この本を読みました。
身につまされる話だったり、もやもやしていたものを言語化してくれたりと、エッセイを読む醍醐味をそのまま出してくれている本でした。今現在僕は結構暮らしに行き詰まっている感じがあるので、シンプルに励まされました。もうすこしで30歳になるのですが、このエッセイに書かれていたのは若林さんが30歳くらいからのことで、自分と重ねながら読みました。
特に印象に残ったもの
...特別な才能がないから自己ベストを更新し続けるしかないという諦めは、ぼくにとって自信になった。(p.345,「社会人大学卒業論文」)
この一文はとくに勇気づけられるものでした。実はこの考え方に、僕は高校で陸上部に入った時に到達していました。中学まで野球部で、レギュラー争いに勝たないと試合に出ることができない環境でした。高校で陸上部に入ると、試合へのエントリーはとりあえずできて、やるたびに記録が積み重なっていく。数週間前の自分の記録に勝てればそれで満足で、他校の選手と比べて自分はどうだ、ということは考えもしなかった。部全体の雰囲気もそんな感じで、地区大会で入賞できたら、全道大会で遠征できて楽しいよね、くらいの感覚でした。
大学に入って上京すると、周囲の動向を意識している人があまりにも多く、びっくりしていました。陸上部でも、他校に「勝つ」「負ける」という言葉が使われていて、チーム内でもなんとなく、チームメイト同士の勝ち負けが意識されているような感じがした。学業にしても、どうやって効率よくいい成績をとるかという雰囲気があって、それが嫌でわざわざ学部を移ったりもしました。就活なんかはサイアクでした(画像参照)。東京の大学で過ごした6年ほどで、自己ベストを出していこう、という感覚を失っていきました。
超然としたがりつつも周りのことを意識して、そういう動向になんとなく影響を受けて、しっかりと対策をとるでもなく完全に無視するでもなく、中途半端に悪い選択ばかりしてきたような気がする。
幸い最近少しランニングをやり直し始めています。自己ベストでいいのかなぁ?という感覚はやはりあるんですが、原点に戻って、自己ベストの更新を目指してやっていくだけにしたほうがいいのかもしれません。
その他のこと
忘れないように、ほかにも感じ入った部分をいくつか引用します。
この間、母親から電話がかかってきて「あなた、最近TVのお仕事どうなの? 今の部屋もいつ家賃追いつかなくなるかわからなんだからしっかりしなさいよ」と言われた。
ぼくは親父と母ちゃんには一番「大丈夫だよ」って言ってほしかったなと思ったけど、まぁ甘いよな。とひとりごちてお腹に力を入れて「大丈夫だよ」と答えた。無論、本当に大丈夫かどうかは計算にない。方法も分析も考察も後だ。(p.91,「大丈夫だよ」)
ほんとそうだよね。
そんなぼくに、ついにダイエット企画の依頼が来た。二週間で三キロ痩せるという企画だった。
ダイエットの方法は自由ということで、打ち合わせで色んなダイエット法を聞いた。どれもこれも、金持ちの暇人しか出来なそうなのばかりだった。
サプリを飲んで、ジムに通って、リンパマッサージに行くなんて金持ちで暇人のバカしか出来ないんじゃないだろうか。(p.112,「ダイエット」)
金持ちで暇人のバカ。
お酒を飲むまでは、毎晩の散歩が日課だった。歩いて夜の公園のベンチに座ってあーでもない、こーでもない、と空のバケツに手を突っ込んで全力でかき混ぜるように考えていた。
だが、今は物事の結果や誰かの言葉をお酒でうやむやにしている。(p.123,「バーにて」)
このあとに、夜の公園のベンチでバケツをかき混ぜるなんてたいへんな贅沢だと書いてあります。
友人同士で箱根温泉に行ったのに、温泉に入ったらネガティブな思考が次々湧き上がってくるときの話。
おいおい、嘘だろ。
こんなこと考えたくないから箱根に来たんだよ。
しかし、温泉を堪能しようとすればするほど休暇中の温泉でホッとする自分。という役柄を演じているような気になった。慌てて風呂から上がった。(p.138,「ネガティブモンスター」)
何かをしているのに意味が無いのではなくて、意味が無いからこそ“せっかく”だから楽しいことをするのだ。(p.252,「牡蠣の一生」)
これもほんとそうだと思います。
当時、フラれた翌日街を歩いていて草木がちゃんと生えていて、世界が壊れていないことに驚いた。俺が彼女に振られたのだから、交通機関は麻痺して、ライフラインはストップしていないとおかしく感じた。四日間氷しか食べられなかった。(p.256,「十年ぶりの失恋」)
こういう感覚は久しく味わっていないけど、味わいたくなりました。たぶん無理だけど。若林さんは成長して感じなくて済むようになった、と書いています。
以上です。