ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:直視する『累犯障害者』

 この本を読みました。

累犯障害者 (新潮文庫)

累犯障害者 (新潮文庫)

  • 作者:山本 譲司
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2009/03/30
  • メディア: 文庫
 

 ある日、満期出所を目前にした受刑者の一人が言った。

「山本さん、俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ。だから罰を受ける場所は、どこだっていいんだ。どうせ帰る場所もないし……。また刑務所の中で過ごしたっていいや。」(p.12-13)

 この本は、書名からもうかがえるように、犯罪を犯した障害者に取材して詳しく書かれたルポルタージュです。ただ、その意図は断罪ではなく、福祉に基づいていることは誤解しないでほしいと思います。

 この本では、凄絶な事例がさまざまなかたちで紹介されています。読み進めるうちに、当事者を犯罪に追い込まざるを得なかった状況や制度への違和感が立ち上がってくるわけですが、なにより現状で起こっていることを何も知らずに過ごしている自分自身にも、その責任があることをまざまざと見せつけられるという、 かなり負担のある読書体験になります。これを読んで、自分から当事者の利益になるようなことができるわけではないですが、知ることができたことはまず良かったと思います。

 他者の行動は、簡単に因果関係や行動の意図をみつけることはできないし、簡単に見つかったとしてもそれが間違っていることは往々にしてあります。本書で扱われるような知的障害者聴覚障害者は、意思疎通がむずかしいため、分析はさらに難しくなります。

 やはりどうしても自分のなかに、障害者にたいする偏見や思い違いはありますし、たぶんこれは僕が死ぬまでなんらかの形で残り続けると思います。でも、この本を読むことで見えたものや変わったことは多いので、記録として残します。本書は、印象に残らないところのほうが少なかったです。特に強く感じた部分を選んで書きます。

著者のことと社会復帰

 この本の著者は、元衆議院議員ですが、汚職事件により実刑判決を受け服役。その際に、他の受刑者のなかに障害者が多いことに驚き、出所後はこの本にまとめたような取材記事を執筆したり、自らヘルパーとして障害者福祉にかかわるようになった、という方です。関係省庁への政策提言をはじめとする彼の活動により、刑務所と福祉サービスをつなぐ仕組みが実現されるなど、自らの問題意識を実際の行動につなげて、実効的な成果をあげている方です。

 著者がこの本のなかで何度も問題として強調しているのは、「服役する障害者には、福祉とのつながりがないため、出所しても頼れるところがなくすぐに刑務所にもどってしまう。しかも、当事者にとってそれが最善になっている」という点です。

 障害のある人でもない人でも、一度犯罪を犯して前科者のレッテルを貼られてしまえば、社会復帰にはある程度の困難が伴います。ニュース記事とそれに寄せられるネットのコメントを見ても、当事者にはなりたくないなと思わざるを得ません。著者自身も、本書の中で出所後の自己嫌悪や社会からの疎外感などの出所者コンプレックスを抱いたという経験を述懐しています。それが障害者、さらにたよる人もいなかった場合、社会復帰などは途方もない道のりになってしまいます。紹介されているどの事例も、その壁の高さを見せつけられるようなものでした。つぎの会話は印象的でした。放火を繰り返して服役している、知的障害のある受刑者との会話です。

「刑務所に戻りたかったんだったら、火をつけるんじゃなくて、喰い逃げとか泥棒とか、ほかにもあるでしょう」

 そう私が訊ねると、福田被告は、急に背筋を伸ばし、顔の前で右手を左右に振りながら答える。

「だめだめ、喰い逃げとか泥棒とか、そんな悪いことできん」

 本気でそう言っているようだ。やはり、常識の尺度が違うのか。さらに質問してみる。

「じゃー、放火は悪いことじゃないんですか」

「悪いこと」

 即座に、答えが返ってきた。当然、悪いという認識はあるようだ。

 「でも、火をつけると、刑務所に戻れるけん」(p.18-19)

  このあと、この受刑者の「外では楽しいこと、なーんもなかった」という言葉もでてきます。大人になるまでの過程で、虐待だったりネグレクトだったりと安心とは程遠い環境に置かれている人も多く、それを考えると、簡単に処理できる問題ではないことを強く意識させられます。とはいえじゃあ、具体的に何をしているのかというと、こんなブログを書いているわけで、偽善者の誹りをまぬかれえないよね、と自分自身に思っています。

 最近、哲学者の森岡正博先生がインタビューを受ける記事をみました。(今は消えていますが、「哲学者・森岡正博さん「勝ち組負け組思想」がすべての人を追いつめる(現代ビジネス)」というタイトル。れいわ新撰組に重度障害を持つ議員が誕生したことをうけて、現代の幸せとはなにかを論じた記事。)

headlines.yahoo.co.jp

 ここでは、「障がい者よりも健全者のほうが生きづらいのではないか」というメッセージがある、というふうに書かれていました。インタビューのなかで、ある面では確かにそうだろう、と思う部分もありました。ここでいう「生きづらさ」は、精神面での生きづらさのことです。しかし、本書を読むと、障害者の置かれている立場はかなりキツくて、障害者のほうがかえって生きる喜びを感じているなんて軽々しく思えません(記事で引合いに出されているれいわ新選組の議員の人にかぎって言っているのかもしれませんが)。

 記事中で強調されている「安心感の醸成が大事だ」という考えは、この本を読んでも強く感じるところでしたが、このWeb記事は健全者のための記事だな、という感じがしました(言うまでもなく健全者のための記事なんですが)。

聴覚障害者の世界の見かた

 本書では、聴覚障害者の事件とその裁判についても書かれていました。聴覚障害者は、当然手話で会話するわけですが、手話にかんする記述が大変興味深かったです。

 著者が服役中、聴覚障害者とコミュニケーションをとるために「手話辞典」を見ていた時のこと、一人の聴覚障害者が筆談を求めてきたそうです。

――その本 べんきょうしても ほんとうの手話 むり。

 文章を読んだ私は、すぐにボールペンを手にして、質問を返す。

――短期間では、本当の手話を習得することはできないという意味ですか。

 彼は渋面をつくり、「違う」と手話で答えた。(中略)

 彼らが言うには、ろうあ者が用いる手話は日本語とは別の言語であって、健常者が学習する手話と比べ、文法や表現方法に大きな違いがあるのだそうだ。(p.199) 

  曰く、日本語対応手話は、聴覚障害者にとってはかなりわかりにくい(「頭で翻訳しながら見ていなければならないので、見ていられるのは20分が限度」というコメントも!)ため、聴覚障害者どうしのコミュニケーションではほとんど使われないというのです。したがって、手話通訳で行われる裁判では、手話通訳の質の確保がむずかしく、聴覚障害者の意図を正確に伝えたり、裁判官や弁護士、検事の発言を正確に伝えてもらうこともむずかしい、という状況なのだそうです。

 「音声言語を持つ人」と「手話という言語を持つ人」、それは、「日本語を話す人」と「英語を話す人」以上に立場の違いがある。こうなると、常識の違いというよりも、文化の違いがあると見たほうがいいだろう。(p.246)

 こう述べられているように、裁判沙汰になった聴覚障害者とそれを取り巻く人物たちのあいだで交わされるやりとりは、健常者とは異なる特徴があるようです。このことは、本書でたびたび言及されています。

 以前、視覚障害者の世界認識についての本の感想を書きました(前の記事)が、それと似たようなことが起こっているようです。興味深かったのは、倫理観や常識のような点で、聴覚障害者と健常者との齟齬が多くみられるというような記述でした。

 

 強く印象に残ったことを大きく2点取り上げましたが、どこを切り取っても印象深い本です。このほかにも、知的障害者の冤罪事件や、自白の誘導がなされているという問題や、知的障害のある女性の売春の問題など、重大な問題が多く取り上げられています。終章の最後に書かれている裁判の様子には、絶句してしまいました。

 読んでどう思うかは当然人それぞれですが、一読の価値は絶対にある本だと思いました。

以上です。