ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:理解のしかた・とらえかた『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

 この本を読みました。

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)

  • 作者:伊藤 亜紗
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2015/04/16
  • メディア: 新書
 

  この本は、美学をバックグラウンドとする著者によって、視覚障害者へのヒアリングにもとに書かれたものです。美しいと感じるのはなぜなのか、といった感覚のメカニズムに注目する美学者の目線からみた視覚障害者の世界認識は、おのずと「解釈」の問題に通じていきます。

 …私がとらえたいのは、、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。(p.30)

  こういった目的意識で語られる「見えない世界」の話は、視覚障害者がどういう様式で世界を把握しているのか、という話に展開されていきます。本書を読んでいくと、五感という言葉がしめすように感覚のしかたを切り分けることで、「把握すること」が含むおもしろい側面をとり逃してしまう可能性に気付かされます。見ることは目だけで行っていないし、聞くことは耳だけじゃない、味わうことも舌だけではない。

 「把握する」「わかる」という体験は、どんな人も日常的に行っていることですが、僕は人の言う「わかった」の意味がよくわからないことが多いです。「あの人は数学がわかっている」というとき、その人が理解しているのは中学の学習範囲なのか、高校の学習範囲なのか、それとももっと高級な最先端の数学なのか、ということは、このフレーズだけからはわかりませんし、自分がどこまでいったらわかったと言っていいのか見当がつきません。

 この本で、視覚障害者の世界把握のモードを紹介されることで、「把握すること」「わかること」が自分の経験に根差した平面的なものから、立体感を持ったものに変化したような気がしました。

 また、特にすばらしいのは、この本の購入者は機械読み上げ用のテキストデータをもらえるということです。こまやかな配慮!

 以下、特に印象に残った部分をメモとして残していきます。

空間のイメージ

三次元を二次元化することは、視覚の大きな特徴のひとつです。「奥行きのあるもの」を「平面イメージ」に変換してしまう。とくに、富士山や月のようにあまりに遠くにあるものを見るときには、どうしても立体感が失われてしまいます。(p.65)

 目が見える人が目的地を目指して道を歩くときのことを強いて言葉にするなら、知っている店や信号などを目印にして、頭のなかの地図のどのあたりに自分がいるかを大体把握しながら歩いています。一方、目が見えないと「目印」を使えないため、音とかにおい、地面の凸凹などを手掛かりにします。

 このようなことを背景に、視覚障害者の方は空間や物体を、三次元的に把握していると考察します。道を歩くときは高低差が感覚の大部分を占める、物体は触って形を把握する…。物体の把握にあっては、「視点」がないため、ある物体の表側とか裏側というとらえかたをせず、物体のすべての点が等価になっていると指摘されていました。

 逆に目が見えている人は、平面に落とし込んで把握しがちだと。どちらがより優れているという話ではなく、「そういうふうになっている」という話です。

色の把握

 また、見えない人にとっても「色」概念は存在するようです。

個人差がありますが、物を見た経験がない全盲の人でも、「色」の概念を理解していることがあります。(中略)...その色をしているものの集合を覚えることで、色の概念を獲得するらしい。たとえば赤は「りんご」「いちご」「トマト」「くちびる」などが属していて「あたたかい気持ちになる色」、…(p.68)

  こうした把握のしかたには、機械学習と似た印象をもちました。猫の写真をたくさん読み込ませると、コンピュータは新しい写真を読み込んだとき、猫か否かを判断できるようになる、というような。視覚障害がある人にとっては、新しいものに触れたときに、自分で色を判断することができるようにはなりません。しかし、触れたものの色が赤だ、と教えてもらえば、その人にとっての「赤」の理解が広がり、さらに触れたもののイメージもより深みのあるものになります。つまり、コンピュータにとって「猫」の概念が広がっていくことと、視覚障害者にとって「赤」の概念が広がっていくことが似ているなと感じたのです。

他人の目で絵を見る~ソーシャル・ビュー

 視覚障害者が「絵画鑑賞」を楽しむ方法として、ソーシャル・ビューというものが紹介されていました。ソーシャル・ビューでは、目が見える人と目が見えない人とでグループを作って「話しながら」絵画を鑑賞します。見える人が作品から見えることと、感じたことを話し、見えない人が質問をしながら「鑑賞」が進んでいくというスタイルです。これをしていると、見える人が「これは草原で…」と話していたのに、途中で「あ、やっぱり湖でした」というようなことも起こるとも書いてありました。

 本書を通して強調されていることに、「福祉的な態度」というものがあります。

福祉的な態度とは、「サポートしなければいけない」という緊張感であり、それがまさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。(p.39) 

  この福祉的な態度をいかに克服するか、ということに心を配って書かれている本書ですが、この「ソーシャル・ビュー」は、福祉的な態度を超えて、見える人、見えない人がともに一つの絵の理解を補助しあう関係になっているところがすばらしい。絵を媒介にすることで、コミュニケーションが純化されているように感じました。

 ある作品について語り合い、解釈を説明しあったり深め合ったりすることは、見える・見えない関係なく誰しもにとって、おもしろいことだったりします。読書会や、歌会(短歌を批評しあう会)に参加すると、「そんな見方があるのか」とか「そういう意味だったのか」とか、毎回新鮮な驚きがあります(過去に歌会についての本のレビューをしました→読書記録:鑑賞の妙 『短歌パラダイス―歌合二十四番勝負』 - ルジャンドルの読書記録)。これも一つの「他人の目で見る」ですね。

ユーモア~視点の移動

フロイトは、ユーモアの秘密は視点の移動にあると言います。現実が、自分を苦しめようとしている。けれどもそんな状況をものともせず、超越した視点に立って「世の中そんなものさ」とユーモアは笑い飛ばすのです。(p.201) 

  パスタソースをあけるときは「クリームソースか、ミートソースか」、回転ずしや自販機などではもうロシアンルーレットのようだ、という当事者の談を引いて、この不便をくじ引き要素として楽しんでいる人もいる、と言っています。

 筆者は、多くの視覚障害者に密な取材をして関係を築いていくなかで、彼らのユーモアに触れ「くらくらするような衝撃を受けた」と述べています。僕は冗談を飛ばしまくる障害者に会ったことはないですが、それはおそらく密接な関係になったことがないからなんだと思います。仲良くなって初めて、こんなに面白い人だったんだ!と気づくというのはよくある話で、それは健常者や障害者というくくりとはあまり関係がないことです。

 視覚にかぎらず、障害のある人のユーモアは笑っていいのかどうか一瞬迷ってしまうところがあります。さらに、この感覚は健常者同士でも生じてきている印象があります。これはハラスメントになってしまうんだろうか、とか、いじめになってしまうんだろうか、これは笑っていいんだろうか、というように、引かれる線がどんどん増えてきて息苦しさを感じている人は多いのではないでしょうか?

 人はそれぞれ違う視点をもっていることは当たり前なのですが、その当たり前をもうすこし深刻に受け止めたうえでコミュニケーションをとる、軽口をたたくのは信頼関係を築いてから、という基本的なことができれば、不毛な争いは減るかもしれませんね。不快な軽口をたたかれた側が、「それは不快だ」「あなたとは信頼関係は築けていないですよ」と言いにくい、というコミュニケーションの非対称性があって、その解決を考えねばなりませんが…。

 

以上です。