ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:「意識の自動書記」実験ノート『詩群』

 この本を読みました。

趾波豊作品集 詩群 (MyISBN - デザインエッグ社)

趾波豊作品集 詩群 (MyISBN - デザインエッグ社)

  • 作者:趾波 豊
  • 発売日: 2019/08/26
  • メディア: オンデマンド (ペーパーバック)
 

  これは僕の友人が作った詩をまとめたものです。漢字はすべて旧字体で書かれていることが大きな特徴です。収められた詩には製作時期が書いてあって(平成十八~二十六年)、実験的な作品群が洗練されていくようすがみてとれます。

 僕にとって詩の解釈の方法は、これまでもこれからも確立されないしその必要もないと思っています。しかしそれにしても、この『詩群』で表現されているものを正確に解釈することはおろか、解釈した気になることもむずかしかったです。色んな読み方を試していくなかで、これは楽譜とか、演劇のト書きとか、ダンスのステップを記したやつとか、そういったものとして理解するのがいいかもしれない、と思いました。

 ただ、この『詩群』は、詩人「趾波豊」の一面を理解するフックとして必要なものであり、逆に詩人「趾波豊」の別の一面はこの『詩群』の解釈に必要なものになっている、と感じます。自分は趾波さんのことを知っているし好きなので興味深く読めましたが、趾波さん自身を知らないでこれを手にとったときに、共鳴できる読者は多くないだろうな、と思います。

 

趾波豊の目的意識

 筆者はまえがきで、次のように書いています。

…己が私的世界の純粋なるを求めるが故の社会の反映たる言語総体(ルビ:ラング)への欺瞞といふ大いなる矛盾を孕んだ叛逆の軌跡である。

(中略)

 さて、この「詩群」は、日記体と散文体の混在する初期に於ける一連の作品のなかで執拗に標榜するやうに所謂「意識の自動書記(ルビ:オートマテイスム)」を模す事を志してゐるが、その方法論の明確な確立には数年の歳月を要した。(p.3)

  筆者は「脳内で意図したり考えたことと、言語で表現されたことは一致しえない」ということを強く意識しながらさまざまな活動に精を出しています。それでも、人と人がコミュニケーションするには、文字や音にして何かを表現する必要がある。しかしその際、言語ごとのクセだったり、表現の陳腐さ・新しさだったり、音を受信する耳の構造だったり、気温だったり湿度だったり、多くの要因が、純粋な脳内での思考を伝えることの邪魔になり(もしくは影響を与え)ます。そこで、それらの要因をなるべく排除すべく確立しようとした方法が趾波にとっての「意識の自動書記」と言えるでしょう。

 ここでは伝達手段として文字が利用されていますが、趾波は作曲や歌唱、踊り、画像や映像のような様式にも強い興味をもっています。ちなみに、『詩群』収録の「はくあのさか」、「さぎりのえ」、「かれさすこいも」、「火焔農園」、「かなしきひそおり」には曲がついて公開されています。こうして曲をつけて歌っていることからも、一篇の詩にしておくだけでは完結できない、という筆者の考えを感じとることができます。

soundcloud.com

 

意識トレース

 『詩群』には、「意識トレース」というタイトルの詩が数編収められています。たとえば、つぎのようなものです。

意識トレース(弐) 十二月十日

 眠れない。さえきって、だって眠りすぎたから昼に。ねー

 心をぐじゃぐじゃにする書物は? 素敵な。耳にささる堰。冷え症。黒くて冷たくて寒くて潮風が間接にささる海。静かな黒い舟。白く残された星。くずの思想を処理場で処理してもらいましょう。堆積したもの、有害な(何をもって有害となすか、それは実害に相違ない。四肢をいため、はらわたを腐らすものなり)液体を垂れ流すコップ。かわいい白。…(意識トレース2、p.68)

 ここで引いているのは羅列系ですが、いくつかの異常に長い一文からなるダラダラ系とか、適当な長さで文法的にもOKな散文系、日記系と、意識トレースとして提示されている文章にはいくつかのタイプがあります。テキストとして解釈することができるものもありますが、あまりそうしないで、声に出して読んで音の流れを発生させてみたり、ページの見た目に注目してみたりして、なるべく視覚・聴覚と動きで感じとるべきだと思いました。そういう意味で、なるべく文法的に意味が取りにくい、ここで挙げた羅列系や、ダラダラ系を声に出しながらぐいんぐいん読んでいくと気持ちよくなってきます。

 同時通訳とその速記のような感覚で、脳→文の変換を試みているように思いながら読む。全体の言葉のながれのなかに、明確なイメージを描ける単語がサブリミナルみたいにちりばめられていますので、読んでいて喚起されるイメージは確かにあります。が、全体としてはもやもやしたままである。しかし、趾波にとって、読者のもやもやはどうでもよい。それはなぜなら、目的は「意識の自動書記」だから。書き下しつづけることで方法論が成熟すれば、彼にとってはOKだから。

 前項で引いている音楽付きのもの、たとえば「はくあのさか」などは、この意識の自動書記を下敷きにして生み出されたものなのだろうと直感します。意識トレースの段階ではやはり粗削りというか、分娩されたての血まみれの赤ちゃんという感じがしますが、そこにある程度手を加えて、かなりしっかりした人間に近いものへと仕上がっているような印象があります。人間といっても、それは現在われわれが生きる社会でよくみられる人間とはちょっと違うものではありますが。

 

 ページ数も文字数も特別多いわけではないこの『詩群』ですが、読み通して印象をまとめることにかなり長い時間がかかりました。そしてさらに、こうして文章にまとめることで取り落としたものがきわめて多く、僕には1割くらいしか表現できていないでしょう。そうなってしまうのは、わかりやすいもの、つまり普段の生活で利用する理解のフレームワークを使えるものがほとんどないからです。でも、そもそも「わかる(=認知する)とはなんなのか」に強く興味を持っている趾波にとって、わかりやすく仕立てることは本当の「わかる」を妨げることにもなりかねないという意識があるのではないでしょうか。この趾波の詩を理解するためには、楽器の練習を重ねるとわかってくる感覚があるように、ためつすがめつあらゆる側面から本を眺めまわす必要があるのだと感じました。

以上です。