ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:問題点がおんなじだ!『女性・その性の神話』

今回はこの本を紹介します。

女性・その性の神話 (1982年)

女性・その性の神話 (1982年)

 

  先日読んだ論文「反出生主義と女性」(橋迫瑞穂、現代思想2019年11月号)で中心的に取り上げられていた「青木やよひ」というフェミニストの考え方を知るために読んでみました。もともとの橋迫論文は、反出生主義特集の雑誌(過去記事)に載っており、ベネターの考え方と青木の考え方を対比させ、その似た点と違う点を指摘する内容でした。

 先日2019年11月24日に学習院大学で行われた反出生主義のシンポジウムに参加した際、登壇していた橋迫先生が「青木は消されたフェミニスト」というようなことを言っていました。どうやら、上野千鶴子との論争があったり、青木の論が日本で受け入れられにくいというか、誤解をもって受け入れられてしまったという経緯もあったようです。(論文がWebで読めます。「日本におけるフェミニズムとエコロジーの不幸な遭遇と離別 横山道史」

 

 『女性・その性の神話』で問題にされていることは、現代のフェミニズムで取り上げている問題とほとんどおんなじでした。この本の発行年は1982年ですが、中に収められているのは1970~1980年ごろに書かれた文章です。今を生きる私たちの社会では、約40~50年前に提起された問題の多くが解決されていないということが臨場感を持って理解でき、大変驚きました。また、全体として論旨が取りやすく、言っていることの筋が通っていて読みやすかったです。

 

どんな話をしている本なのか?

 戦後好景気~高度経済成長期(1955~1973年)の日本の雰囲気は、男は猛烈に働き、女は家庭で主人を癒したり子を育てるもの、という考えが支配的でした。筆者は、このステレオタイプを取り払い、女性の選択肢を広げましょう、ということをおもに主張しています。青木の主張は、主婦として家で過ごすことを好きで選ぶなら良いが、もし仕事をしたいと思った時に男性と比べて不当に低い地位に甘んじることなく貢献できるような社会にしたい、というものです。

女性は職場で男並みの働きを要求され、家庭では専業主婦並みの働きを期待されている。それでいて、共働きであっても、男性の家事負担はまったく問われていない。これでは女はスーパーマンにでもなるしかないのに、働いていると、母性の行使さえ「甘え」と断罪される。(p.148-149) 

まだまだ日本には、家事の時間を切りつめようなどとする女は、それだけで人間失格みたいな風潮があるとともに、料理や家事に関心をもつ男を軽蔑する風潮が、女にも男にもある。(p.175)

 このような状況では、「女は家、男は仕事」の構造から脱することはむずかしいと指摘し、社会システムを作り変える必要があると主張します。現行の社会システムはそもそも男性に合わせて設計されたものであり、女性が働きに出やすいように変革するべきだ、と。これは、最近でもフェミニズムに関する論考ではよくみられる考え方です。

  近年は女性の地位は向上しつつあると思います(まだまだ、という声もありそうですが…)が、問題意識自体はあまり変わっていないことを改めて認識しました。それだけ社会の変革は大変だということですね。本書の最後に載っている「Ⅳ 差別なき社会に向けて—対談 藤竹暁・青木やよひ」の藤竹さん(社会学者)は、女性の大変さを具体化したようなことばかり発言していました。フェミニズム以外の点でもかなりひどいことを言っています。

藤竹 ...たとえば育児休暇で隣の同僚が奥さんに代わって、きょうは休む、ということになると、途端に仕事というのはできなくなってしまうのですね。

 しかし、そこを法律なり、規則なりで保護して、男性にも育児休暇を認めようというふうにいたしますと、仕事の歯車それ自体がくずれてしまう。(p.243-244)

藤竹 ...女の先生に対して、世間はあまり好意的ではないのです。女の先生だけがたくさんいるような小学校があって、そこでうまくおやりになっていれば、そこの社会だけは変わっているはずなんですね。そこで子どもを育てれば、そこから変わっていくはずなんですが。...(中略)実体というのを考えると、どうもそういかない。それはやはり女性のほうに努力が足りない。(p.247)

藤竹 ...いまは職場に来てもらっちゃ困る、という気が男性の立場から考えるとするわけです。女性にはなんだったら早めにやめてもらいたい、という気のほうが私にとっては強いわけです。個人的な独断をいえば、やはり作業の能率なり、仕事量などの点でいいますと、どうも女性の場合には、かなり早い時期にある一つのピークがきてしまう、というような感じですね。(p.253-254)

 ほかにも、青木の発言を「それは証拠のない話」と切って捨てたりするなど言いたい放題で、よく我慢して話を続けられたな、と思うようなものでした。

 また、青木の考え方は「エコフェミニズム」と呼ばれたりもしますが、その理由はざっくりいうと、文明社会(とそれに付随する環境破壊)に疑問を呈すことで女性の地位を考える立場をとるからです。エコフェミニズムについては、冒頭で引いた横山道史の論文が詳しいです。

 

問題点がおんなじだ!

  本書で問題点として取り上げられている話題は、ほとんど現代でも問題視されていることばかりでした。以下に記します。

① 無気力な若者

 現代の若者や女性の苛立ちと疎外感は、ここに根を持っている。目に見えぬ形での父権的男性原理の一方的行使によって自分たちにしわ寄せされている矛盾を感じながら、その責任をどこに持っていってよいかわからないからである。その結果若者は、しょせん何をしても空しいというシラケ・ムードになるか、ある日突然その欲求不満を中年世代に向かって爆発させる。女性の場合は、うじうじと思いつめたあげく発作的に子殺しに走るといったことになる。(p.146-147)

  現代の現役世代として「シラケ・ムード」は実感するところが大きいです。ここで青木は、振るわれる権力の機構が見えにくいため、責任の所在がどこかわからなくなっていることに原因していると述べています。

② 女性や老齢人口の社会進出

…現実に即して、若年労働が足りなくなれば女や老人のエネルギーの活用を考えるとか、障碍者にも市民権を与えるとか、発想の転換をしないかぎり、人口問題は管理社会の傘の下にすっぽりとはめこまれてしまうのではないかと思う。(p.187) 

  青木はこのように言及してはいますが、具体策は提示していません。現代にそのまま問題が引き継がれているように見えます。とはいえ、女性や高齢者の社会進出は目に見えつつあるので一定の改善はみられているといってよいでしょう。その結果がすてきなものなのかどうかはわかりませんが…。

③ 子育て難の問題

女性の「家事・育児」天職論がまかり通っているのが日本である。だから、保育施設も男性の家事参加もいっこうにすすまない。(p.150) 

相互扶助のネットワークがなくなり、家族の誰かが寝こんだりした場合、ちょっとした援助や手代わりも期待できなくなったのである。(p.190)

長い時間をかけながら五十年も前に核家族化を完成している欧米では、それに見合った福祉制度や、ホームヘルパー、ベビーシッターなどの便宜が発達しているが、日本ではまだそれもないからである。(p.191)

 保育所の充実を図ろうという動きは最近さかんですが、まだ足りないということはよく聞きます。ベビーシッターを呼んでいるという話はあまり聞きませんが、僕の住む調布市では、年上限28000円の補助が出るみたいです*1。制度があるということは利用者もある程度いるってことかな?でも、28000円程度では、足りないような…。もちろんないよりはいいですが。

 最近はイクメンという言葉は出てきたりしていますし、僕の友達はしっかり育児を担って家庭を運営しているように見えますから、一時期よりはいいのかもしれませんけど、動かない夫を愚痴るネットの投稿はいまだに絶えませんね。

夫婦別姓の問題

 憲法に男女同権がうたわれ、結婚後は男女どちらの姓を名乗ってもよいとされながら、実際は戸籍に筆頭者制度が残っていたり、結婚すれば男の姓になるのが社会通念となっている限り、真の民主主義の実現も平等の達成もほど遠いと思わざるをえない。 (p.211)

  これは最近訴訟があったりして、ホットな話題です。しかし制度は変わらないという判決。制度変更のめどは立っていないようです。

 

 こうしてみると、過去に指摘された問題の完全解決はいまだなされず、新しく生じる問題が蓄積していくばかりな気がしますね。

 

青木やよひ vs 上野千鶴子

 冒頭でも少し触れましたが、本書の著者青木やよひと今なお有名なフェミニスト上野千鶴子のあいだで、一度論争が起きたようです。その原因のひとつは、ごく簡単に言うと、青木は女性を「産む性」と位置づけ出産を肯定的にとらえる一方、上野は女性を生殖から解放するという立場をとったということです。興味深かったのでここにメモしておきます。

 

 本書中で、青木はなんども「いますぐ、できることから」というような主旨のことをいっています。社会構造を変更するには、やはりどうしても人数が必要になるので、切実な願いや要求にすこしでも賛同できるなら、何らかの形で協力を表明したり行動のとり方を変えたりしないといけないですね。

このあたりで終わりにします。