ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書会レポート:理想はあるか~得ることと捨てること 『月と六ペンス』

今回はこの本を紹介します。

 

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 

 2018年1月27日(土)に新宿の喫茶店で、この本をテーマにした読書会を開きました。読書会を始めてから8回目を数える今回は、参加者が5人と過去最多で盛況となりました。
 本レビューでの引用ページ数は、行方昭夫訳(岩波文庫刊、第3刷)のものです。

あらすじ

 チャールズ・ストリックランドは、イギリスで証券会社の経営者として妻子を持ちなに不自由なく暮らしていた。しかしストリックランドは、40歳のある日妻子や地位を捨て、失踪してしまう。その目的は、「絵を描くこと」。ひょんなことからストリックランドとかかわりをもった一人の作家が、ストリックランドの生き方をすくいとって紡がれる小説。サマセット・モームの代表作の一つ。有名な画家ポール・ゴーギャンの半生を題材にして書かれたと言われている。

抗えない衝動

 この小説は、一人の作家が出会ったチャールズ・ストリックランドという奇妙な男の観察記録のような形でつづられています。イギリスで家庭を持ち、一般的な幸せの形を築いていたストリックランドは、ある日その暮らしのすべてを捨てて単身パリで暮らし始めます。この小説の語り手(以後、語り手)は、ストリックランドの妻の依頼でパリに彼を連れ戻しに行きます。突然取り残された妻は、ストリックランドの失踪の理由を、ほかの女性との駆け落ちと考えていました。しかし、語り手が実際にストリックランドに会って話を聞くとそれは真実ではなく、本当の目的は「絵を描くこと」でした。
 語り手はストリックランドに、「そんな年でなぜ絵を描かねばならないのか。家族を養う責任はどうなる。それに、三流画家で終わってしまう可能性もきわめて高い」というようなことを説きますが、ストリックランドは応じず、次のようなことを言います。

絵を描かなくてはならんと言っているのが分からんのかね。自分ではどうしようもないのだ。いいかね、人が水に落ちた場合には、泳ぎ方など問題にならんだろうが。水から這い上がらなけりゃ溺れ死ぬのだ(p。94-95)

 ストリックランドのこの言葉は、この小説の核と言えます。このような、内から湧き上がる「しなければならない」の声は、一人の人の人生の中でそうそう聞こえてくるものではありません。そしてもし聞こえたとしても、その言葉の通りにする人はきわめて少ないでしょう。
 これを自分のこととして考えたとき、これまで生きてきて、そしてこれから生きていく中で「しなければならない」ことがあるのは大変かっこいいことに思えます。しかし一方で、それまでに築いた安定な暮らしをすべて捨て去る勇気を持つことはむずかしそうです。実際、ここまでの短い人生のなかでさえ多少なりとも築いたものがあり、それをすべて手放せ、と言われるとかなりの抵抗があります。
 得たものをかなぐり捨ててでもなにか一つのことに没頭する生き方について、読書会で「転落していき、納得していく」という表現が出ました。転落と納得のトレードオフをどのように受け入れるかという見方は非常に重要に感じました。ただ、ストリックランドが選んだ道を、彼自身が「転落」と思っていたかどうかは疑念の余地があります。

欲望について

 『月と六ペンス』のなかで、ストリックランドの好色がたびたび話題になります。好色とはいえ常にではなく、必要になったときに必要なだけ、というやり方です。ストリックランド自身はその性本能を憎んでさえいましたが、激しい情欲を抱いたときにはそれを解消するために行動します。作中ではその好色が、ストリックランドに親切な一組の夫婦を引き裂くことになります。
 私は、マズローの欲求階層説を支持しています。欲求階層説では、「人の欲求は、食べる、寝るなど生きるための欲求を底辺に置き、その上により高次の欲求が重なって出来上がるピラミッドのようになっている」というものです。その中で性欲は、かなり低層に存在する「生きるための欲求」です。私は、ピラミッドの底辺にある欲望が大きければ大きいほど、ピラミッドの上に乗る高次の欲求も大きくなると考えています。ストリックランドの好色は、「絵で表現する」という強い思いを下支えしていたのだろう、と一人で納得してしまいました。

自分のいるべき場所

 ストリックランドは、晩年をタヒチで過ごします。半ば流れ着く形でタヒチに住むことになったストリックランドは、船から見たタヒチについて次のように語ります。

ひょいと顔を上げると、島がぼんやりと見えた。途端にこここそ俺が生涯ずっと探し求めてきた場所だと悟ったのだ。だんだん近づくにつれて、見覚えがあるような気がしてきた。今も島を歩いていると、どこもかしこも知っている場所のような気がする。この島に以前住んでいたと誓えるくらいだ(p。318-319)

 イギリスの都会での暮らしをはじめとして、様々なものを捨て去り続けながら脳内風景の表現に挑み続けたストリックランド。そんな彼が、初めて訪れたタヒチについてこのような感想を持ったのは驚くべきことではありませんでした。彼の頭の中には体系的に整理されていないにせよ、さまざまな「理想」があったはずです。その姿を表現する方法として絵画を選んだわけです。ですから、住む土地についても何らかの理想があってもおかしくありません。
 ストリックランドをこのようにみてくると、さて、自分には「理想」があるのだろうか、というところで立ち止まってしまいます。読書会に集まった人たちも、ストリックランドの見方はさまざまでしたが、理想への情熱という観点ではストリックランドに畏敬の念を抱いていたように思えます。
 ストリックランドにおけるタヒチのような土地に、今後出会ってしまったらどうするか。この小説を読んで私は、その土地に住んでしまおうと決めました。旅行でふらりと立ち寄った場所でも、仕事で訪ねることになった場所でもよいですが、「ここだ、この場所だ!」と思えるようなところにはそうそう出会えるものではありません。現実的な問題は都度現れるとは思いますし、理屈ではそんな行動は非合理ですから、実現には多くの障害があるでしょう。それを措いても、そのとき「ここだ!」と思った自分の気持ちを尊重したいと思ったのです。

おわりに

 今回の読書会は、いつにもまして本の内容そのものよりも読んだその人自身の感想について深く見ていく話題が多くなりました。一つの物語を軸に語れることは多様で、参加者一人一人がそれぞれに楽しんでくれていたように思います。
 次回は、中島敦の「名人伝」含む短編集をつかって読書会を開きたいと思っています。日程は未定ですが、ご興味のある方はお声がけください。(注:2018年4月7日に行われました)

(初投稿:2018年1月28日)