ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書会レポート:突き破る、ぐるぐるまわる 『少女七竈と七人の可愛そうな大人』

今回はこの本を紹介します。

 

少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)

少女七竈と七人の可愛そうな大人 (角川文庫)

 

 

読書会のテーマ本

僕は2016年6月頃から、個人的に読書会を主催しています。これはその第一回目のテーマとして選んだ本です。参加者は僕を含めて二人だったので、ただ喫茶店で本の話をしているというような趣になりました。そのときの議論でたどり着いた読みに基づいて、このレビューを書きます。
 僕らがたどり着いた「筆者の描きたいこと」はどんなものでしょうか。この小説を読まなくてもわかってもらえるように書いたつもりですが、もしもお時間があれば、本作を読んでからこのレビューを読んでいただけると、より面白く思っていただけると思います。

あらすじ

「たいへん遺憾ながら、美しく生まれてしまった」川村七竈は、群がる男達を軽蔑し、鉄道模型と幼馴染みの雪風だけを友として孤高の青春を送っていた。
だが、可愛そうな大人たちは彼女を放っておいてくれない。
実父を名乗る東堂、芸能マネージャーの梅木、そして出奔を繰り返す母の優奈――誰もが七竈に、抱えきれない何かを置いてゆく。
そんな中、雪風と七竈の間柄にも変化が――
雪の街旭川を舞台に繰り広げられる、痛切でやさしい愛の物語。(角川文庫 裏表紙から引用)

北海道旭川市でのおはなし

僕自身が旭川市の生まれなので、特別な感情を持ちながら読みました。ナナカマド(七竈)は旭川によく生えている木で、旭川の木に指定されています。赤くてきれいな実をつけますが、固いし、おいしくないです。
 作中で、旭川市は非常に小さなまちとして描かれています。そして、その小ささ故に少女七竈は悩みます。

次々に七竈のもとを訪れる「可愛そうな大人」たち

「七人の可愛そうな大人」という文言がタイトルにあります。「いったい誰が可愛そうな大人なのか」ということと「わざわざ可愛そうと表記することに意図はあるのだろうか」という二点に着目した読みが展開されました。

「可愛そう」とは?

「可愛そう」に意図があるとすると、通常の「哀れ」という意味になにか別の意味を付加してあると考えられます。「可愛そう」は可哀想だったのを脱して「ある状態」になったものと解釈すると、非常に腑に落ちました。
 このことは最後のほうで触れます。

可愛そうな大人とは誰なのか?

カウントの仕方にもよりますが、作中に登場して物語上の役割を持つ大人は十五人います。それらについての個々の考察は避けますが、可愛そうな大人は七人いました。その中でも一番象徴的、物語の肝ともいえる可愛そうな大人を僕らは発見しました。本作は、高校生の七竈が東京の大学に進学することになり旭川を去るところで終わります。僕らは、この旭川を去った七竈を大人の女性とみなしました。すなわち、七竈は「可愛そうな大人」の一人だと考えました。

 七竈は、かなり可哀想です。母親優奈は、彼女を置いてあちこち飛び回ってはたまに家に帰ってくるような暮らしをしている、くだらない男たちが次々と現れるので次々と切り捨てなければならない、そして幼馴染の少年雪風との関係に萌す暗い気配。
 少女七竈と少年雪風旭川市きっての美男美女高校生です。幼馴染である二人は、放課後になれば七竈の家で、鉄道模型が走る姿を眺めるのです。

そのレイアウトの規模は六メートル×五メートル。本線はなんと八系統。ヤードはというと四百両もの収容が可能なのである。地下鉄、複々線、高架線を配置し、いまは線路の改良を行っている。すばらしき川村七竈の鉄道模型(ワールド)。

実は、七竈と雪風は、腹違いの兄弟です。かつて七竈の母優奈は、せまい旭川のまちで「辻斬りのように」たくさんの男と関係を持ち、そのうちの誰かの子を身ごもりました。そして七竈の父である男は、時を置かずに結婚し、雪風をもうけたというわけです。七竈と雪風はとても仲が良く「ずっと一緒にいたい」という気持ちを持っていますが、だんだんと大人に近づく二人の容貌は似すぎています。せまいこのまちにはいられない…そう思いながら、鉄道模型越しに雪風を見つめる七竈の心中はいかばかりだったでしょう。
 あるとき、七竈は雪風に「東京に進学しようと思う」と伝えます。そこで雪風は、驚き、戸惑います。 雪風は将来永劫、たくさんの兄弟を支えるためにずっとこのまちに残ろうと考えていました。そして、七竈にずっと一緒にいてほしいと、望んでいたのです。
 雪風は、七竈に一緒に残ってほしかった。でも七竈は、ここにはいられない、と思った。この関係をはじめとして、対比構造が作中にたくさん現れます。それらをみていったとき、面白いことに気が付きました。

象徴的な対比構造たち

美しい⇔平凡

作中、緒方みすずという、平々凡々なおかっぱの少女が、七竈の前に現れます。緒方後輩は、雪風に恋い焦がれ、勝手に七竈をライバル視する存在として登場します。七竈の魅惑のかんばせを「ずるい」と表現する緒方後輩は言います。

「これからさきのながいながーい人生をですね、先輩。ちっともとくべつじゃない自分とむきあいながら、わたし、どうやって生きていくの?」

そしてこの言葉を聞いた七竈は「とくべつな自分と、どうおりあって生きていくのか」を考えます。なんだか詩的な美しさをさえにおわせるこの対比は、僕らをして物語の世界に引きずり込む強力な装置として働きました。まぎれもなく緒方後輩側の人生を歩む読者である僕らに、まぎれもなく特別な存在である七竈の苦悩を強く意識させるのです。おなじなんだぞ、という強力なメッセージを。

平成⇔昭和、そして都会⇔田舎

メタな視点になってしまいますが、作者である桜庭一樹さんは「平成⇔昭和」という対比関係を作中に埋め込むことが多い印象があります。そしてこの関係は往々にして「都会⇔田舎」の対比関係へと接続されます。これは桜庭一樹さんの2000年代の作品に多く見られます。それが特に色濃いのは「赤朽葉家の伝説」という作品です。おすすめです。

 

 

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)

赤朽葉家の伝説 (創元推理文庫)

 

 この「少女七竈~」にも、かなり直接的にその関係が示されておりました。そしてそれを象徴する装置として鉄道模型(ワールド)が効果的である、と思われました。
 母親優奈は、その年号の切り替わりの時期に、狂ったように男たちと関係を結びます。もともと優奈は非常にまじめで特徴のない女性だったのが、内なる衝動をきっかけにしてそのような行動に出て、出奔を繰り返すようになりました。昭和と平成の切り替わりとともに、優奈も切り替わりました。その結果誕生したのが七竈なのです。
 物語はその後の平成の世で展開されますが、登場する大人たちは昭和の残り香を漂わせています(ここでは深入りしませんが、平成は「なにも背負わない」、昭和は「なにかを背負う」という性質を持つことを示唆する描写があります)。
 また、作中、七竈は東京からやってきた梅木と名乗るアイドルのスカウトの女性と出会います。梅木は七竈にこう言います。

「美しい人は、都会に向いている、と、そんな気がね。つまり変わっている生きものは。(中略)性質が異質で共同体に向かない生まれのものは、ぜんぶ、ぜんぶ、都会にまぎれてしまえばいい、と思っていてね。(後略)」

この言葉が、七竈の行き先を決定づけたのかもしれません。梅木に出会うまで、七竈はせまい共同体としての旭川に、居心地の悪さを感じていました。なぜならどうしても、美しさという異常性のために目立ってしまうからです。

たどり着いた読み

物語の終わりに、七竈は東京へ、雪風は北海道で、という背景のもとで二人の別れのシーンが描かれます。その直前、七竈は「二人だけの世界」だった鉄道模型を緒方後輩に披露し、電車をひとつプレゼントします。これは、閉じた世界(すなわち旭川)を飛び出す準備であり、そのまま七竈は、雪風とその鉄道模型(ワールド)を置いて東京へと旅立つのです。一方、雪風は兄弟を背負って北海道に残ります。雪風旭川で、鉄道模型(ワールド)のなかでぐるぐるとまわりつづける一方で、七竈はそれを突き破ったのです。
 喧噪にまぎれることのできる広い東京と、どうしても美しさが際立って目立ってしまうせまい旭川。そしてそこで生きようと決意した七竈の姿が、筆者の描きたいことだったのではないか、と思われました。

 この「突き破った」というのは「可愛そう」における「ある状態」だと考えることができます。そのために、僕らは七竈を「可愛そうな大人」と考えたのです。この観点からみれば、母親優奈もまじめを「突き破って」いますので「可愛そう」です。

本の見どころ

ここまでに書いたのは、物語の構造に基づいた、少し色彩に欠ける考察です。この物語の構造を分析して見えてきたものは面白かったですが、なによりこの作品の魅力は端々に登場する詩的な表現と、登場人物の心の機微です。とくに個人的には、考察の中でも触れていますが、七竈と緒方後輩の関係性は言いしれぬ気持ちよさを感じました。
 ぜひとも手に取ってごらんになってみてください。

(初投稿:2016年9月3日)