ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書会レポート:信じること 『沈黙』

今回はこの本を紹介します。

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

読書会のテーマ本

2016年11月19日に読書会(第2回)を開きました。今回のテーマ本は『沈黙』(遠藤周作)でした。今回も参加者は僕を含めて二人(参加者はHさんとします)だったので、喫茶店で語らう感じになりました。
 参加した二人の作品の解釈が、結構違いました。その違いを明らかにしていく過程で多くのことが見えてきました。この記事は、本そのもののレビューと読書会のレポートを兼ねています。
前回の読書会の記事はこちらです。

 

nattogohan-suki.hatenablog.com

 

あらすじ

 島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制のあくまで厳しい日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の真理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、<神の沈黙>という永遠の主題に切実な問いを投げかける書下ろし長編。(新潮文庫裏表紙より引用)

読みのテーマ

 今回の会では、試験的に読みのテーマを設定してみました。なるべく自由な読みを展開できるように、でも語らいの道しるべになるように、と考えました。
 1.なんで、誰が、どのように「沈黙」しちゃってるのか
 2.登場人物はどうしたらよかったのか
 3.救いはあったのか、なかったのか。救いとはなんなのか

神は沈黙していない

 物語の主人公であるロドリゴ神父は、厳しい禁教令のもとでの宗教活動を行いました。日本に渡航した主たる目的は、「禁教令下の日本に取り残されたキリシタンの信仰の灯を守り、強く燃え上がらせる」ことでした。ポルトガルから喜望峰を回り、マカオを中継地として小さな隠れキリシタンの集落、トモギ村にたどり着きます。
 ほどなくして、司祭がかくまわれていることをかぎつけた役人たちはトモギ村のリーダー格を尋問し、死刑を宣告します。そのやり方は非常に残酷で、罪人を木に括り付けて海中に立て、潮の満ち引きを利用して体力を奪い死に至らしめるというものでした。その様子をまざまざと見せつけられたロドリゴは、大きなショックを受けます。
 それから、ロドリゴは、臆病な信徒の裏切りを受けて捕えられ、独房での生活により精神的に追い詰められていきます。ともに捕えられていた信徒たちの死にざまを見せられるなどして、外堀を埋める要領で徐々に追い詰められていきます。物語では、どんなにつらい状況がロドリゴに襲い掛かろうとも、神の沈黙が暗く強調されています。
 最終的にロドリゴは、棄教を選択します。キリストの絵に足をかけるきわに、「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ」というキリストの声を聞きます。ここにきて、神は沈黙を破りました。

この話は「ハッピーエンド」か「バッドエンド」か

 僕自身は、この小説は悲しみの物語だと思いました。わざわざ長い時間と労力を割いてやってきた辺境の地で、はじめの目的とは真逆の結末に至ってしまうわけですから。しなくてもよい苦労のように感じました。
 一方で参加者Hさんから、この物語はハッピーエンドではないか、という意見がでました。それは、司祭ロドリゴは多くの困難に直面して、一つ上のステージの信仰へと至ったからだ、という理由です。

一つ上のステージの信仰

 キリスト教には、教会があり、教父には階級があります。各会派が是とする行動をとることが求められ、決して教えに背いてはいけません。踏み絵の後に、ロドリゴはその仕組みに対する怒りの感情を抱きます。私の心を裁くのは教会の連中ではなく、主だけである。安全地帯でぬくぬくと生きている者が、戦地で捕虜になった者をどうして責めることができよう、と。すなわち、信仰は「自分と主との一対一の関係である」ということに思い到るのです。

満足した豚か、不満足なソクラテス

 J.S.ミルは「満足した豚よりも、不満足なソクラテスのほうがよい」と言いました(wikipediaで調べたら正しくは「満足な愚者よりは不満足なソクラテスのほうがよい」だそうです)。新たな信仰のステージに至ったことと、日本にやってこないでそのまま司祭としてポルトガルで暮らすことは、この言葉に沿って議論されました。(この議論にあたっては、ミルの著作をあたっておらず、間違った理解も含まれると思いますが、その際はご指摘ください)

 僕個人は、つらい思いはしないでいられるのであればしないほうが良いという考え方です。ただし、努力を否定するわけではありません。理不尽が嫌いなのです。ですから「悲しい物語だ」と考えました。一方で、Hさんも僕と同じような考え方ではありますが、それでもハッピーエンドと考えました。
 そこには「進歩すること」への価値観の違いがあったのだと思います。進歩することは重要で、進歩することを目指し続けることも重要です。そのトレードオフとして、ロドリゴの日本での経験が見合うのかどうかと考えたときに僕は見合わないと考えました。Hさんは、思想の変化の結果、痛みを乗り越えることができたのでよい、という話でした。

日本人と西洋人の神観

 作中で、ロドリゴに棄教を迫る日本人は「キリスト教は日本には根付かない」と主張します。会では、そのことも話題に上りました。
 神は日本(神道)的には、「とってもすごい人の延長」、西洋的には、「唯一無二の絶対的な存在」ということになっているということはよく言われます。そのおかげで、日本では困ったときに神頼みをする人が多いです。「なんとかしてもらおう」という気持ちがどこかにある様子です。日本で勃興した大乗仏教のようなものも、その様子を反映しているように思えます。一方で、西洋的な神観、ひいてはロドリゴが到った境地では、神はひたすら赦します。何もせず、見守り、赦しています。
 キリスト教については聞きかじり程度の知識しかないのですが、アガペーってこういうことなのかな、と理解が深まりました。神を信仰するにあたって、特に重要な概念はアガペーなのではないか、というところに終着しました。キリスト教に関してもうすこし知識があれば、また違った解釈にもなるのかもしれません。
このような観点でみたとき、読みのテーマとして設定した「3. 救いはあったのか、なかったのか。救いとはなんなのか」における「救い」という考え方そのものがナンセンスであるという話にもなりました。

宗教を信仰すること

 この話をするうちに、宗教を信仰をすることも話題に上りました。神道的な考え方が根底にある人が多いので純粋な無宗教とは違うような気もしますが、日本には「絶対的・圧倒的な存在」を心に持つ人は多くありません。西洋的な宗教の信者は、そのような日本の信仰の様子を見て、「どうしてしっかり生きていられるのか不思議」という感想を持つこともあるそうです。
 僕らは、その「絶対的・圧倒的な存在」の位置に「すごい人」を置きがちだよね、という指摘がありました。リーダー的位置に立った「すごい人」が構成員の心のよりどころにもなる、という構図がありがちで、そうして作られているのが日本の村社会なのでは?という仮説へと至りました。共同体のそういうあり方が日本特有かどうかというのは検証の余地が多分にありますが、この仮説は物語と思わぬ関係を見せました。
 ロドリゴが初めにたどり着いたトモギ村では、自主的にじいさま、とっさまという教父の階級制度のようなものを設定し、信仰を保っていました。この仕組みは、上述のような「すごい人」が心のよりどころになるという村社会の仕組みに似ています。そしてロドリゴはこれに驚きます。しかし、日本に根付いた考え方が生んだやり方は、キリスト教の信仰の仕方にはそぐわなかった、ということも暗示していたように感じました。

おわりに

 すこし話が散らかってしまいましたが、おおむね上記のような話が展開されました。かなり重みのあるテーマでしたが、面白かったです。
次回はSF小説『アイの物語』(山本弘)がテーマ本に選ばれました。2017年1月7日に東京のどこかでやります。ご興味ある方はご連絡ください。

(初投稿:2016年11月23日)