ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:「わかりやすい」って何?『学術書を読む』『わかりやすさの罪』

これらの本を読みました。

わかりやすさの罪

わかりやすさの罪

 
学術書を読む

学術書を読む

 この2冊はたまたま同時期に読んで、どちらも「わかりやすさ」に対する疑問が展開されていました。考えたことが共通するので、まとめて記事にします。

 読んでいて特に驚いたのは、「書籍要約サービス」とか「読まない読書会(アクティブブックダイアローグ:参加者数人で分担して1冊の本を要約する)」というのがあるという情報です(『わかりやすさの罪』に出てくる)。効率的に情報を身につけるサービスとして注目されているそうです。

creive.me

www.abd-abd.com

 こんなサービス、特に要約サイトのほうは出版社も著者も忌々しく感じると思うのですがよく掲載を許可するよな、という感じです。

 とはいえここ2,3年、こういうコンシェルジュのようなサービスはもっとも求められているものだよな、とも思います。実際『学術書を読む』のほうは、「読むべき学術書を選ぶことが難しい」と書かれた大学院生からのメールを著者が受け取ったことをきっかけにして書かれており、「専門外の学術書はどのように選んでいけばいいのか?」ということが内容の中心です。売れてる本やYoutuberの動画、インフルエンサーツイッターなどなどを見ると「この商品がいい!」「このような考え方をするとうまくいく!」などと「何かを判断する指針」を示しているものが多い印象です。世の中にあふれる判断材料が多すぎて、誰かに決めてほしいと思う人が多いからそういったものに人気が出るのでしょう。最近はどんなことでも選択肢が多いので、自分もなにか選ぶ必要があるときにはそういう情報に頼ることが多いです。なるべく選択肢の少ない方向に進もうとさえします。

 『学術書を読む』の本選びの指針を説明する章のなかに、「学識のある人を慕う、という本選び」というコラムがあります。読んで字のごとく、学識があるなと自分が思う人が読んでいる本を読むということで、僕自身が読む本を選ぶときはこの方法で選ぶことが多いです。これって本質的には、好きな芸能人とかYoutuberが紹介してる商品を買うのとおんなじことです。『学術書を読む』の「良い本を選ぶには」という問題意識は、先の要約サイトにも共通しています(「良い本を効率的に見つけるにはどうしたらいいだろう?」)。

「わかりやすさ」って何

 今回読んだどちらの本も、「わかりやすさ」には否定的です。

...読書においてもっぱら「わかりやすい」ことを要求するのは,身体への負荷をかけずに身体を鍛えようとすることと同じです。(『学術書を読む』p.39-40)

 目の前に、わかりにくいものがある。なぜわかりにくいかといえば、パッと見では、その全体像が見えないからである。凝視したり、裏側に回ってみたり、突っ込んでいったり、持ち上げたり、いくつもの作用で、全体像らしきものがようやく見えてくる。 でも、そんなにあれこれやってちゃダメ、と言われる。見取り図や取扱説明書を至急用意するように求められる。そうすると、用意する間に、その人が考えていることが削り取られてしまう。(『わかりやすさの罪』p.2)

 わかりにくいことをわかりやすくまとめた書籍や体験では、重要な部分が欠落してしまうという懸念がなされています。「わかりやすい/わかりにくい」については「大変難しい問題」としながらも『学術書を読む』のなかで次のように述べられています。

...「わかりにくい」と言われる本は,たいていの場合,理解するにはそれなりの根気と時間と好奇心を必要とするという程度のものだということです。逆に言えば「わかりやすい」とは,基礎的な知識のない者でも躓きもなくすらすら読める,ということになるかと思います(『学術書を読む』p.35)

 学生のとき、学生が教員の授業を評価しているのをよく聞きました。そのなかでよくでてくるのは「あの先生の授業はわかりやすい/わかりにくい」という発言でした。「わかりやすい先生」の授業は人気で、「わかりにくい授業は意味ないから出ない」と言って出てこない人も結構いました。自分としては「あの授業は楽しい」「つまらない」しかなかったし、今までも「わかりやすい/わかりにくい」で何かを評価することができません。「わかりにくい」と言うと、対象をわかったうえで評価しているようにみえるのですがそうではなく、「自分はそれを理解しておらず、理解する根気がありません」と言っているのと同じことに感じて、当時からすごく恥ずかしくて言えませんでした。
 授業だったら説明や話し方の上手い下手はあるし、本だったら書きぶりの上手い下手があるので、「わかりやすい/わかりにくい」と感じることは当然あります。だからサービスを受ける目線に立つと、授業を提供したり本を書くなら聞きやすさや読みやすさに気を配れというのはもっともな意見だけど、そこが評価の第一基準になっているのが自分にとっては気持ち悪い。

「わかりやすさ」への気配り第一になると気持ち悪い

 なににつけても批判的に、自分なりの考えを加えながら取捨選択して判断せよ、ということはいろいろなところでしきりに啓蒙されます。でもそれはおそらく平均的な市民には不可能ですし、どんな知識人も実際はやっていないと思います。あらゆることを1から10まで自分で考えて組み立てようとすると、間違った結論になることも多いし、すでに誰かによって考えられたある程度妥当な答えがあるならそれを理解するほうがいいです。前にプログラマーの人に「イチからコードを書くこともあるんですか?」と聞いたら「そういうのはあまりやらないですね。意味がないので」と言われ、愚問だったなと思ったことがあります。プログラムのコードと同じように、何かに対する理解もなんらかのテンプレートや下地をもとにして改良していくことが基本です(最新の研究成果で参考文献のついていないものはありません(←多分))。

 本には、妥当かどうかはわかりませんが「誰かによって考えられた答え」がまとめられます。それなりの本には、その答えに至った経緯がしっかり書かれています。『学術書を読む』『わかりやすさの罪』のどちらでも、「わかりやすくするために、その経緯の部分をなるべくシンプルにしている」と指摘されています。
 これらのことを踏まえると、「何かを理解する」というのは、結論だけでなく経緯をとらえることだ、と見えてきます。実際『学術書を読む』の著者の鈴木哲也は、前著『学術書を書く』(高瀬桃子との共著)で、「学術書が提供するのは単なる情報ではなく、有機的につながった知識」と言っています*1。だから結局「わかりやすい」がなんか気持ち悪いのは、「それだと本当にはわかったとは言えないんじゃないの?」が拭えないからではないかと思います。だから冒頭に挙げた「書籍要約サービス」や「読まない読書会」のようなものへの違和感が生じるのでしょう。

 あと単純に、わかろうとする側が「わかりやすくしてよ」「どうしてわからせてくれないのか」という態度が気持ち悪いというのもあります。『わかりやすさの罪』のなかで、「どうして私に理解させてくれないのか」という小見出しのついた段落で以下のように書かれています。

...いつもテレビで見ている芸人さんがおススメしているのだから、わかりやすくて面白いに違いないという勝手な確信によって本を手にとり、「ストーリーと深く関わること」がない知識や、「誰が誰だかわからない」と感じさせるキャラクターが登場する小説を読まされたとして、「アメトークに騙されました。」との異議申し立てを行う。
 自分がその小説を理解できなかったのであれば、なぜわからなかったのかを主体的に語るべきだとは思うのだが、自分が信頼している芸人や番組が薦めたのに理解できなかったことをただただ嘆いてしまう。(『わかりやすさの罪』p.17-18) 

 ここで挙げられている事例は小説ですが、それこそ「経緯を把握する」の最たるものでもこういうことが起きているのです。これは自分にとっては、上に書いた「自分は根気がありません」を恥ずかしげもなく表明しているのが気持ち悪いです。

「わかりやすい」は悪なのか?

 こういう話題では、本などに接するときの受け手側の態度への苦言が主になってしまいます。しかし、「わかりやすい」のがいいとは思えないけれど、一概に悪とも言い切れないのではないかとも思います。実際、ここまで僕が書いてきた内容や紹介する本のなかに書いてあるのは「何かを理解するなら本気で理解しようとしろ」というようなある種精神論のようなものだからです。『学術書を読む』のなかに「それなりの根気と時間と好奇心を必要とする」と書いてありますが、「わかりやすい」を求める人たちはそれらがないけどわかりたいわけです。
 体育が嫌いだったという人は多いですが、その理由を聞くと「精神論が嫌だから」というのが多いです。でも、体育嫌いだった人たちが中年になって必要に迫られて運動を始めると楽しくなってきたという話を聞くことがあり、その理由は体育教師のような理不尽な存在がいないから、だったりします。
 「なにかを理解する」に関しても、嫌な体育教師のような存在が結構いるものです。そういった存在は、「嫌ならやらなくてよろしい」と言うわけですが、誰もが嫌でもやらなきゃいけないのが「なにかを理解する」ことで、しかもなにをどれだけ理解すればいいかわからないという不安があるから、なるべく数多く、広範囲に、そして手軽に、というニーズに目をつけて先の書籍要約サービスのようなものをはじめとした、『わかりやすさの罪』で語られるさまざまなエピソードが生まれきたのでしょう。

 だから、手放しに肯定できないですが、「わかりやすい」を求める人たちやそれに応答して生産していく人たちのことを一概に悪だとも言い切れません。「わかりやすい」をきっかけにして「わかりにくい」にとりかかる人もいるはずですし。僕としては、わかりたいと思ったら「根気と時間と好奇心」くらい自分で準備しろよと思いますが。

最後に

 ここまで書いてきて思うのは、客が強く、供給側が弱い...ということです。以下の記事はアメリカの大学の事例ですが、学生(=客)の要求が肥大化しおかしな状況が生じていることが指摘されています。

アメリカの大学でなぜ「ポリコレ」が重視されるようになったか、その「世代」的な理由(ベンジャミン・クリッツァー) | 現代ビジネス | 講談社(1/7)

 客からの要求をどこまで受け入れて対応するかは組織によりますが、どこの組織も要求を受け入れざるをえないことが背景にあると思います。『学術書を読む』『わかりやすさの罪』で話題に上ったような出版社やテレビ、ビジネス上のやりとりのなかで、客の要求をのまないと儲からなかったり炎上したりしてしまうという危機感があるのでしょう。上記記事のように、アメリカの大学でさえそのような状況にあることには絶望感があります。

 おわりです。

*1:引用ではないので細かい文言は違うかもしれません