生が逮捕されたことがあるが、このときも関係者への処分などは一切なかった。9.11以降の彼の言論に対して猛烈なチョムスキー批判がMITに寄せられたときも、大学当局は毅然としてチョムスキーの言論活動を擁護した。何かと評判の悪いMITであるが、思想の自由、言論の自由を守る態度は堅固である。こういうとき、日本の大学ならばどういう反応をするだろうかと考えると、何とも暗い気持ちになるのを抑えることが出来ない。(p.190-191,ノーム・チョムスキーの思想について)

  学生を相手取って訴えを起こすような大学が存在するような日本では、あまり望めない対応でしょうね。

 

ここまでかなりの量の引用をしてきましたが、最後にもうひとつだけ。チョムスキーの言論スタイルを、編著者は次のように語っています。

 政治社会問題を論じる時のチョムスキーは徹頭徹尾「実証的」である。あらゆるドグマを排する彼は、空疎なイデオロギー的言辞は一切弄さないし、疑似科学的粉飾をほどこして自説をもっともらしく見せることもまったく行なわない。真の科学的研究においてはある程度の技術的概念や道具立てが必要になるが、政治社会問題を考える上では基本的な理性の力のみが必要なのであって、難解な概念や疑似科学的道具立ては不必要であるにとどまらず、権威づけの機能を持つゆえにしばしば有害でさえある、というのがチョムスキーの基本的態度である。従って彼は大きな「理論」を語ったりはせず、ひたすら広範で緻密な調査に基づいて得られた莫大な量の「事実」を呈示することによって、それらの事実からどのようなパターンが浮かび上がり、社会、経済、政治、歴史等、我々が生きているこの世の中に関して何を学ぶべきなのかをあくまで事実そのものに語らせようとする。(p.196) 

 

 引用に終始した記事になってしまいました。ただ、これを読むと僕のような雑魚が何かを付け加えるなんておこがましいな、という気持ちになったんですよ。チョムスキーさんのいろんな側面を知って、とっても大好きになりました。オススメです。おもしろいですよ。