ルジャンドルの読書記録

ルジャンドル(Twitter id:nattogohan_suki)の、読書メモを記します。

読書記録:政権交代とかいう次元ではなくて『選挙制を疑う』

この本を読みました。

 これは、デビット・ライスさん(Twitterid:@RiceDavit)が読んでいて、面白そうだったので取り寄せました。実際めちゃくちゃ面白かったです。

 

ガンジーの言葉だとされることも少なくないが、正しくは中央アフリカから伝わった名言がある。「私のために行なったことでも、私に相談しなかったのであれば、私の意思に反して行なったことになる」。要するに、これが今日の選挙型代議制民主主義の悲劇であろう。(p.115)

なるほど、ニューヨークの銀行家やボストンの法律家は、それぞれのニーズや不満に共感しあえるかもしれない。だが、マサチューセッツのパン屋やニュージャージーの港湾労働者のニーズや不満にも同じように共感できるのだろうか。(p.90)

 日本の安倍首相は、改憲に意欲的です。ただ、いまの政治制度では、各政党の意見を統合して出来上がった案に、我々のような末端の国民による国民投票で○か×かを決めるという形になります。これでは、国民の声を聞いた、といわれても、本当にそうなのか?と思ってしまいます。だって、ぼくらのような市民は条文の一文字にさえ、指一本触れることができないのですから。

 この本に書いてある「抽選制民主主義」と、それに伴って出来上がる「熟議民主主義」による意思決定が実際の政治の現場で取り入れられれば、その疑問は解消されるかもしれません。政権交代とかいう次元ではなく、国民の声がいまよりも反映される政治が実現できる可能性が大いにあるのです。

 この本にはとても重要なことが書かれていると感じました。そしてそれだけでなく、あまり本質的ではないですが、訳文がきわめて読みやすいです。翻訳書はその翻訳の質によって読む気がなくなるものが多いのですが、この本はその点もとてもすばらしいです。

民主主義とはなんですか?

 日本をはじめ、世界中の多くの国で「代議制民主主義」を基本にした政治制度が敷かれています。ですが、民主主義とはそもそもなんでしょうか。辞書では、「人民が主権を持ち、みずからそれを行使する政治」(ブリタニカ百科事典)と書かれています。

 筆者は民主主義について、次のように述べます。少し長いですが引用します。

「選挙」と「民主主義」は、ほとんどの人にとって同義である。我々は、代表を選ぶには投票所に足を運ぶしかない、という考えに囚われている。そうした考えは、そもそも一九四八年の世界人権宣言にも見られる。「国民の意思が政府の権限の基礎になければならない。その意思は、定期的に実施される公平な選挙によって表明されなければならない」〔第二一条第三項〕「表明されなければならない」というフレーズが、我々の物の見方を端的に示している。民主主義について語っているはずなのに、選挙について語っているのである。しかし、そうした一般的文書――人類史上、最も普遍的な法的文書――が、国民の意思がどのように表明されなければならないかを詳細に規定するのは、奇妙ではないだろうか。(p.42-43,太字は引用者)

人類は三〇〇〇年近く民主主義の実験をしてきたが、もっぱら選挙によってそうしてきたのは、たかだか二〇〇年にすぎない。それなのに我々は、それ以外に妥当な方法はないとみなしている。(p.44,太字は引用者)

 この指摘にはハッとさせられました。

 選ばれた「資質のある人物」が、われわれ市民の身近な問題からあまり関係ない問題まで、虫の目鷹の目で解決してくれる、という理想。

 これまでの民主主義の歴史は、投票権が認められる範囲を貴族や富豪から成人男性全員、そして女性、さらには年齢を18歳まで引き下げて、外国人にも認めてあげないと…という、「投票権獲得と拡張」の歴史である、という思い込み。

 そして、選挙を取り巻く状況――選挙戦を頑張る政治家、政治家のスキャンダルを伝えるメディア、選挙のときしか盛り上がらない世論、下がる投票率――はどこの国でも大きく変わらないという現実。

 われわれは、「民主主義国家に暮らしていますよ」と言われつづけることで、これが民主主義なんだ、と思い込んでいるだけなのではないのだろうか…?

 筆者は、過去二世紀にわたって選挙型代議制民主主義がうまく機能してきたということは認めつつも、それはいまではガタつき始めていると述べています。そしてその病巣は「民主主義=選挙」というわれわれの思い込みにある、ということを指摘し、抽選制民主主義という仕組みを紹介します。

民主主義のこれまでのながれ

 抽選制民主主義とは、読んで字のごとく「くじ引き」です。抽選制民主主義においては、くじなどで無作為に選ばれた国民が一定数集められ、法案や政策についての話し合いを経て、実際の方針が決められます。

 そんなことがうまくいくのか?と思うと思います。しかし本書では、民主主義の歴史と、「近年の民主主義」のはじまりを確認することによって、あながち突飛なアイデアではないことが示されていきます。

抽選制民主主義の過去の例

 仕組みや目的にはそれぞれ違いがありますが、抽選制民主主義を採用した国家はめずらしいものではなかったようです。ギリシャアテナイ(B.C. 462-322)、イタリアのヴェネチア(1268-1797)やフィレンツェ(1328-1530)、現在のスペインあたりのアラゴン王国(1350-1715)などが代表的です。抽選制を採用している国家では、数世紀にわたって政治的安定が生じることも少なくなかったそうです。

 モンテスキューディドロダランベール、ルソーなど、18世紀近くの啓蒙思想家は、抽選制は選挙制にくらべて民主主義的であり、抽選制と選挙制を併用した政治が望ましいと述べていたとも書かれています。

 たしかに、国民の誰もが、国の行く末を決定づける議論に参加できる仕組みは「主権は国民にある」と言ってよさそうです。制度がなかなかうまくできていたことも紹介されています。注意しなければならないのは、すべてが抽選で選ばれていたわけではなく、専門的な技能が必要な分野に関しては選挙が行われていたということです。

選挙型代議制民主主義のはじまり

 過去にはわりあいポピュラーで、支持者も多かった抽選制ですが、現在見る影もないのはなぜなのでしょうか。

 筆者は、ベルナール・マナンのことばをひきながら、いまのような選挙型の政治はフランス革命アメリカ革命でそれぞれ確立し、今まで続いている、と指摘しています。

『法の精神』や『社会契約論』の刊行から一世代も経ないうちに、統治者を抽選で任命する方法は、突如として跡形もなく消え去ってしまった。アメリカ革命やフランス革命の頃になると、まったくといっていいほど語られなくなってしまったのである。近代国家を築いた人々は、すべての市民が平等な権利を持つと高らかに宣言した。たしかに、選挙権の範囲については論争があった。しかし、大西洋の両岸ではいささかのためらいもなく、参政権を獲得したばかりの市民は、貴族主義的だと考えられていた選出方法で政府を任命することを、満場一致で決定したのである。〔p.84, 原典:Bernard Manin,1995: Principes du gouvernement représentatif. Paris, 108(édition 2012)〕

 こうなった理由は、抽選制が実務上むずかしいため、と研究者のあいだで考えられてきたようです。たとえば、歴史的に抽選制が採用されてきた国家に比べて、アメリカなどは面積がはるかに広いために代表者をひとところに集めにくく、抽選制の円滑な運営はむずかしいです。しかし、本当の理由はそこではなく、革命指導者の権益を保護することにあったということが、本書では語られています。抽選制が検討された痕跡は一切なく、むずかしいから断念したのではなくて最初からやる気がなかった…。

 革命指導者たちは、人民にはみずからを治める力がないので、政治はわれわれ有徳者たちに任せろ、という考えのもと選挙制度を導入したようです。この考え方は、民主政ではなく、貴族政と呼ばれる政治形態です*1。現代の日本でも政治家になるような人は実質貴族という感じがありますね。

 アメリカ革命やフランス革命で、人民は選挙権を勝ち取り、民主主義がそこから始まった!とよく言われていますが、そもそもはじまりからして民主主義ではなかったのです。民主主義の概念は存在していたのにもかかわらず、当時の指導者たちの言論のなかで「民主主義」という言葉の使用が明らかに避けられていた、という研究もあるようです。

 こうして選挙制度のはじまりを紹介してきた最後に、筆者はこう述べます。

このように考えれば、誰が選挙権を得られるかをめぐって延々と論争が続いたことや、選挙権が厳しく制限されたことも合点がいく。(p.98)

抽選制と熟議民主主義

 抽選制を持ち上げているけれど、本当にそれでうまく回るのか?というのは気になるところです。エリート主義はどこにでも蔓延していて、出処のわからない有象無象に政治を任せるなんてとんでもない、と考える人は多いのが今の世界です。独自の政治制度をもつ発展途上国にわざわざ出向いて、先進国が選挙制を導入する、という話もあります。

 筆者は、抽選制をいかにして価値あるものにするか、についてかなりの紙幅を割いて論じています。かなり細かい制度の話になってしまうので詳細は省きますが、カナダのブリティッシュコロンビア州オンタリオ州、オランダ、アイスランドアイルランドなど、抽選制を立法に取り入れる試みは2004年ごろから2013年ごろにかけてなされてきたようです。

 筆者は具体的な方策として、多体抽選制という制度を紹介します。これはテリル・ブリシウスという元政治家の学者の論文*2と、筆者とブリシウスとのメールのやり取りをもとに記述されています。具体的には本を参照していただきたいのですが、「志願者のなかから抽選」「全成人のなかから抽選」「志願者のみ」からなる人員編成の組織を6つつくり、必要な法案や法改正案を議論していくスタイルです。また、すべての期間を抽選制にするのではなく、立法府は選挙でえらばれる院と抽選でえらばれる院の二院制にすることなども提案しています。

 具体的な手続きにまでは踏み込みませんが、ここで提唱されている理論で重要なのは、その法案に利害関係のある市民や専門家の考えが、法案の制定や審議に反映されることです。日本の裁判員制度で、その場の雰囲気に流された無知ゆえの誤謬がないよう、裁判官が必要な説明を加えながら議論していくような形を思い浮かべていただけるとわかりやすいかと思います*3。このように、しっかりと正確さを担保しつつ、参加者同士が真剣に議論しあう熟議民主主義の形を提案するのが、この本の筆者の主張です。

抽選制への反論への反論

 本書の最終節では、抽選制に対するよくある反論(「一般市民に、そんなことはできない!」「政治は一筋縄ではいかない!」「無知な人々に権力を与えるのか!」「庶民に議席を与えるのか!」等々)に対する反論が羅列してあるページがあります。このページだけ丸写ししたいくらい重要なことが書いてあるように思えます。一部抜粋します。

・人々は現在、抽選で選出された市民に反対しているが、かつて農民、労働者、女性に選挙権を与えるの反対した理由と同じであることが少なくない。その自覚が重要である。当時の反対派も、彼らに選挙権を与えれば民主主義は死に絶えてしまうと主張していた。

・選挙で選出された議員が必ずしも有能であるとは限らない。(中略)単に、専門知識を授ける常勤職員に囲まれているからなのではないだろうか。

・抽選で選出された国民代表は、社会から隔離されるわけではない。専門家を招いたり、オピニオンリーダーに頼ったり、市民に意見を求めたりしてもかまわない。加えて、準備期間も与えられるし、文書を作成する事務局も用意される。

・我々は、ロビイストシンクタンク、様々な利益集団が関連分野で影響力を行使するのを是認している。だとすれば、なぜ我々は、最も関係の深い一般市民に発言権を与えることを躊躇しているのだろうか。

…(p.164-166)

 政権交代とかいう次元ではなくて

 ここまで、抽選制民主主義について書かれた内容を紹介してきました。この本から予想以上の刺激を受けてしまいびっくりしました。もしも抽選制が実現すれば、政党という概念はなくなって、抽選院の任期が終わるたびに政権交代以上の変化が起こり続けるようになります。さらにその制度の上では、選挙やそれを見越した人気稼ぎ、スキャンダルへの配慮などは不要になるので、もう少し本質的な議論が多くなされるようになります。特定の団体への便宜を図ったことを追及するための審議や、植物を見る会のために費やされる押し問答の時間などはすべて節約できるのです。こんないいことはないんじゃないだろうか。

 それと、抽選で選ばれる市民にとってもメリットはあると思います。裁判員制度の話を聞くと、いろんな出自の人と議論ができるし、きちんとした態度で臨む人ばかりで良い経験だった、という意見が多く聞かれます。この抽選型代議制も、参加した人に与える影響は大きいのではないでしょうか。実際自分が法案の制定やその妥当性を審議する立場になることを想像すると、かなりワクワクします。そこでのノウハウは、仕事とか家庭でもかなり活かせるんじゃないかな。

 この制度は現在の政治家の地位を脅かすものだし、いま生きている人たちは選挙制のない時代を生きたことがない人たちが大半ですから、実現にはかなりの抵抗があると思います。しかし、今後は理想の政治形態としてこの抽選型代議制民主主義のことをことあるごとに主張していきたいと思います。 

*1:モンテスキューは、権力が国民に帰する「共和政」について、次のような区別をしています。

「共和政において、国民全体が主権的権力を握っているとき、民主政と呼ばれる。一方、主権的権力が国民の一部の手に握られているとき、貴族政と呼ばれる」。(p.86, 引用元:モンテスキュー『法の精神』上、野田良之ほか訳、岩波書店岩波文庫]、一九八九年、第二編第二章、五二頁)

*2:Bouricius, Terrill G. (2013) "Democracy Through Multi-Body Sortition: Athenian Lessons for the Modern Day," Journal of Public Deliberation: Vol. 9 : Iss. 1 , Article 11."Democracy Through Multi-Body Sortition" by Terrill G. Bouricius

*3:

blog.kushii.net