ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:満足するために生きている『子どものための哲学対話』

 この本を読みました。

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

子どものための哲学対話 (講談社文庫)

 

 この本の著者の永井均先生にちょっと興味があって、本屋にこの本があったので買ってみました。子ども向けなので行間広めで文字も大きめ、すぐに読み切れてしまう本でしたが、歯ごたえのあるものでした。

 永井先生の著書に、『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』という本があります。『倫理とは何か』は、結構しっかり大哲学者を引っ張ってきて、倫理とはなんなのかを、永井先生の意見を交えながら説明している本です。倫理の先生の講義みたいな部分があって、猫のアインジヒトがそれを批判的に考察しながら、祐樹くんと千絵さんと3人で語り合うというとってもおもしろい対話篇です。(まだ半分くらいしか読んでいないけど)

 今回読んだ『子どものための~』も、猫のペネトレと中学生の「ぼく」の対話で構成された哲学の対話篇です。ペネトレが「ぼく」にいろいろな新しい考え方を吹き込んでいっています。それはなんだかひねくれているんですけど、大事なことを言っているように思いました。備忘のために記事を書きます。

なんのために生きているのか

 哲学といえばコレ!みたいな話ですが、ペネトレ(≒永井均)の考え方は簡潔にまとまっていてよかったです。

 猫のペネトレは、「人間はなんのために生きているの?」と問われて、「遊ぶため」と答えつつ、以下のように続けます。

ペネトレ:世の中の人は、仕事をすることと対比して、「遊ぶ」って言葉を何もしないでぶらぶらしているって意味につかうからね。でも、ぼくのいう「遊ぶ」ってことはそういう意味じゃないよ。「遊ぶ」っていうのはね、自分のしたいことをして「楽しむ」ことさ。そのときやっていることの中だけで完全に満ちたりている状態のことなんだよ。そのときやっていることの外にどんな目的も意味も求める必要がないような状態のことなんだ。(p.19)

 そして、根が明るい人、暗い人という話題を次のように展開します。

 ペネトレ:そうだよ。根が明るいっていうのはね、なぜだか、根本的に、自分自身で満ちたりているってことなんだ。なんにも意味のあることをしていなくても、ほかのだれにも認めてもらわなくても、ただ存在しているだけで満ちたりているってことなんだよ。それが上品ってことでもあるんだ。根が暗いっていうのはその逆でね、なにか意味のあることをしたりほかのだれかに認めてもらわなくては、満たされない人のことなんだ。それが下品ってことさ。(p.24、太字は原本通り。以下同)

 そして、この上品な人・下品な人についての対話が、おお、言いますね、という感じでした。

ぼく:根が明るくて上品な人が、自分の遊びのために他人をひどいめにあわせるってことだって、やっぱりあるんじゃないかな?

ペネトレ:あまりないけど、でも絶対ないとは言えない。上品な人は道徳的な善悪なんてたいして重視しないから、けっこう平気で悪いとされていることができるからね。逆に、下品な人は、道徳的な善悪を重視しがちだな。

ぼく:どうして?

ペネトレ:自分の外側にしか、たよるものがないからさ。(p.34) 

  ペネトレが「上品な人が他人をひどいめにあわせることはあまりない」という理由は、将棋の話で説明しています。簡単にまとめると、次のような感じです。

 お父さんと将棋をするとき、勝てたらおこづかいをくれるというルールにするとする。はじめはおこづかい欲しさに将棋に精を出すし、どんなインチキもやろうとするだろうが、将棋が楽しくなってくるとインチキなんてせずに、将棋のルールのなかで勝てる方法を追求するようになる…。これは将棋することが目的になった=上品な人になったということ。

 

 ここまでのペネトレの話はホントにおもしろくて、中学生くらいのときにうちにペネトレがいたらよかったなぁ、と思いました。「下品な人は道徳的な善悪を重視しがち」で、その理由は「自分の外側にしかたよるものがないから」というのは痛快な指摘で、私のような人間は自分の内側にたよるものを打ち立てたいな、と思うばかりです。じゃあ下品な人はどうすればいいのかというと、どこかから「理想」を引っ張ってきて、それに基づいて生きればよい、と書いてありました。

 昔、自分の満足のハードルを意識的に低くして生活してみたことがあります。今やっていることは楽しい、今食べているものはおいしい、今している暮らしは満足感が高い、などと考えるようにする。そのとおり、楽しいし、おいしいし、それなりに満足はしていたんですが、やっぱり貧乏学生の暮らしなので、住んでいる部屋は古くて日当たりが悪いし、食べ物も豚丼280円(当時はあった)とかお米にかつおぶしとかだし、生活費のためにアルバイトにいっぱいいかなきゃいけないしで、一般的な基準に照らしたらそういいものでもない。ただ、自分の外からの基準を使わなければそう不満もなかったし、「これで満足なんだよね」と言い聞かせればそれなりにOKではありました。でも、やっぱりこの自己満足ってむなしいのでは、強がりなのでは?という思いが立ち上がってきて、かなりネガティブな精神状態に変貌してしまいました。内側のたよるものを打ち立てることに失敗した感があります。

 僕には好きな人がけっこういるのですが、好きな人はみな、内面に基準を持っているように見えます。前回記事の「自己ベスト」の話もそうですが、僕の好きな人たちは、他者の評価は他者の評価で聞くとして、自分の考えは間違っていないという根拠があるんですよね。誰々がこういっていた、とかではなくて、「自分はこうしたいから」っていうのが。

 どうしたらみんなそんなに自信をもってうまくやっていけるのか知りたいものです。満足して生きることができれば人生の目的が果たせる、というのであれば。

社会契約の話

 子ども向けなんですけど、この本には「社会契約」という用語が出てきます。本のなかでは次のように説明されています。

みんなが自分の自由を制限する代わりに、他人の自由も制限してもらうという約束(p.32-33) 

  これをみんなが受け入れることで、いまみたいな人間社会が出来上がりましたよ、というのが社会契約のよくある説明です。ですが、この約束を守りましょう、という約束はいつできたのだろうか、という話が展開されます。「ぼく」は、そんな約束ができっこないから社会契約なんて無理なんじゃないの?とペネトレに言いますが、ペネトレは次のように答えます。

ペネトレ:それはちがうよ。社会契約っていうと、いまのぼくらのような人間――といってもぼくは猫だけど――が集まってそういう約束をした、っていうふうに考えてしまいがちだけどね。ほんとはそうじゃないんだよ。はなしは逆なんだ。社会契約をしたことで、いまのぼくらのような人間――といってもぼくは猫だけど――ができあがったんだよ。(中略)そういうことを疑問に思うぼくらは、その約束がなぜだか守られてしまった結果として、いまここに、こうしているんだからね。(p.110-112)

  この社会契約の話は、『倫理とは何か』のほうでもうすこしむずかしい言葉で取り上げられています。そちらではよくわからなかったんですが、これを読んでなんとなくピンときました。で、こういう構造のなかに自分がいることを自覚して考えを進めるのが重要ですよ、ということをペネトレは言います。

その他の話題

 言葉の意味について

圧倒的な多数派に支持されたから正しい意味になったんじゃなくて、それが必要だったから圧倒的な多数派に支持されるようになったはずなんだよ。(p.54)

 「強さ」について

ぼく:ぼくね、自分なりには一生懸命やってみたんだけど、なんだかうまくいかなくて、あんなふうにやるんじゃなかったなって、がっかりしたり、後悔しちゃうことが多いんだよ。

ペネトレ:後悔なんかすることはないさ。だれだって、個々のことがらに関しては、まちがいをしでかすことも、不始末をやらかすこともあるさ。でもそういうことは、結局、そうでしかありえなかったのだから、それでいいんだよ。そう、自分に言ってやらないとね。くよくよ悩む必要なんてぜんぜんないんだ。(p.63)

 死刑について

ペネトレ:世の中がきみに与えることができるいちばん重い罰は死刑だね? 死刑以上の重罰はないだろ? ということはつまり、世の中は、死ぬつもりならなにをしてもいいって、暗に認めているってことなんだよ。認めざるをえないのさ。(p.124)

  これに加えて、文庫版あとがきは、「子どものための」という部分を逸脱しているようにも感じましたが、「なぜ対話篇が重要なのか」を示唆するおもしろいものでした。

 あまりそういう効果は期待していなかったんですけど、ちょっと元気が出ました。

 

以上です。