ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書会レポート:志をもつ 『名人伝』

今回はこの本を紹介します。

 

名人伝

名人伝

 

 

 2018年4月7日土曜日、新宿の貸会議室にて読書会を行いました。今回も5人で行うことができ、人数は過去最多タイ記録でした!テーマ本は、「名人伝中島敦著)」でした。名人伝を収録する本には中島敦のその他の短編も収録されていることが多いので、会の後半ではほかの話についても取り上げました。
 「技芸を極める」ことを突き詰めた場合に紀昌が至った境地について、ほかの人はどう思うのだろうか、という声から選ばれたこの物語。趣味であったり仕事であったり人それぞれではありますが、人は多かれ少なかれ「極めるべきなにか」に従事しています。この「極めるべきなにか」は名人伝においては弓です。

あらすじ

趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、弓術を極めたいと思い立ち、さまざまな修行を経て至った境地は、常人には考えられないものだった…。

漫画的表現

 この名人伝、表現が漫画的で、たいへん面白い、という感想を持つ人は多いと思います。
たとえば、最初の師匠、飛衛に奥義を伝授されるシーン。

百本の矢をもって速射を試みたところ、第一矢が的に中れば、続いて飛来った第二矢は誤たず第一矢の括に中って突き刺さり、更に間髪を入れず第三矢の鏃が第二矢の括にガッシと喰い込む。矢矢相属し、発発相及んで、後矢の鏃は必ず前矢の括に喰入るが故に、絶えて地に墜ちることがない。瞬くうちに、百本の矢は一本のごとくに相連なり、的から一直線に続いたその最後の括はなお弦を銜むがごとくに見える。

また、紀昌が妻と口論する際に弓を射るシーン。

たまたま家に帰って妻といさかいをした紀昌がこれを威そうとして烏号の弓に基衛の矢をつがえきりりと引絞って妻の目を射た。屋は妻の睫毛三本を射切ってかなたへ飛び去ったが、射られた本人はいっこうに気づかずまばたきもしないで亭主を罵り続けた。

ほかにも、最初の師匠、飛衛との決闘のシーン。

二人互いに射れば、矢はその度に中道にして相当り、共に地に墜ちた。地に落ちた矢が軽塵をも揚げなかったのは、両人の技がいずれも神に入っていたからであろう。さて、飛衛の矢が尽きた時、紀昌の方はなお一矢を余していた。得たりと勢込んで紀昌がその矢を放てば、飛衛はとっさに、傍なる野茨の枝を折り取り、その棘の先端をもってハッシと鏃を叩き落した。

 この三つのシーンはすべて、文庫の見開き1ページ分に書かれた描写です。このように興奮を禁じ得ない(きわめて漫画チックな)表現が高密度に並べられており、それだけで大変面白いお話です。

紀昌はどうして山を下りたのか

 最初の師匠、飛衛との決闘ののち、紀昌は新たな師を求めて山に向かいます。向かう霍山(かくざん)には、「我々の射のごときは児戯に類する」ほどの達人・甘蠅老師が暮らしています。老師は弓を使わずに遠くを飛ぶ鳥を落とすことさえできる達人でした。紀昌はその達人の下で9年の修行を積んだのち下山して、もといた街へと戻ります。もといた街では、誰も紀昌の弓の腕前を見ることなく、そしてついには紀昌は、弓矢が何に使う道具だったかわからなくなってしまうというところで物語はおしまいになります。
 ここで一つの疑問が生じます。紀昌はどうして、山を降りたのでしょうか。
 物語の始まりはこうです。

趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。

 紀昌の目的は、天下第一の弓の名人になることだったのです。であれば、たとえば甘蠅老師に勝るとも劣らない弓の技を身につけた段階で目標は達成です。そのまま老師のように山で暮らしても別によかったはずなのです。しかし、紀昌は山を下りた。
 これにはさまざまな考え方が出ました。見方によっては、「弓の腕前を見せないようにして周囲をからかうつもりだった」とか、「単純に家があるから帰ったまで」のような帰着の仕方もあると思います。ただやはり、最初の目標は「天下第一の弓の名人」になることでした。これをふまえると、「人の評価を確かめる必要があった」という見方が僕は個人的に好きです。

目標の立て方

 物語は、紀昌が「志を立て」るところから始まります。多くの物語でもそんな始まりは多いです。しかし、「どうしてそういう志を立てるに至ったか」を僕は一番知りたいです。ですが、もしも詳細な説明が用意されていたら興ざめしてしまうというジレンマもあります。
 理由なんて「やりたいから」で十分なのですが、この「やりたい」を心の底から湧き上がらせるのはたいへん難しいのです。「やりたい」に対してたくさんの障害がたちはだかるのは世の常。生活の維持や、まわりの人間関係、守るべきものなどなど、それらをまるっと抱きかかえつつ、「やりたい」をやるエネルギーがあれば…。それか、ほかのすべてを投げ捨ててでも、「やりたい」を優先できる思い切りの良さがあれば…。
 ここでいうエネルギー、思い切りの良さというのは、「やりたいことそのものがもつエネルギー」なのか、それとも「やりたいことをやる人が備えておくべき力」なのか、と分けてみることができます。もしも前者であったなら、いろいろなものに触れて見知っておくことが重要ですし、後者であったなら、目の前の問題ひとつひとつに丁寧に取りくんで力を蓄えることが肝要です。こうして考えてみると、「どっちもやっておかないといけないですね」ということにたどり着いてしまいます。紀昌が思い立ったように、なりふり構わぬ修行の道に漕ぎ出してみたいものですが、なかなか我執が捨てられないというのが近頃のわたくしです。

おわりに

 今回は開催してからかなり時間が経ってからのレポートになってしまいました。鉄は熱いうちに打て、とはよく言ったもので、きちんと終わってから記憶の新しいうちに書かないと、ふくらみが失われるぞ、というお手本のような文章になってしまいました。
次回の開催・テーマ本は未定ですが必ず何かやります。ご興味のある方はお気軽にご連絡を。(注:2019年11月現在、これ以降の読書会は行われていません)

(初投稿:2018年5月21日)