ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書会レポート:双子の倫理観 『悪童日記』

今回はこの本を紹介します。

 

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)

 

 

読書会のテーマ本

 2017年8月20日日曜日、東京駅付近にてこの『悪童日記』をテーマ本として第6回読書会を開きました。テーマ本の選定者は「登場人物の行動・心情に理解しにくい部分が多いから」と選定の理由を述べています。
 今回は、過去最多の4人での開催となり、にぎやかかつ多様なお話ができました。会での話題を中心に、本書のレビューを展開していきます。
 毎回、本を読んで議論しやすいようにテーマを設定しています。議論はこのテーマに沿って行っていきました。今回のテーマは以下三つです。

  • 印象に残ったエピソードとその理由
  • 物語を通じて読取れる彼らの価値観は何か。それについてどう思うか
  • ラスト、彼らはなぜこのような行動をとったのか

なお、本レビューにおける本文引用の際に書かれたページ数は、ハヤカワepi文庫版(第十一刷)のものです。

あらすじ

戦争が激しさを増し、双子の「ぼくら」は、小さな町に住むおばあちゃんのもとへ疎開した。その日から、ぼくらの過酷な日々が始まった。人間の醜さや哀しさ、世の不条理――非常な現実を目にするたびに、ぼくらはそれを克明に日記にしるす。戦争が暗い影を落とすなか、ぼくらはしたたかに生き抜いていく。人間の真実をえぐる圧倒的筆力で読書界に感動の嵐を巻き起こした、ハンガリー生まれの女性亡命作家の衝撃の処女作。(ハヤカワepi文庫版裏表紙より引用)

 この物語は、第二次世界大戦中のハンガリーあたりでの出来事を題材として書かれています。
 この小説の大きな特徴は、双子の「ぼくら」を徹底的に区別せず記述している点と、小さなエピソードの集合で成り立っている点です。
後者は、この小説自体が「ぼくら」が記した日記となっているという点で必然性があります。記述の方針は次のように説明されています。

作文の内容は真実でなければならない(p. 42)

美しい、親切だ、好き、などのような、発言者の主観によって内容が変わるような言葉を極力排し、客観的な事実や実際の発言のみが日記として残されています。この特徴が、この小説のつかみどころのなさと、ある種の理解しやすさを演出しています。

「ぼくら」に通底する倫理観について考える(1) ~関わった人たち~

 「ぼくら」がとるさまざまな行動の動機は、この小説の特徴上明確に書かれてはいませんが、「ぼくら」が体験した出来事をもとに必要と判断したのだろう、ということは本文から読み取れます。しかし、「必要と判断する基準」、つまり彼らの倫理観を読み取ることは簡単ではありません。そこで、これを読み解くために、「ぼくら」の人びととの関わり方に注目しながら検討しました。大きなポイントとなる4人の登場人物とのかかわりを見てみましょう。

1. 脱走兵

「絶対に必要としていたから」
ある日、双子は森の中で倒れている脱走兵に出会います。彼は戦争に嫌気がさして逃げてきたものの、食糧が尽き一歩も動けなくなっていました。双子は、脱走兵に二、三の質問をしたあと、脱走兵の望む食糧と毛布を運んであげます。彼は双子に「ありがとう、親切だね」と礼を言うと、双子はこう答えます。

別に親切にしたかったわけじゃないよ。ぼくらがこういうものを運んできたのはね、あなたがこういうものを絶対に必要としていたからなんだ(p. 62)

2. おばあちゃん

 双子の「ぼくら」は、おばあちゃんの住む田舎町へ戦火を逃れて疎開します。預かり手の「おばあちゃん」、なかなかどうして曲者です。おばあちゃんは、畑や家畜の世話をしつつ、作物を市場で売り、売れ残りを食べて生計を立てています。過去に旦那さんを毒殺したという噂がささやかれ、町では<魔女>とよばれています。
双子を預かる際、「働かざる者食うべからず」というルールを示し、働かなければ家にも入れず食べ物も与えません。また、双子の母親から定期的に送られてくるお金を独り占めしたり、毛布や衣服を売り払ったりといった行動もとります。

おばあちゃんの林檎
 ドイツ軍によるユダヤ人の連行と思われるシーンが途中で出てきます。街道を、何の罪もない人々が兵隊に囲まれて連れられて行く様子が描かれます。その日、双子が家に帰ると額から血を流したおばあちゃんが倒れています。双子が助け起こすと、「林檎を拾え!」と双子に命じます。

それでも、あのうちの何人かは食べられたわい、わしの林檎を!(p. 167)

 どうやら、おばあちゃんは連行されていく人々の行列に向けて林檎をばらまき、兵隊の暴行を受けたようです。しかしこの行動は、連行される人々に対する施しであり、善なる行いです。双子に優しい面をあまり見せないおばあちゃんのこの行動は、双子の目にどう映ったでしょうか。

おばあちゃんの宝物
 物語の終盤で、おばあちゃんは脳卒中で倒れます。そのさい、おばあちゃんは双子に、「宝物」のありかを教えます。そして、もう一度脳卒中の発作が起こったときには、毒で自分を殺してほしい、と毒のありかを双子に教えます。双子は、毒殺を嫌がりますが、しかし、「おばあちゃんがほんとうにそう望むなら」、と、次の発作の際に毒殺することを請け負います。
 この「宝物」は、作中に明確な記述はありませんが、おばあちゃんがこれまでため込んできたお金や宝石の類だろうと思われます。ひょっとすると、双子の母親からの送金もすべてためこまれているのかもしれません。自分亡き後の双子の生活を考えての行動だとすると、これまでのおばあちゃんのふるまいの意味も変わってきます。

3. 兎っ子

 双子の暮らす家のとなりには、一軒のあばら家があり、母娘が二人で暮らしています。その娘――兎っ子――は、初めて双子に出会ったとき、次のようなことを言います。

あたし、果物や、魚や、ミルクなんて、欲しくないわ!そんなもの、あたし、盗めるんだもの。あたしはね、あんたたちがあたしを愛してくれたらって、そう思うのよ。

兎っ子を助ける(1)
ある日双子は、兎っ子が町の子どもたちにいじめられている場面に遭遇します。成り行きを見守った後、いよいよまずい、というところで、双子は町の子どもたちを追い払い、兎っ子を助けます。助けられた兎っ子は双子に尋ねます。どうして初めから助けてくれなかったの?と。双子の答えはこうです。

おまえがどういうふうに身を護るか、見たかったのさ

兎っ子を助ける(2)
 双子の暮らす町に、厳しい冬がやってきます。双子は、雪が積もって出入りの形跡がない兎っ子の家に入っていき、火を起こし、食糧を買って(盗んで)きて与えます。そのさい、双子は兎っ子から、町の司祭が兎っ子に買春まがいのことをしていたことを知ります。兎っ子への継続的な援助のためにお金が要ると考えた双子は、その事実をタテに、司祭から定期的にお金をもらうことに成功します。

4. 女中

 「女中」は、この小説の中で唯一、明らかな目的をもって双子に攻撃を受ける存在です。この人は、町の司祭館の女中で、司祭のためにおばあちゃんの家から食料を買うことで、双子との関係が生まれます。双子は司祭から定期的にお金をもらうことになっていますから、双子が司祭館を訪れた際、二人にものを食べさせたり、風呂に入れてあげるなどやさしく接してあげます。

パンをあげない
 しかし、この女中は、ユダヤ人の集団が連行されていくときに、おばあちゃんとは真反対の行動をとります。
連れていかれる人びとの中の一人が、「パンを」と女中のもとに手を差し出しました。女中は、持っていたパンを渡すふりをして取り上げ、嘲笑います。双子はこの様子を、女中のとなりで見ていました。
 この少しあと、女中は暖炉の火を起こそうとしたときに、燃料の柴に隠されていた銃弾が爆発し、顔面に大けがを負います。燃料の柴は、普段双子が司祭館へ運んでいたものです。

「ぼくら」に通底する倫理について考える(2) ~結論~

 この小説の主な登場人物には、アウトサイダーが多い、という指摘がありました。そして、双子が手を差し伸べている対象は、アウトサイダーに限られている、とも。たとえば、おばあちゃんは町はずれで<魔女>とよばれながら暮らしているし、兎っ子は貧しく、いわゆる「普通の人」とは違う暮らしをしています。
 前節で紹介した女中のようなふるまいは、戦時下では主流のありかただったのだろうと思われます。しかし、戦時下で主流ということは、すなわち暴力的でもあります。捕らえられた人びとという、全くなすすべのない人に対するパンの一件は、おそらく双子にとって「正しくない」行為だったのでしょう。すると、脱走兵や兎っ子のような「なすすべのない状況」に追いやられた人に、双子が献身的だったことも納得がいきます。たとえば兎っ子が町の子どもたちにいじめられているのを、長いこと観察していたのは、兎っ子が「なすすべない状況」にいる人なのかどうかを確かめようとしたともとれます。
実際、おばあちゃんのように自ら働き自立している人に対しては、労働の対価としての食事と住居のため、というように、取引相手として行動しているように見えます。おばあちゃんが病に倒れた際、双子はきちんと看病してあげますが、これも「なすすべなさ」があったからでしょう。

戦争という、一部の人間の思惑によって多くの人の運命が左右されてしまう状況下で、双子は自らを鍛え、身を守るすべを身につけました。しかし、抗ったり、自立する力のない存在はどうしても出てきます。そのような人を守らねばならない。これが双子に通底する倫理観の一つであると考えられます。
双子は司祭とのやり取りで、「聖書に書いてあることには従わない」と何度か発言します。このことは、双子が持っている倫理観は、民衆の中に横たわる倫理観とは異なることを象徴しているようにも思えます。

ラストシーン

 これは重大なネタバレなのですが、物語の最後で、「ぼくら」の片方は国境を越え別の国へ、もう片方はおばあちゃんの家に残る、という状況になります。ここまでに、「分裂」をうかがわせる様子は全くありません。最後の3行で唐突に「分裂」し、物語は幕を閉じます。

ぼくらのうちの一人が、もう一つの国へ去る。
 残った方の一人はおばあちゃんの家に戻る。

 この点に関して、双子のそれぞれに自我が目覚めたのか、とか、何か明確な目的はあるのかなど考察を試みましたが、作中の記述からはしっかり読み取ることができませんでした。ただ、ここで引用した文章には少し奇妙な点があります。二人が「分裂」し、そのあとにその状況を記述する場合、双子のどちらか片方がその様子を描くはずです。たとえば、おばあちゃんの家に戻った方が書いたのなら、「ぼくはおばあちゃんの家に戻る」のように。しかし、最後まで一人称は「ぼくら」でした。
 この奇妙な徹底は、二人は完全には分裂していないことを示唆しているのかもしれませんが、納得のいく答えは出ませんでした。

まとめ

 徹底的に主観を排した筆致で描かれているので、出来事に対して「双子がどう思ったのか」が全く示されていません。それを、行動や発言を手掛かりに読み解く作業はやっぱりおもしろかったです。人の行動から受ける印象は、受け手(読み手)によってそれぞれ微妙に異なっており、その違いを味わったりすり合わせたりするのが興味深い会でした。

 次回は11月12日(日)に行います。テーマ本は鹿島田真希著「一人の哀しみは世界の終わりに匹敵する」です。聖書をモチーフにしていて、オマージュの意味やらなにやら考察しがいのある作品です。もしご興味がございましたら、ご連絡いただけると嬉しいです。

(初投稿:2017年9月3日)