ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書会レポート:前提曖昧にして議論ウンコとなる 『ウンコな議論』

今回もこの本を紹介します。

 

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)

ウンコな議論 (ちくま学芸文庫)

 

 

読書会のテーマ本

 2017年6月24日土曜日、東京駅付近にてこの『ウンコな議論』をテーマ本として読書会を開きました。本書のレビューは過去に書きました

 

nattogohan-suki.hatenablog.com

 

が、より考えが充実したので読書会のレポートを書き残します。タイミングがよくなく、参加者は僕含め2人でしたが、忌憚なく意見を交わし合うことができました。
 基本的に本の流れに則って話していきましたが、時にたとえ話に熱くなり、時に相手の意見に対し「それはウンコな議論なのでは?」といった批判的な発言も飛び交う活発な会となりました。

ウンコな議論とはなんなのか

 本書は「On Bullshit」というタイトルの本の邦訳です。Bullshitとは英語の大変品のない俗語で、新聞や公式な文章にはまず登場しないような単語です。本書では「ウンコな議論」という訳語があてられています。Bullshitは「牛のクソ」といったニュアンスも含んでいるのですが、訳者は排泄物に絡めたそのニュアンスを華麗に織り込み(表題以外にも屁や、ウンコの形状と議論のありさまの類似点など)、訳文として完成させることに成功しています。その華麗さについては本を参照していただくとしましょう。 
 読書会では、本書の主題である『「ウンコな議論」とはなにで、どういう性質を持ち、それはウンコな議論ならざるものとはどう違うのか』についての議論が交わされました。
 最終的には「議論の前提・目的を故意・無意識とにかかわらず取り違え、あるいは無視して繰り広げられる論」。これがウンコな議論であるという結論に達しました。そこにたどり着くまでに繰り広げられた対話のレポートになります。

議論の要件

 ある議論が、議論として成立するために満たさなければならない要件とはなんでしょうか。

  1.  前提がある
  2.  前提から結論へ至るときに、論理的な瑕疵がない
  3.  目指すべき結論もしくは妥協点がある

 この要件は私見ですので過不足あるかもしれませんが、今回の会ではこれに基づいて対話しました。
 この三要件のうち、1.とその周辺に重大な欠陥があるものがウンコな議論へと陥りやすいという指摘がありました。
 論理の性質上、誤った前提から出発してしまった場合、論理的に正しい手続きを踏んであらゆる結論(明らかに誤ったものでさえも)に至ることができます。この性質を意識していなければ、いかに論理的で理知的な態度で議論に臨もうとも、有益な結論に至ることはできません。
 本書中では、議論の参加者には三通りの態度(A~C)がある、と述べられています。その三通りの態度について、私たちは以下のように、上記三要件を絡めて特徴を整理しました。

 A. 真実を語る:(私たちの解釈)上記三要件を満たすようにがんばること
 B. 騙す:(私たちの解釈)上記三要件のうち、2.を故意に無視し、誤った結論へと導く
 C. ウンコな議論をする:(私たちの解釈)上記三要件のうち、1.を適当にする

つづいては、例を挙げながらウンコな議論の性質に迫ります。

ウンコな議論の例1~旅行の計画

 卑近な例を挙げましょう。たとえば、あなたの友だちが旅行の計画を立てているとします。旅行の方向性を決めるため、参加者のある程度の予算が知りたいから教えてくれ、と言われました。いくらまで出せるか、と問われたあなたは、それに対する返答をする必要があります。こんな状況で、あなたには二通りの選択肢があります。

  1.  財布の中身を確認する
  2.  財布の中身を確認しない

 財布の中身を確認することは、かなり基本的なことですが、上記の議論の三要件の1. にあたります。ウンコな議論者はこの部分をないがしろにしてしまうため、その後の議論がガタガタになってしまう、という恐れがあります。選択肢2. を選んだ場合は「5万円くらいかな?」というほかありません。
 この選択肢で1. を選んで初めて「財布に1万円しかないが、1万円では大した旅行にはならない。しかも1万円しかないのは恥ずかしいから、ちょっと多めに言おうかな。少しくらいは何とかなるんじゃないかな」という葛藤が生まれて、「正直に言う」か「嘘をつく」かを選ぶ段階になるわけです。したがって、前項で挙げた議論者の態度としてA、BとCとの間には大きな隔たりがあることがわかります。すなわち、真実に対する態度です。財布の中身を知ったうえで行動をとるのか、知らずに(いいかげんに)行動をとるのか、ということです。

ウンコな議論の例2~ウィトゲンシュタインの例

 本書では、有名な哲学者ウィトゲンシュタインのファニア・パスカルとの対話での発言が引用されています。

扁桃腺を摘出して、きわめて惨めな気分でイブリン療養所に入院しておりました。ウィトゲンシュタインが訪ねて参りましたので、わたしはこううめきました。「まるで車に引かれた犬みたいな気分だわ」。するとかれは露骨にいやな顔をしました。「きみは車にひかれた犬の気分なんか知らないだろう」(文庫版 p. 28)

 このことは一見するとウィトゲンシュタインが大変偏屈な人間に見えますが、「ウンコな議論」を観察する立場に立ってみるとどうでしょう。パスカルが自身の状態を記述するにあたって、「犬の気分」を引き合いに出すことは、前項で財布の中身を確認しなかったことと一致する部分が大です。ウィトゲンシュタインの不快感は、その「真実に対する態度」に向けて示されたものだった、と考えるといくらかは理解できます。(それでも普通に考えれば変人の言動ですが)

ウンコ議論の魅力

 話者の無価値さを示す結果になってしまうことばかりが想像されてしまう「ウンコ議論」ですが、ともすればセンセーショナルなものにもなり得るという困った側面があります。このことは本書中でも指摘されています。

 ウンコ議論や屁理屈が依存する創造性の様式は、嘘つきにおいて動員されるものよりも分析性や熟慮性が低い。もっと広がりを持ち、独立性が高く、即興や華やかさ、創造的な遊びの機会も広いのである。(文庫版 p. 54)

 この指摘は、2017年現在の某国の大統領の行動に非常にぴったり合っている、ということには、なにか感じるものがありますね(この文章は1970年に執筆され、2005年に出版されたものです)。前半でも述べましたが、前提が誤っていればどのような結論にも達することができるのです。したがって、達した結論をいかようにも魅力的にすることができる、ということを指摘しています。
 あるとんでもない話について、「センセーショナルで魅力的であるがゆえに良い」、と評価する人もいるでしょう。この点は確かに肯定的な要素です。しかし、立ち止まって考えなければならないのは、「何のために議論をするのか」ということ。「ある問題に対する解決策を導く」「どこかにあるはずの結論・妥協点へとたどり着く」ことが目的である以上、前提をかく乱して誤った結論(オルタナティブ・ファクト)を導くことは、決して良いものではないだろう、と思われました。

【練習問題】なぜウンコ議論に対する人々の態度が、嘘に対する態度よりも一般により穏健なのか

 本文中に、よくありがちな「~は読者諸賢への練習問題とする」という文言がありましたので考えてみました。
 ウンコ議論は、前提がおかしいというだけで、話の進め方は基本的に論理的です。ひとえにこの要素が、人々をして穏健たらしめているのだろう、と考えられました。また、嘘つきには「嘘をつこう」という明確な意思があるため、「相手に対して大変失礼」という点も見逃してはいけません。

ウンコな議論のシチュエーション

 ある議論が、ウンコな議論に堕してしまう状況として筆者は以下のように述べています。

ウンコ議論は知りもしないことについて発言せざるを得ない状況に置かれたときには避けがたいものである(p. 62)

 このことを、私たちなりに解釈した結果「求められている役割を果たせていないとき」に私たちはウンコ議論者へと堕してしまう、という点に至りました。このことをもう少し具体的に言うと「前提を目的に合わせて話せていないとき」となります。こうならないための方策については後ほど述べます。

結論

 本書のまとめにはこのように書かれています。

正しさという理想への献身において求められる規律から撤退し、まったく別の誠実さという理想の追求からくる規律に移行しようという動きが見られる。(中略)そうした輩は、現実には物事の真実として見極めるべき本質がないと思いこんで、自分らしさに忠実たらんとする。(文庫版 p. 64-65)

 前項で挙げた「前提を目的に合わせて話せていないとき」という特徴があらわに指摘されています。この指摘は、これまでの議論にしたがって考えると前提が「自分」であるというふうに読み取れます。すなわち、「論理的な手続きはしますが、出発点は自分であることは動かしません。そうして得られた結論は、論理的手続きを踏んでいるので正しいのです」というのが、ウンコ議論の正体なんじゃあないだろうか、というのが私たちの結論でした。このような論者(状況次第で誰もが陥るもので、ある人固有の性質ではありません)に通底する特徴は「対話・議論のフィールドで、前提と目的に対する配慮が欠落している」ことです。

ウンコ議論かな?と思ったら

 これまでの考察の通り、ウンコ議論の重要な特徴は、「前提が曖昧」というところです。したがって、自分が話すにせよ他人の話を聞くにせよ、そこを確認する自問・他問をはさむことが大変重要です。
具体的には

  •  今、何の話をしているんでしたっけ?
  •  前提は何ですか?
  •  なんでそう思うんですか?

 です。しかしこれ、さしはさむのは勇気がいることが多いです。この世にはびこるウンコ議論を減らすには、まずは私たちがそのような発言をさしはさみやすい雰囲気を作って話すのが重要ですね、と思いました。
 しかし、ここに挙げたのは「態度」の問題。前提と目的への配慮を持つことが重要なのはそのとおりなのですが、前提と目的を正しく把握することはいつも簡単であるとは限りません。というか、結構骨が折れることの方が多いです。ウンコ議論者にならないためには、「能力」も求められるのです。「能力」は「態度」をきちんとした後にこつこつと身につけるしかないと思います。世知辛いですね。

会のまとめ

 今回は初めて、物語でなく哲学書、というか論文をテーマにしました。実際に我々が生活する世界の出来事に対する考察ですから、具体的で面白かったです。
 今回俎上に載せた「議論」は、結論は前提が決まればおのずと導かれるものと仮定しました。しかし、日常生活で出会う「議論」は「会話を進めるなかで、相手が事態をどのように把握しているのか、そして自分はどのように思っていたのかを明らかにしつつ、一定の結論に至る」というものが主です。この点に注目し、今回得られた結論をうまく生かせば、生産的な議論が量産できるのではないかな、と思います。
次回は8月20日(日)に『悪童日記』( Agota Kristof著, 堀 茂樹 訳)をテーマに都内のどこかで開催します。ご興味があれば連絡ください。

(初投稿:2017年6月25日)