ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:ベルクソンの時間論『〈現在〉という謎』①

 この本を読みました。今回の記事は、この本の6章(平井靖史)で語られるベルクソンの時間論について、内容のメモと感じたことを書いています。

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

〈現在〉という謎: 時間の空間化批判

 

 この本は、〈現在〉という概念を中心に、哲学的な時間論と物理学的な時間論を比較検討し、有益な知見を引き出そうというコンセプトで編まれた本です。物理学者(または哲学者)の論考に哲学者(または物理学者)がコメントし、さらにそこへリプライするという3つ組が1セットになっている8章で構成されています(例外アリ)。

 この『〈現在〉という謎』では、物理学者の谷村省吾先生と、哲学者の佐金武先生、青山拓央先生、森田邦久先生とが「時間」の概念をめぐって徹底的にすれ違ってしまっています(ケンカしてます)。物理の谷村先生は本書での議論に納得がいかず、100ページを超えるpdfファイルを自身のウェブサイトにアップロードしています( 『〈現在〉という謎』をめぐる議論)。僕は本を読む前に、このpdfファイルを全部読みました。

 谷村先生のpdfファイルには、次のような文章があります。

私には、哲学者たちの主張はポスト・トゥルース化しているように読めた。彼らは、経験事実や自然法則に束縛されず、言いたいことを言っているだけであり、自分はこう思うということがらを客観性を装って語っている。自分では客観論を述べているつもりなのだろうが、中身は主観論である。主観論を述べてはいけないと私は言わない。ただ、客観論のつもりで主観を滑り込ませるのは不用意だと思う。(一物理学者が観た哲学 p.109)

 かなり強い言葉で哲学という営みそのものを批判しています。こんなことになったのはなんでなんだろう、という気持ちで本書を手に取り、読んでみました。本書やこの論争については、次のブログを見ると雰囲気がよくわかるかと思います(僕がこの本を知ったのもこの記事です)。

物理学者と哲学者は「時間」を語ってどうすれ違うのか…『〈現在〉という謎』を読んで - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

哲学者は物理学者の本気の拳をどう受け止めるか…谷村省吾「一物理学者が観た哲学」を読んで|R. Maruyama|note

 また、過去に物理学者アインシュタインと哲学者ベルクソンも、時間について論争したそうで、それについて書かれた成書のレビューも大変参考になります。和訳されていないので、こうして記事にしてもらえるのはとてもありがたいことです。

読書メモ:The Physicist & the Philosopher (by Jimena Canales)…アインシュタインとベルクソンは時間をめぐって何を争ったのか - 重ね描き日記(rmaruy_blogあらため)

  ここで紹介したブログ(重ね描き日記)では、科学寄りのおもしろくてわかりやすい読書メモがたくさんあるので興味のある方は読んでみてください。このブログは、僕がブログを書き始めたきっかけのひとつです。

 

 本当は、この本でなされている激しい論争について書きたいのですがその前に、ベルクソンの時間の研究が大変面白かったので忘れないように記録しておこうと思います。

ベルクソンの時間論

 ...ベルクソンは、運動の変化や記号化が比較的容易であり、空間化・記号化がうまくいく領域(力学・物理学・化学など)では科学は実在に到達すると考える。一方で、生物や意識、社会現象など変化が複雑な領域では、生成や持続(時間)がうまくとらえられなくなる(PM,p. 34)。このため、これらの系は直接検証が難しく、時間や生成に関する仮説を含むような哲学(形而上学)が必要となる。ただし、この形而上学も科学と協働することで間接的に検証可能であり、それによって生成や持続の実在も徐々に解明できる(M, p. 480)、というのがベルクソンの考えである(実証的な形而上学)〔『〈現在〉という謎』 7章(三宅岳史) p. 230〕

 ベルクソンはこんな考えのもとで時間論を語っています。検証不可能でどうでもよく思えてしまった時間論(前回のブログ)との橋渡しをしてくれそうな印象です。

ベルクソンの問題意識

 ベルクソンの時間論は、次のような問題意識のうえに成り立っています。

どのような時間規模で事象を描き出すか。たとえば、〈取りうる最小の時間スケールこそがア・プリオリに「正解」の描像で、より大きなスケールは画素の荒い、質の低い世界像である〉といった、素朴な「時間スケールにかんする基底還元主義」には少なくない反省の余地がある。(中略)肝心なのは、我々が描き出したいターゲット事象が要求する適切な時間スケールを尊重することである。〔『〈現在〉という謎』 6章(平井靖史) p. 208. 太字部分は実際は傍点〕

  ここで言っているのは結構普通のことで、たとえば絵を見たいんだったらちょうどいい距離に立ってないとちゃんと見えないし、町全体を見渡したいならヘリコプターで上空から見るのがいいよ、というようなイメージのことです。物理学でも、cmスケールの物質の運動を語るなら量子論じゃなくニュートン力学のほうが適しているよね、というふうにふつうは考えます。

 また本論のなかには「主観的な時間」について、重要な指摘がありました。 主観的な時間とはたとえばアインシュタインが言ったとされる「ストーブの上に手をのせると1分が1時間に感じられたり、好きな子といると時間が一瞬で流れ去るように感じる」という発言に代表されるような考え方です。少し長いですが該当箇所を引用します。

...しばしば「主観的」と形容されるこの経験の速さは、身体の生理的な時間特性という「客観的な」事態から切り離された無根拠な幻覚ではなく、これに――還元されないとはいえ――はっきりと条件付けられていることも同時に見逃すべきでない。 この一見単純な事実は、我々の「時間経験」を、ひいては心的現象一般を、物理的世界へと接地させる上で、哲学的に重要な含意をもっている。我々のいわゆる「主観的な」時間を、しばしばそうなされるように、はじめから意識の現象界のうちに囲い込んで二世界説のごとく世界の「客観的な」時間から引き剥がしてしまう(これはいわば時間版の主観的観念論だ)や否や、原理的に扱い損ねることになる――とりわけ心の哲学にとって重要な――論点がいくつもあるからである。〔同上 p.212. 太字部分は実際は傍点〕

 ここで示された問題意識は、僕の肌感覚に合いました。僕が時間論に感じていた検証不可能性をどうにかしてやろうというアプローチになっているからです。

検証不可能性の回避

 ベルクソンは速度の考え方から時間を定義しています。循環論法では、と思えなくもないですが、次のような発想です。

 「運動体の速度」は、「距離」を「時間」で割ったものと定義されるが、この場合の「時間」とは時計の針という運動体の進む「距離」のことであるから(Lasne 2017, p. 56)、結局、二つの空間的距離の比である。〔同上 p.213. 一部略〕

これに対し、時間「経験」の場面では、観察者である私自身の身体がリアルタイムでこの「基準となる運動体(時計)」の位置を占めることになる。この点が決定的な違いを生む。〔同上 p.214. 太字部分は実際は傍点〕

 そしてこの、「基準となる運動体」である私が感じる1秒や1日がどのくらいの長さなのかは、比較によらない経験になり、これは第三者から検証できない部分になります。筆者(平井先生)は、これを「時間クオリア」と名付けて論を進めています。

 この点の理解に重要と思ったところを2点引用しておきます。

 人間にとって有意味な経験や出来事の規模というものがある。たとえば大脳皮質ニューロン電気生理がミリ秒のスケールで動いていても、一人の人として行うたとえば「会話」という現象を捉えようとすれば、より大きなスケールが要求される。〔同上 p.209〕

たとえば、波長700nmと350nmの電磁波を、われわれは赤と紫の感覚として経験するが、赤が紫の2倍だ(あるいはその逆)と量的な仕方で感じる人はいない。感覚質が質的であるというのはそういう意味である。しかし赤の感覚というクオリアなるものが、700nmの電磁波と別個に新しく併発するなり産出されると考えるなら、既知の通りとたんにアポリア(引用者注:解決不能な難問)に落ち込む。ベルクソンのアイデアはこうである。電磁波を電磁波に固有のスケールで、固有の時間構造の下で見るなら等質的な諸瞬間の系列として妥当に近似できる。だが、人間がそれについての視覚経験をもつ場合には、当該の電磁波は、人間自体の異質的な時間構造とともに、一つながりの異質的な作用連関を形成し、その一契機となすものと見られなければならない。「脳も神経も網膜も、さらには対象そのものも緊密な全体、連続的な過程を作る」(MM, p.241)からである。一連の情報処理経路自体のうちに複数の固有時間スケールが含み込まれる、その意味で異質的なこの経路自体が、内からの経験を――この場合は色クオリアを――構成する。〔同上 p.215〕

 人間がものを見る過程には、光(電磁波)が目に入る→神経にその情報が伝わる→脳で情報が処理される→色が見えたと感じる、と工程がたくさんあります(もっと細かく分けることもできます)。そして、そのそれぞれの工程を見るために適切なタイムスケールがあるため、電磁波のスケールで考えれば波長が2倍、という見方ができるけれど、色を見ているという段階になったらそうはいかなくなってしまう、ということです。

 ベルクソンは、このようにそれぞれ違うスケールの現象が重なりあって多層的になることで、心や意識が生じるのではないか、と考えたようです。そしてそこからさかのぼると、物質自体に意識のようなもの(質)があると考えることができます。この考え方は、『心にとって時間とは何か』で紹介されていたチャーマーズの「情報の二側面説」に似ています(前回のブログで紹介しました)。

 つまりこれはどういうことかというと、クオリアは物質と別のところにあるのではなく物質がそもそも備えているもので、人間とか動物のもつ意識は多くの物質の集積の結果複雑になっているものである、ということです。

この論考に思うこと

 この論考を見ると、どうもなんらかの実証的方法が考案できそうだ、という気になってきました(もちろん僕にはそんなものは思いつけないのですが)。とはいえ、冒頭で紹介したブログに書かれているアインシュタインとベルクソンの論争では、アインシュタインは複雑な心境を持ちながらも、公的にはベルクソンの論には全面的に反対したようです。

 論考の内容自体は、なるほど、すごいなぁ、しっくりくるなぁという感じで読み進めました。ここで、これを自分ですんなり受け入れられたということと、前に読んだ『心にとって時間とは何か』があまり心に響かなかったということにどんな違いがあるだろうかと考えてみました。

 『心にとって時間とは何か』を読んだときに思ったことは、検証不可能なのでどうでもよく感じる、ということでした。一方ベルクソンの論でも、最終的に「物質が本当に意識のようなものを持っているか」を検証することはたぶん不可能です。

 では、なぜベルクソンをすんなり受け入れられたのか、というとおそらく定義づけへの気の配り方に違いがあったからではないか、と思いました。『心にとって時間とは何か』では、意味に幅のある言葉が使われ、さらにその範囲を限定する説明があまり多くなかったように思います*1一方この論考では、用語の定義の説明がうまく配置され、書いてあることを具体的にイメージしやすかったです。だから、さまざまな時間論も、使われている用語をしっかり定義してあれば(もしくは僕がその定義を確認する努力をすれば)おもしろく読み進めることができるのかもしれないな、と感じました。

 あとは、ベルクソンの論では検証不可能なところがあるにしても、何らかの実験で理解を深めることはできそうだ、と思えたという点も大きいかもしれません(これは定義づけがきちんとされているというところにも関係するかも)。

 この論考で、ベルクソンについて興味がわいたのでもう少し深堀りしたいとは思ったのですが、ただいかんせん時間論自体がほかの話題よりも優先度が低いので読まない可能性が高いです。

 

以上です。

*1:編集上文字数に制限があった可能性や、煩雑さを避けるために著者が省いた可能性もあるので、一概に悪いと思っているわけではありません