読書会レポート:処女と残酷 『お伽草子』
今回はこの本を紹介します。
読書会のテーマ本
2016年春ごろから個人的に主催している読書会も、第4回を数えます。過去の記事はこちら
このお伽草子は、前回参加してくださった方のお気に入りの本ということでテーマ本に選定されました。この小説は、「瘤取りじいさん、浦島太郎、カチカチ山、舌切り雀」の4つのお話を、太宰治がアレンジして創作した短編集になっています。読書会では、読みやすいように+読書会で会話のきっかけになりやすいようにテーマを設けています。
- 好きな話・嫌いな話とその理由
- 1.で挙がった話の原典と、作者のアレンジの意図をどのようにくみ取ったか
- 現代で寓話化できるようなモチーフはありそうか。あるとするならどんな風に利用して物語を組み立てるか
今回、カチカチ山の話が盛り上がったので、それをメインにレビューします。
カチカチ山
太宰治の目には、カチカチ山のお話の「残酷性」が印象的だったようです。カチカチ山は、おばあさんを殺してしまった狸に、その悪事に腹を立てたウサギが報復をするお話です。
ウサギの狸に対する執拗な攻撃は並大抵の精神の持ち主ではできることではなく、そこにはある種の設定を設けなければ納得がいかないということで、このアレンジが生まれたようです。
十六歳の処女
太宰は、ギリシャ神話の処女神アルテミスを引き合いに出し、若い処女の「言い寄ってくる男に対する過剰なまでの残酷性」とそれでも思いを寄せてしまう男の悲しい運命をモチーフにして設定を構築しました。この作品の中で、狸はウサギのことが大好きな愚鈍な中年オヤジ。ウサギは若い女で、狸のことをとっても気持ち悪いと思っています。この設定には、「ウサギは美であり、善である」ということと「狸は醜く、悪である」ということが内在しています。このような設定の下で、ウサギの、あまりにえげつない狸に対する攻撃に説明がつくようなります。
読書会では「なぜ十六歳の処女と断定したのか」というところに焦点が当たりました。やはり、断定するにはそこになんらかの根拠があるはずです。
通常、美醜や善悪の間には明確な線はなく、グラデーションのようになっていると多くの人は考えるし、実際その考えは受け入れられているように思えます。しかし、このカチカチ山のお話では「老夫婦の代わりに報復をする」という善行を行う「美であり善である」存在としてのウサギが、「狸の背中を燃やす、唐辛子入りの軟膏をやけどに塗る、泥船に乗せて沈める」という残酷極まりない結果をもたらします。この事例では、善悪がグラデーションのようにはなっておらず、善の隣に突然悪が登場するというような形になっています。この目まぐるしさをもつわかりやすいモチーフが「十六歳の処女」なのでは、という議論になりました。
残念ながら今回は男2人での会だったので、憶測でしか語れませんでした。参加者に女性がいたら、かつて「十六歳の処女」だった人からはどのような見解が出るか楽しみだったのですが、今回はお預けでした。
興味深かったのは、「兎は十六歳の処女だ」という文言に何の論理性もないし、すべての処女が皆一様に残酷というわけでもないのに、なんだか不思議と納得させられる力があったことです。
おとぎ話になりそうな現代のモチーフ
テーマ3.では、おとぎ話の骨子らしいものには至りませんでした。ただ、インターネットでのコミュニケーションが一つのモチーフになりうるのでは、という話になりました。
はるか昔から現代で、新しく登場したモノはたくさんありますが、インターネットの登場でコミュニケーションの形が大きく変わりました。また、LINEの既読機能によって生まれた新しい感覚は、現代人に浸透しつつあります。手紙は、送ってしまえばそこでいったん完結し、時間的な隔たりもあるので返信を受け取ることとは独立しているような感覚があります。しかし、インターネットの発達でメッセージのやり取りのスピード感や絶対量が上がり、さらにLINEのメッセージは既読がつくことによる圧力で返信をもらうところまで1セットという感覚があります。このコミュニケーションの構造変化がなんらかの寓話的なものの材料になりそうだね、という話が展開されました。
おわりに
すこしあっさりしたレポートになってしまいました。その原因はメモを詳細に取らなかったことと、当日読書会のあとにお酒を飲んだことです。メモはかなり大事ですが、そのせいで会話のスピード感が削がれてはいけないのでなかなかバランスが難しいです。
次回は2017年6月24日土曜日の午後に、都内のどこかで開催します。
テーマ本は「ウンコな議論」(H. G. フランクファート著 山形浩生訳 ちくま学芸文庫)です。(この間レビューを書きました(こちら)。ご興味のある方はご連絡ください。楽しく会話しましょう。
(初投稿:2017年4月18日)