ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:「いま」で評価する『チョンキンマンションのボスは知っている』

 この本を読みました。

チョンキンマンションのボスは知っている: アングラ経済の人類学

チョンキンマンションのボスは知っている: アングラ経済の人類学

  • 作者:小川 さやか
  • 出版社/メーカー: 春秋社
  • 発売日: 2019/07/24
  • メディア: 単行本
 

 この本は香港でのフィールドワークの記録で、タンザニアの商人が香港でつくっているコミュニティを中心としたものです。チョンキンマンションというのは、長期滞在者が数多く暮らす香港の安宿のことで、著者自身も、チョンキンマンションに宿泊しながらおよそ半年間を香港で過ごします。チョンキンマンションで起居するなかで、チョンキンマンションのボス「カラマ」と出会い、密着取材することでおもしろい知見をたくさん引き出しています。カラマをはじめ在香港タンザニア人たちの考え方や生き方、実務的なやりとりが大変興味深い本です。この記事で紹介するのはごく一部ですが、本全体どこをとってもおもしろいです。

小川さやかという研究者

 著者の小川さやかさんの研究は本当に面白いんです。大学院生の時分に、タンザニアの商慣行を調査するために、タンザニアへ渡って言葉を学び、路上商人に弟子入りして、タンザニア商人の哲学や商システムを体感しながら研究成果として発表してきたバイタリティあふれる方です。

 小川先生は、『現代思想』2017年11月号に「オートエスノグラフィに溢れる根拠なき世界の可能性」という論考を寄せています。ここには、ダイジェスト版ですが小川先生のこれまでの研究と、文化人類学者として「エスノグラフィ(民族誌)」にどのように向き合ってきたのかが書かれており、読みごたえがありました。タンザニアに飛び込んで研究をしてきた、ということだけでもおもしろいのですが、ケータイ小説コミュニティのなかにどういう特徴があるのかを調べるためにケータイ小説の作家として投稿する、というようなことも研究の一つとして行っており、なんでもありですごく面白い記事でした。

 

 さて、『チョンキンマンションのボスは~』についてです。タンザニア人コミュニティの考え方がおもしろかったので、そこに的を絞ってまとめてみます。

 チョンキンマンションのボス カラマ

 この本のエピソードの多くは、カラマという一人のタンザニア人が中心となって記述されています。

香港にはじめてやってくる交易人たちは、先陣の交易人に「困ったことがあったら、チョンキンマンションに行ってカラマを探せ」と教えられるそうだが、事実、カラマのところには毎日のように数多くの後続のタンザニア人たちが相談にやってくる。(p.19) 

  著者は、このカラマに「スワヒリ語を話せるめずらしい日本人」として接触できたおかげでかなり仲良くなれたそうで、それは大変幸運だったと述べています。このような頼れる(とも言い切れないのですが)男と知り合えたことで、タンザニア人香港コミュニティのことがつまびらかになっていきます。

「いま」の状況に限定した形でしか他者を評価しない

 ...彼らは常々「誰も信用しない」と断言している。それは「素性」「裏稼業」を知らないからというより、誰しも置かれた状況に応じて良い方向にも悪い方向にも豹変する可能性があるという理解に基づいているように思われる。カラマたちは、「彼はいま羽振りが良いから、おカネを貸しても大丈夫だ」「彼はこの間、輸入した天然石の品質が悪く大損したから、少し気をつけたほうがいい」「彼の恋人も一緒なら、彼は良い奴だから遊びにいきな」と「いま」の状況に限定した形でしか他者を評価しない。(p.82)

 筆者は、タンザニア人コミュニティで付き合った人々のことを、上記のように分析しています。タンザニア人コミュニティでは、食いっぱぐれそうなやつがいたら無理のない範囲でみんなが少しずつ助けてあげるような互助関係がうまく働いている、ということが紹介されているのですが、その話題のまとめとしてこのような分析が出てきます。当然無礼な人は嫌われたりもするのですが、それでも渋々ながらみんな助けてあげたりしているのです。

 なぜタンザニア人コミュニティの人たちはこのように考えるのか、筆者はもう少し考察を進めています。少し長くなりますが引用します。

 彼らは「他者を助けることができる者は必ずいる」という。儲け話に釣られて先人がくれた紙切れ一枚の「道案内」を頼りに中国・香港にのりだした彼らに「窮地に陥った経験」について聞けば、無数の人生の危機を語ってくれる。それらの危機を乗り越えることができたのは、集会で人びとが語ったように偶然に出会った誰かに助けてもらったからである。だが、この「誰かは助けてくれる」という信念は「同胞に対して親切すべきだ」という期待ではなく、それぞれの人間がもつ異なる可能性にギブ・アンド・テイクの機会を見出す個々の「知恵」に賭けられている。すでに述べたように、カラマの携帯には、政府高官や大企業の社長、詐欺師に泥棒、元囚人まであらゆる人間が登録されている。これらの人々とのネットワークは、「ついで」によって築かれてきた。相手を問わず助けるのは、自分が困ったときに役立つ人物が異なるからだ。(p.85-86)

 ふだん日本で暮らしていると、「日々の信用は大事」と同じくらい「信用を失うのは一瞬」と感じさせられたり、明言されていたりします。偏執的に一貫性を追及されてしまうこともあります。タンザニア人コミュニティにみられるような、「いま」の状況だけで評価する、というのは日本ではむずかしい考え方だな、と強く感じました。

 「自立とは、困ったときに頼れる先を多くしておくということ」という言説をときどき目にしますが、カラマなどタンザニア人コミュニティの人たちはそれを地で行っているように見えます。こうした共通認識を持った構成員からなる共同体は、それはそれで居心地が良さそうです。とはいえ、自分としてはやはり、これまで作ってきた価値観のせいでやっぱり気軽にいろんな人に頼るのは気が引けるし、予定外に頼られたり面倒を見なければならない状況がたびたび生じるのは煩わしく感じてしまうでしょう(面倒を見てあげるほうが好ましいとはわかっていつつも…)。昔2ちゃんねるで、いろいろな場所で同じ質問を投稿しまくっている人がマルチポスト野郎とか言って叩かれていたりしましたし、頼る先を増やすというのは日本ではあんまりうまく根付かなさそうな気がします。自分のなかの「気軽にいろんな人に頼るのは気が引ける」という考え方をどうにかできればいいのですが。

 同じ小川先生の著書で『その日暮らしの人類学』というのがあります。

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

「その日暮らし」の人類学 もう一つの資本主義経済 (光文社新書)

  • 作者:小川 さやか
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2016/07/14
  • メディア: 新書
 

  この本は、著者がタンザニアでフィールドワークしていた時のことが書かれているのですが、タンザニアでは職を転々とする人が多い、とありました。今の仕事をクビになっても大丈夫、隣町にいけば仲間がいるから、というような考え方だったり、新しい事業のアイディアを出して着手してみては継続できなくなったり飽きたりして次の仕事へ移っていく様子が記されています。夫婦ともそういう感じで仕事をしているけど、一方が不安定なときは他方が安くても安定収入が得られるような仕事をしてバランスを取りながら暮らす様子の例が出ていて、おもしろいなぁと思って読みました。

 多くの文献を見たわけでないのであまり大きなことは言えませんが、人付き合いの指針はどうしてもその人が属する社会の経済構造に規定されるんじゃないだろうか、と思っています。だってどういう社会でもメシは食べなきゃならないし、メシを食うことと人間関係は切り離せないので。

   職を転々とする人が多いタンザニアでは、人付き合いも広く浅くなりがち。ひとつの会社に長く勤める人が多い日本では、人付き合いも狭く深くなりがち、というのはその表出のように感じられました。いま日本社会の労働者は流動的になりつつあるので、人付き合いの指針もそれに伴って変わっていくような気がします。

あえてしくみを効率化しない

 もう一つ書き残しておきたいのは、経済取引のしくみをあえて効率化しないでいる、という点です。カラマたちのようなタンザニア商人は、在タンザニア、在香港を問わず「TRUST」というSNSのようなプラットフォームを介していろいろな取引を行っているそうです。TRUSTはFacebookみたいな感じで近況を投稿したり、手に入れた商品の買い手を探したりするのに利用されています。そしてそれだけでなく、ネットで見つけたおもしろGIF動画とか、なぞなぞとか、自撮りとかも投稿されるような楽しい感じのコミュニティなのだとか。

 筆者が、ヤフオクとかメルカリのような、取引に特化したプラットフォームがあるんだよ、とカラマに見せたそうですが、カラマはそんなに魅力を感じず、今後の取引に取り入れるつもりは毛頭なさそう、という描写がありました。このことなどを踏まえて、筆者は次のように述べています。

 タンザニア人のプラットフォームはあくまで、厳密な互酬性を期待するのが難しい、不定形で異質性の高いメンバーシップにおいて、誰か負い目を固着させることなく、気軽に無理なく支援しあうための試行錯誤をする過程で構築されたものであり、市場交換の論理がその上に乗っかっただけなのである。(p.161)

 親切にすることは他者への共感や仲間との共存のためであり、それが「商売」にもつながったら喜ばしいし、幸運なことである。しかし「商売」のために仲間を格付け・評価したり、仲間を増やす競争が目的になったりしたら、親切にすること自体が味気ないものになる。(p.161-162) 

 資本主義の先進国で繰り広げられている経済活動とは全く違う理念なので、やっぱりどうしてもうらやましく感じてしまいました。目的が「楽しくやること」で、その要素のなかの「商売」という位置づけで食い扶持を得ながら暮らせたらそれは楽しいことだろうな、と思います。

 とはいえ、落ちこぼれてにっちもさっちもいかなくなってしまう人や、犯罪に手を染めたり、グレーな方法で金もうけをしている構成員もたくさんいて、収監された経験がある人もたくさんいるコミュニティであることもたびたび触れられているので、そこで生き抜くことは簡単なことではないのでしょう。こういう危険な橋を渡らなくて済むようにデザインされた日本の社会はすばらしい、と考えることもできます。

 暮らしていくうえで、まわりにどういう考え方の人が多いのか、ということはきわめて重要です。いま、終の棲家を外国にするぞ!!という決意をしてもそんなにおかしくない風潮が高まってきています。こういう本を読んで、終の棲家を夢想してみるのは楽しいことですね。

 

以上です。