ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:アマゾン奥地の子育て『ピダハン』

この本を読みました。

  これは、アマゾンの奥地にすむ「ピダハン族」について書かれた本です。本書の著者ダニエル・エヴェレットさんの興味はピダハン族の扱う言語を理解することにあり、大部分は言語の特徴を伝えることに割かれています。著者は30年以上にわたって、ピダハンの集落に長期滞在(1回あたり数ヶ月くらい)してピダハンの文化とその言語を研究してきた方です。滞在の目的は、キリスト教の布教者として聖書をピダハン語に翻訳して教化すること。妻や子どもを連れての長期滞在もしています。

 ノーム・チョムスキースティーブン・ピンカーといった高名な言語学者は、「人間が扱うあらゆる言語には、普遍的な文法が存在する」と考え、論を展開しています。その普遍的な文法を規定するのは人間の形質、すなわち遺伝子である、と言われています。

 言語学界隈では伝統的に、チョムスキーの理論は強く信じられてきましたが、本書の著者ダニエル・エヴェレットは、「ピダハン語は、チョムスキーが唱えてきたような理論に従わない文法体系を持っている」と主張しています。現在では、エヴェレットの主張は正しくなく、結局ピダハン語も普遍文法で説明できるという考え方が優勢なようです(ちゃんと調べてないので、間違っている可能性があります。すみません)。

 著者のエヴェレットは、本書のなかで次のように述べています。

 別の言語を習得するとはどういうことか? もしフランス語の母音を完璧に発音できるようになり、フランス語の単語の意味を全部覚えて駆使できるようになったとしたら、フランス語を話せるといってもいいだろうか。発音と単語の知識さえあれば、フランス知識人と同等にヴォルテールを読みこなせるのだろうか――答えはノーだ。言語とは、構成部分(単語、音声、文)の総和ではない。その言語を成り立たせている文化の知識なしでは、純然たる言語だけでは、充分なコミュニケーションや理解には不足なのだ。(p. 283) 

  この記述には、言語と文化は切っても切れない関係にある、というエヴェレットの意志が強くにじんでいます。つまり、言語は脳の構造だけから生み出されるものではなく、文化(つまり後天的に作られたもの)こそがその骨組みを規定しているんだ、という考えです。 理論にかんする細かい議論はここでは措くとして、エヴェレットが念頭に置いているのは「チョムスキー理論では説明できない言語体系がある→普遍文法を決めているのは遺伝子だけでなく、後天的な要素もありうる」という点であり、そこに立脚した上でチョムスキー理論に反論しています。

 提唱されている理論のどちらがどう正しいという検証を追うのはそれなりに楽しいことだとは思うのですが、あまりに大変そうなのでそこまではできません。重要なのは、エヴェレットが長くピダハンの文化に触れてきたなかで、「言語と文化の深い関係」を前提にした考えを主張しているということです。

 

 本書のなかでは、大学でチョムスキー理論を講義していたエヴェレットが、その巨大な理論に反旗を翻すまでに至った経緯となる体験が記述されています。ピダハン語の文法構造の説明ももちろんあるのですが、なによりピダハンの集落で暮らすなかで把握したピダハンの文化が大変おもしろく記述してあります。この記事では、自分の備忘のために興味深かった部分をメモして、感想を書くこととします。言語学の論争的な話に触れるのが楽しみで読んだ本ですが、そこよりもピダハンの子育ての話がおもしろかったです。

 左右と言語と文化

…方向の指示は川(上流、下流、川に向かって)かジャングル(ジャングルのなかへ)を基点に出されることに気がついた。ピダハンには川がどこにあるかわかっている(わたしにはどちらがどちらかまったくわからなかった)。方向を知ろうとするとき、彼らは全員わたしたちがやるように右手、左手など自分の体を使うのではなく、地形を用いるようだ。(p.301) 

...つまりピダハンは、世界のなかで自分はどういう位置にいるかを、わたしたちよりずっとはっきりと、常に考えていなければならないことになる。 これは言い方を換えれば、ピダハンの言語は世界についてわたしたちとは異なる視点を使い手に要求しているということだ。(p.303)

 これは、筆者がピダハン語の「右」、「左」にあたる単語を知ろうとしていた時の記述です。結局筆者は、ピダハン語には左右を示す単語はなく、ピダハン族ならだれもが把握している川とジャングルの位置を基準にして相対的な方向を表現する、という結論を出しています。

 筆者はこの例でもって、言語と文化は切っても切れないと言える!と説明しようとしているわけではないですが、この左右の話をはじめとしてピダハン語の特徴をあげながら、ピダハン族の暮らしがなくてはピダハン語のありようは説明できない、という論を展開しています。

 

細かなこと

...細かなこと。探検家の伝記を読めば、成功の分かれ目は骨身を惜しまないことと綿密な計画、そして細部をおろそかにしないことにかかっているのがわかる。(p. 271)

  この述懐は、夜にスコールが来たのを知っていながら、まあ大丈夫だろうと思って寝続けてたら大丈夫じゃなくて、川に停めておいたボートが沈んじゃった、というアクシデントを経験した後のものです(ボートがないと、筆者は市街に戻ることができないのでマジでヤバい)。著者や探検家でなくても、ふだんの自分の暮らしでも細かなことに対する気配りを怠ると困るよね、と思ったのでメモ。

 

何もしない~アマゾン奥地での子育て

 この話題は最後の話題で、ちょっと長いです。まずは引用です。

 ある日、わたしは主だった言葉の先生のひとり、カアブーギーのところへ行って、勉強の時間があるか訊いてみることにした。歩いて彼の家に近づいていくと、カアブーギーの兄弟のカアパーシがカシャーサ(引用者注:お酒)を飲んでいるのに気づいた。さらに二、三歩進み、わたしがカアブーギーの小屋まであと十五メートルほどまで来たところで、カアパーシがショットガンをあげ、子犬の腹を撃ち抜いた。子犬は鋭く叫んで跳び上がった。どくどくと血があふれ、内臓は腹の裂け目から飛び出している。子犬は地面に倒れ込み、体を震わせて鼻を鳴らした。カアブーギーが駆けつけ、犬を抱き上げた。死んでいく犬を抱えたカアブーギーの目が、みるみる涙に濡れていく。彼がカアパーシの犬を撃つとかカアパーシ本人に向かっていくとかするのではないかとわたしは心配した。

 村びとたちはカアパーシとカアブーギーを見つめている――犬たちが吠える声以外は、物音ひとつしない。カアブーギーは涙を浮かべ、死んだ犬を抱えたままただ座り込んでいた。

「カアパーシをどうするつもりだい?」わたしは尋ねた。

「どうするとは?」カアブーギーは不思議そうに訊き返す。

「つまり、犬を撃たれたことにどう始末をつけるのかということだよ」

「何もしない。兄弟を痛めつけたりしない。あいつは子どもじみたことをした。悪いことをした。だがあいつは酒を飲んでいて、頭がまともに働いていなかった。俺の犬を傷つけてはいけなかった。これはおれの子どもとおんなじだったんだ」(p.144)

 この話は強く印象に残りました。また、このほかにも、生後まもなく母親が死んでしまった赤ん坊の話も印象的です。エヴェレットは、その赤ん坊が生き延びられるようにいろいろと手を尽くそうとするのですが、ピダハンたちは冷ややかです。

「赤ん坊は死ぬ。乳をやる母がいない」みんなは言った。(p.136)

 それでも、エヴェレットと妻のケレンは衰弱した赤ん坊に何とかミルクを飲ませることができ、少しずつ回復させます。しかし、少しの間その子をピダハンの人に任せてその場を離れ、戻ってきたとき、ピダハンたちはその子に酒を飲ませ、殺してしまっていたというのです。

「赤ん坊はどうしたんだ?」わたしは、目に涙がにじんできた。

「死んだ。これは苦しんでいた。死にたがっていた」(p.138)

 このことについて、筆者は悲しみながらも次のように述べています。

...医者のいない土地で、頑丈でなければ死んでしまうとわかっていて、わたしなどよりよほど多くの死者や死にかけた人たちを間近で見ているピダハンには、人の目に死相が浮かんでいることも、どういう健康状態だと死に直結するかも、わたしが気づくよりずっと早く見ぬけてしまうのだ。(p.138)

 犬の話も赤ん坊の話も、自然にあるがままに任せるという点で一貫しているように感じました。少し話は飛びますが、ピダハン族で子どもがどう扱われているのかが、かなり興味深かったです。少し長くなりますが引用します。

ピダハンは子どもも対等な社会の一員だと考えているが、それはおとなに許されているのに子どもはできないこと、あるいは子どもに許されるのにおとなには禁じられることがないということを意味する。(中略)(子どもは)周囲が期待することをやるかやらないか、自分で決めなければならない。いろいろやってみて、結局親の言うことを少しくらい聞いておくのが一番だと学んでいくようだ。(p.139)

...よちよち歩きの子どもがおぼつかない足取りで焚火に近づいていくのを目撃した。子どもが火に近づくと、手をうんと伸ばせば届くほどのところにいた母親が子どもに低い声を発した。けれども子どもを火から遠ざけようとはしない。子どもはよろめき、真っ赤に焼けた石炭のすぐわきに倒れ込んだ。脚と尻に火傷を負い、子どもは痛みに泣き喚いた。母親は子どもを片手で乱暴に抱き起こし、叱りつけた。(p.127)

...幼児は刃渡り二〇センチあまりの鋭い包丁をもてあそんでいて、振りまわすたびに刃先が子どもの目や胸、腕など切ったり刺したりしたくないようなところを掠めていく。だがわたしたちの目が釘付けになったのはその後だった。幼児が包丁を落とすと、母親は――誰かとのおしゃべりに夢中で――会話を中断もせず後ろに手を伸ばすと、何気なく包丁を拾い上げて幼児に手渡したのだ。(p.128)

...ただどの親も「かわいそうに、ごめんなさいね。ママがキスして痛いの痛いの飛んでけしてあげる」などと言ったりはしない。ピダハンでない母親がこの手のことをしているのを見ると、ピダハンは驚きに眼を剥いて眺めるだけだ。おかしなことだと思うらしい。「あの人たちは子どもが痛い目にあわないようにするにはどうしたらいいか、教えてやる気はないのか?」と訊かれたこともある。(p.129)

 ピダハン族のなかでの子どもの話で、「頑丈でなければ死んでしまう」というのは、僕の暮らしている社会では不自然に覆い隠されていると感じています。それは医療技術や社会制度、それに冷暖房や衣服をはじめとした道具類も発展していることや、市井の人々でさえ知識をもっているということのおかげであり、そのせいでもあるとも言えます。たとえば子どもがアレルギー持ちだということがわかればアレルゲンから守るように行動しますよね。昔はアレルギーなんてなかったのではなく、アレルギーを持っている人は早々に死んでしまうから気づけなかっただけ、というのはよく言われる話です。

 現代社会は、命が守られることはまったく当然として、その先をどれだけ豊かにするかを中心に考えるようになっています。命を脅かすような事態もときおり起こりますが、命にかかわる危険因子は早々に排除されます。でも、そのせいで能動的に生きる力のない人も生き延びさせられてしまうことになっているのではないだろうか、と考えてしまうのです。しかも、あらかじめ決められたいいことと悪いこと(それまではその基準で判断すれば安泰だったかもしれないが、この先それでうまくいくかよくわからないこと)にとりあえず倣うように設計されています。

 ピダハン族は子どももまったくの自由なので、幼い時分から葉巻を吸ったり酒を飲んだり、セックスしたりすることにたいする社会規範の縛りはありません。その代わり、乳離れしたらもうそこからは一人で生きていかなければなりません。すこしまえに「One Hour One Life」というスマホゲームが流行りましたが、ピダハンの暮らしはまさにその世界に似ています。

 「あの人たちは子どもが痛い目にあわないようにするにはどうしたらいいか、教えてやる気はないのか?」という言葉には、強く感じるところがありました。自分には子供はいませんが、しかしこれから親になるとして、「子どもが痛い目にあわないようにするにはどうしたらいいか」を教えてやれるのだろうか、と考えてしまいます。現代社会のシステムの全貌はよくわからずに、(自分がそうしてもらったように)社会に庇護されながら資源を子に横流しし、一般に流行っている成功っぽいルートに目を向けさせながら、なるべく実績のありそうな方向へ導く、という、考えうるかぎりの穏当な子育てでうまくいくのかしら、と。それ以前にそういうふうに「導く」余裕とか資格があるのかしら。自分が痛い目にあわないようにどうすればいいかもよくわからないのに。

 まぁ、ピダハンと現代社会を比べると、死ぬタイミングが子どものころかとりあえず成体になってからかという違いがあるだけでどちらも厳しい環境であると言ってしまえるのかもしれません。

 

 あまりまとまりませんでしたが、これで備忘の役割は果たせると思うので終わりにします。